第三部3
「何を言っている。オリガ、君は私を救うと言った」
「私にはあなたを救えません」
「いや、君なら私を救える。現に君は私を救ってくれたではないか」
「いいえ、私はあなたを救っていません。私の忠告がなくともあなたは生きていた。それどころか、イタリア軍を全滅させることもできていた」
「おいおい、そんな映画の主人公のような芸当は私にはできない」
「ですが、あなたの脳内ではその光景が思い描かれていた。そうでしょう?」
「…………」
確かに、戦争をほとんど経験していないイタリア軍に包囲されたところで、数多の戦場を生き抜いてきたイアンにとっては少数のイタリア軍を壊滅させることなど造作もないことだった。
もはやあの数では軍とも呼べなかった。
「あなたは戦場を楽しんでいました。あなたは瞳の奥で笑っていました。生き生きとしているあなたに狂気を感じたのです。そして、私にはあなたを救えないと確信しました。イアン、ごめんなさい。私にはあなたを救えません」
「そんな……」
最後の頼みの綱に突き放されて、イアンは絶望の淵から滑落した。
結局、オリガも私を見放すというのか。
水平線に見放されるのは構わない。
だが、彼女に見放されるのは嫌だ。
彼女こそが私の最後の希望だ。
彼女こそが……私を戦争依存症から救い出してくれる最後の希望だ。
「オリガ、それが君の真意か」
「はい」
イアンは混乱した。
思考がこんがらがり、わけがわからなくなった。
意志に反して左手が眼帯を外す。
右脚の代わりとなっていた義脚を外す。
イアンはバランスを崩してそのまま砂の上に倒れた。
「イアン!」
オリガが駆け寄ってくるが、イアンはその手に支えられることを拒んだ。
彼女が救いの手を差し伸べることを拒んだように。
仰向けになり、月を見上げる。
「オリガ、私を見ろ。私は生きているか? それとも、死んでいるか?」
オリガは何も答えなかった。
無言は後者を指していた。
それゆえに、彼女は何も答えられなかった。
「君は亡霊を愛せるか?」
「えっ?」
我ながらおかしなことを口走ってしまったな、と思った。
それでも言ってしまったからにはもう引き返せなかった。
「亡霊は君は愛している。君は亡霊を愛せるか?」
「……わかりません。私には亡霊の本心がわからないのです。存在しているのかさえ怪しい存在を愛せるかどうかなんて、私にはわかりません」
涙を浮かべるオリガを、イアンは力強く片腕で抱き寄せた。
彼女は胸板の上に倒れ込み、鼻先が触れ合うほどに急接近した。
「オリガ、君を愛している。人間を憎むことがあっても、愛することは初めてだ。だから、君の愛し方がわからない。どうやって君を愛すればいい?」
唇を奪おうとすると、オリガは顔を背けた。
「私を愛さないでください。私はあなたを愛していません、きっと。私があなたに感じているのは……きっと憐憫です」
憐憫――屈辱的な言葉だった。
イアンはオリガを解放して瞼を閉じた。
そうか、憐憫か。
それはそうだ。
憐憫がなければオリガは私を救おうとはしなかっただろう。
憐憫ゆえに彼女は救いの手を差し伸べていたのだ。
彼女もまた綺麗事を並べ立てる偽善者の一人だったのだ。
「オリガ、君には幻滅したよ。君なら私を救えると思っていたのに。君に人生を捧げたつもりでいたのに」
「ごめんなさい、イアン。私では力不足でした。あなたがここまで死んでいるとは思いませんでした。本当にごめんなさい。期待させるだけさせておいて何もできませんでした。絶望させてしまったことでしょうね」
「いいんだ。君のせいではない。元に戻ったと思えばいい。私は絶望の中に舞い戻った。ここが私の居場所なのさ」
「イアン……」
「憐憫はしないでくれ。憐憫されるのは嫌いだ」
「……わかりました。あの、一人で立てますか?」
「立てるとも。これまでもそうして生きてきた。一人で生きてきた。さあ、先に行ってくれ。一人にしてくれ」
オリガが視界からいなくなり、イアンは胸の奥から酸っぱさが込み上げてくるのを感じた。
それは喉までせり上がり、やがて嗚咽となった。
イアンは一人涙を流した。
氷の心が融解して液体となった涙。
彼は涙を拭おうとしなかった。
涙を流したのはいつぶりだろう。
兵士になりたての頃は戦友が一人死ぬたびにその分涙を流していた。
だが、戦友が死に敵を殺していくうちに涙は流れなくなっていった。
フィラデルフィアが爆撃されて家族が死んだ時も涙は流れなかった。
てっきり涙の泉は枯れたものだと思っていた。
「地獄だ……孤独は地獄だ……」
涙腺のしがらみが決壊し、蓄積されていた死が重くのしかかった。
死とは本来こういうものだ。
涙が流れる悲しみ――これが本来の死だ。
私は戦争で死の特別さを見失っていた。
オリガは私を救えなかったが、私に本来の死を思い出させてくれた。
それで十分だ。
透明な右脚に義脚を取りつける。
闇を見つめ続けている左目に眼帯をつける。
砂に足を取られながらも、イアンは一人で立ち上がった。
涙とは悲しみの結晶。
涙を流すから生きている。
生きているから涙を流す。
涙とは生の証。
美しき命の宝石。
私の気持ちは言葉にしても君には伝え切れない。
どうせ伝えられないのなら言葉にしても意味がない。
だから、言葉にはしない。
ただ愛しているとしか言わない。
君はこの唯一純粋な気持ちを受け取ってくれなかったね。
いや、当然だ。
君でなくとも私が愛する者は皆私を拒絶するだろう。
名残惜しいが、君のことは諦めよう。
「私もまだまだ若いな」
イアンは独りごちた。
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