姉の決めた許嫁

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姉の決めた許嫁

 幼馴染みの美夜の目に何が映っているのかが知りたくて、俺は美夜の目を覗き込む。金木犀の真下にできたオレンジの花びらの絨毯だったり、青と赤の境界で高い雲がすごいスピードで風に流されていく様子だったり、その目には俺が見逃してしまうものばかりが映っている。色素の薄い黄土色に重なるように映る景色は美しくて、本物の景色よりもその目に映る景色の方が美しいんじゃないかとも思う。

「美夜」

 呼び掛けると、美夜の瞳が俺を向く。美夜の瞳の俺は自分で洗面台の鏡で見る俺よりも、どこか格好よくて頼もしく見える。もしかしたら美夜がそう思ってくれているからだろうか? なんて都合のいいことを嘯きながら、俺は美夜の手を取り夕焼け空の中を二人で帰る。美夜の幼馴染みで、視界に入ることが許されること自体に優越感を覚えるほどに、美夜の瞳は美しい。



 美夜は姉達の決めた許嫁だった。

 美夜とはお隣さんで、歩いて五歩で家に着く。生まれた日も二日違いで、俺が少しだけお兄ちゃんだ。

 美夜は身長も低かったし、蚊も殺せない程優しくて、好きなミカンゼリーを食べきったら自分で食べたのに無くなったことが悲しくて泣いちゃうような、感情豊かで側にいるだけで世界がたくさんの色に溢れていることを教えてくれる子だった。

 でも少しどんくさいところがあるから、ずっと見守っていないとどこか危なっかしい。だから同い年にも関わらず妹のように接していたら、俺の姉と美夜の姉は「将来、咲人さきとは美夜ちゃんと結婚するんだもんね」と茶化してきた。うるさいだまれ、と覚えたての罵倒を姉に投げ付けるも『結婚』という言葉が頭から離れない。

 結婚、という自分にはまだ遠く大人になるまでは縁の無い言葉が身近に迫り、腰の辺りに抱き着く美夜がいつもとは違う物に見えてくる。幼馴染みでも妹でもない、別の関係に。

「じゃあ二人は許嫁だね」

 姉の言葉に孕む響きは甘く、思いの外自分の胸に染み渡る。

 姉達は当時やっていたアニメの主人公とヒロインが許嫁の関係だったから、それを遊びで身近な人に当てはめてみただけだ、と今となっては理解できるのだが、当時五歳の俺はその言葉を鵜呑みにした。

 将来、俺は美夜と結婚する。

 当時美夜のことを好意的に思ってはいたものの、美夜のことを好きだという自覚は無かった。しかし姉が許嫁と決めたことで意識せざるを得なくなる。

 美夜のことをどう思っているのか。隣に住む、生まれたときから家族ぐるみで付き合ってきた優しくて目が綺麗な女の子。

 美夜が──好きだ。

 横を向けば、視線に気付いた美夜がこちらを向く。美夜の瞳に俺が映る。強ばった表情の俺がいる。

 震える手で小さな美夜を包み込むように抱きしめる。普段だってこうして抱きしめることなんてしているのに、今日からは意味が違う。

「美夜は俺のことが好き?」

 思いきって聞いてみる。

「好きだよ! 咲人は一緒にいると楽しいから」

 無邪気に答える美夜は、きっとまだ俺とは違う「好き」なのだろう。それでもいいと思った。嫌いじゃないなら、今はそれで。



「次の時間、現国なんだけど教科書忘れてさ。貸して?」

 十分休憩の間に俺は隣のクラスの美夜の机へやってくる。

 小学校から高校まで、俺と美夜はずっと同じ学校だった。しかし関係としては特に発展せず、家族のような兄妹のような距離感で今に至る。

「いいけどさー……男子に借りなよ」

 怪訝そうに眉間に皺を寄せつつも、美夜は机を覗いて現国の教科書を探してくれる。

 美夜のクラスは次の時間は移動教室のようで、教科書と筆記用具を持った生徒がクラスから出ていっていた。美夜のクラスメイト達が去り際にこちらをちらりと目線を寄越している気がするのは、気のせいではないのだろう。

