第2話 纏わりつく夜

 寝苦しい夜が体にまとわりつく。

 雨はまだ続いている。

 昼にアスファルトを照らしたきつい太陽の熱気が、夜に上昇気流になり、雨の湿気と相まって不快感を増してゆく。


「アダム、眠れないの?」


 隣でむっくりと起き上がった青年に、寝ぼけまなこを向けながら、ジュリエットはベッドサイドの時計に目を向けた。


 文字盤に浮かび上がった文字は、AM0:05


「ここのエアコン、壊れたんじゃねぇの? ジュリア、お前、よく、こんな部屋で毎日、眠れてんな」


 鏡台の上のライトスタンドに明かりを灯した男の名は、アダム・M・フィールズ。この部屋の主 ― ジュリエット・カナリア ― とは児童養護施設で共に育った幼馴染みだ。


 鏡に映ったアダムのすらりとした姿。ジュリエットは、彼の背中越しにそれを見つめて、息をもらす。


 漆黒の髪。同色の切れ長の瞳。浅黒の肌と、顔立ちからすれば、東方からの移民なのかもしれない。

 ただ、アダムの出自は彼自身も知らなかった。唯一の肉親の母親が亡くなった今は、謎に包まれたままだ。

 母から児童虐待を受け続けていたアダムは、6歳の時に保護され、ジュリエットが暮らすスラム街の児童養護施設にやって来た。ファミリーネームも持たなかった彼は、養護施設の名をそのまま、自分の姓にした。


「まぁ、暑いといえば、暑いけど、裸で寝てりゃ何とかしのげるわよ」


 うふふっと、陽気に笑うジュリエットに、アダムは視線を向ける。


 彼とは対照的な、明るい小麦色の髪。青緑色マカライトグリーンのつぶらな瞳。白い肌。ただ、ジュリエットは、アダムにも増して自分のことを知らなかった。生まれてすぐに、捨てられたのだ。彼女の財産は、包まれていた産着に付けられた”ジュリエット・カナリア”と書かれた紙片だけだった。


「腹、壊すぞ。……ていうか、お前、いつも、夏はその姿か」

「まさか、ベッドで柔肌を見せるのは、今は、アダムだけ~」

「”今”は、か」

「うん!」


 うふと、可愛い笑みを浮かべる少女は16歳。

 呆れた表情で、立ち上がった青年は18歳。


 共に荒れた日々を送ったこともあるが、二人はスラム街出身の若者にしては珍しく、定職に就くことができた。ジュリエットはスラム街の病院の看護士。高い知力を見込まれたアダムは、支援者の後押しもあり競争率の高い、首都ルナシティ警察への入所が叶った。



「シャワー、借りるぞ」

「いいよ。でも、”今は”水しか出ないかも」


 アダムは、一瞬、口ごもり、思い立ったようにジュリエットの方に向き直る。


「なぁ、ジュリア、スラム街を出て俺の所へこないか。小さいアパートでもルナシティは、ここよりかは、ずっとましだし、治安もいい」


 今度はジュリエットの方が言葉を詰まらせた。


「……えっと、それは、もしかしてプロポーズ? だったりして!」


「滅茶滅茶……気が早いな。まぁ、それでも、いいけど……」


 言ってしまった後で、アダムは拙速すぎたかと、少し戸惑った。仕事にも自分自身にも、まだ、自信が持てるような状況ではなかったからだ。反面、ジュリエットには、傍にいて欲しかった。束縛したいなどという気持ちは、さらさらなかったのだけれど。


 けれども、ジュリエットは、


「だめ。私はスラム街からは離れない。勤めはボロい病院でも、私を待ってくれてる患者さんが沢山いるの。ルナシティには、私は行かない」


 アダムは顔をしかめた。ルナシティから、ジュリエットの勤めるスラム街の病院までは、電車を使えば20分足らずで着く。通うには容易い距離だ。ジュリアは何を怖がっている? おそらくは、スラム街を出ること自体におびえている。


「それにね……」


 もの言いたげな青年アダムを遮るように、少女ジュリエットは言った。


「もし、私たちが結婚して、子どもが生まれたら」

「ほんっとうに気が早いな。お前って、そんなことまで、考えてるのか」

「そうよ。だからね、アダム……私の話をよく聞いて」


 ダブついたTシャツを無造作に羽織ると、アダムの傍に歩み寄る。彼の背中にそっと触れるとジュリエットは言った。


「物心がつけば、子どもは必ず、聞いてくる。パパの背中にはどうして、こんなに沢山、傷やあざがあるの。首筋についている赤い模様は、いったい、何?」


 背中から首筋に回された少女の指先は、細くて温かい。けれども、アダムは無造作にそれを手で払いのけた。心に鉛色の雨が降ってくる。首筋に付いた消えない指の跡……6歳の時に実母に首を絞められた。そのことが世間に明るみになり、彼の児童養護施設行きが決まったのだ。


 鏡台の前にあるスツールに腰を降ろし、愛用のIQOSアイコスを口にくわえたきり、彼は沈黙した。


「それにね……好奇心のかたまりみたいな子どもには、ママにだって興味津々」


 加熱式タバコ独特のポップコーン臭が、今夜はやけに鼻につく。ジュリエットは、アダムの前に立ったまま、左の手首を彼の前に差し出した。


「子どもは聞くわ。ママの手首には、どうして、こんなに沢山、傷痕があるの。ぽつぽつ、付いている赤い点は、間違ってお鍋を触った火傷? 」


「よせよ、ジュリア。今更、そんなことを言うのは」


「ううん、言わせて。もしも、私たちが結婚して、子どもができても、パパもママも傷痕だらけ。虐待されて、やさぐれて、心も体も傷ついて……私なら、そんな両親は嫌。スラムの烙印みたいな傷痕を見るのも絶対に嫌!」


「だから、お前はルナシティには、行けないと? 俺と結婚なんて考えるだけで、虫唾むしずが走るっていうのかよ!」


「違うわ、アダム。私はあなたと一緒にしたい。今もこれからも!」


「……」


 気づまりな空気。窓に当たる雨の音が無言の部屋に響いている。互いに次の言葉を出すことが出来ず、居心地の悪さだけが増してゆく。

 痺れを切らしたアダムが、立ち上がろうとした時、彼のセルフォンの着信音が鳴った。


 時間はAM0:35


「こんな時間に事件でもあったのか」


 セルフォンに出た彼の耳元で、上司の刑事の声が響いていた。



 ― アダム、すぐにルナシティのエバンス邸に来てくれ。殺人事件だ。犠牲者は大富豪のエバンス氏。容疑者はエバンスの2番目の妻だ ―


 


 


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