「わざわざ私に借りなくても良くない?」

「美夜は隣のクラスだし、席も廊下側だから借りやすいんだよ」

「それはそうなんだけどさ……」

 美夜は取り出した教科書を手の代わりにして俺に耳打ちをする。

「高校生になってもこの仲だから、『許嫁って本当だったんだ!』って小学校からの友達たちが茶化すんだって!」

 眉尻を下げ、困ったように美夜が言う。

「ダメなの?」

「ダメに決まってるでしょう! っていうか……嫌じゃないの?」

 美夜が周りを気にするように教室を見渡した。女子の三人組が、談笑しながら扉の方へと向かっている。話に夢中だったのに、教室を出る直前一人がやはりちらりとこちらを向いた。

「だって付き合っても無いじゃん」

「……まぁ、確かにそうだけど」

 許嫁ではあるけれど、言われてみれば付き合ってはいない。

 教室には俺達以外いなくなっていた。時計を見れば、あと二分で休憩時間が終わるというところ。まだ時間はある。俺は呼吸を整えて、言う。

「美夜は俺のこと好き?」

 声は上擦らなかった。美夜の前で努めて平静を装うけれど、心臓は激しい速度で鳴っている。赤くなりませんようにと思うけれど、耳が熱を持っているのを感じた。

「……嫌いじゃない、けど」

「じゃあ付き合おう」

 え、と驚いたように目を開き、動きを止める。次に視線をずらし、美夜はおそらく俺の耳を見る。美夜の目には赤くなった俺の耳が映っているのだろうか。ふっと息を吐き出すように笑った美夜は、続けてこう返答した。

「……よろしく、お願いします」

 美夜が頷いて、俺はにやける口を押さえるために手で口を隠した。手の下で緩んだ表情を、ちゃんとした物に作り直し美夜の前に手を差し出せば、美夜はその手を取った。

「よろしく。今日、久しぶりに一緒に帰ろう。テニス部が終わるの待ってるからさ」

「なんで告白がなんでもないこんな日なのかなぁ。まぁそういうところも嫌いじゃないんだけど」

 仕方ないと笑うみたいに美夜が呟いて、一度嬉しそうに俺に笑いかけ、「帰りね」という言葉を残して教室を出ていった。

 俺は教室に戻る。美夜がついに彼女になった。浮かれて頬が緩みそうになるところを抑えながら、扉付近にいた友人の肩に腕を掛け「何の話ー?」と極力いつも通り振る舞った。


 

「ごめん、遅れた。後輩の自主練にちょっと付き合ってて」

「いいよ、そのくらい。確かもうすぐ試合だもんな? 美夜は後輩にも優しいね」

 正直なところ、一時間以上待たされてうんざりしていたが、俺は美夜に相応しい理解のある誠実な彼氏でいたいからそう言った。

 美夜の困った顔は、パッと花が開くみたいに明るくなり優しく俺にはにかんだ。

「ありがとう。咲人も優しいね」

 夕焼けの光が美夜の瞳に映って、暖かいオレンジ色が眩しい。

 美夜は昔から変わらないなと思う。俺はそんなところも好きだ。俺達は並んで帰り道を歩き始める。

 いつものように世間話をしていることは変わらない。けれど今日は幼馴染みではなく許嫁で付き合い始めた美夜と咲人だ。俺は後ろを見て、前を見て、周囲に誰かいないことを確認してから、美夜の手をそっと取った。驚いた美夜が俯きながら、ぎゅっと手を握り返す。この日の夕焼けと美夜の手の温もりは、一生忘れない。



 付き合って三ヶ月が経った頃、一学期末のテスト前で部活も停止になったから俺の家で一緒に勉強をしようという話になった。

「明日の土曜日、美夜が勉強しに来るから」

「へぇー、久しぶりね。お菓子は用意しとくけど……」

 何か言いたげな目をしている母親を無視して二階に行こうとしたら、テレビを見ていたはずの姉が「へぇ! 美夜ちゃんがうちに!?」とわざとらしく言う。

「もしかしてついに付き合ったの?」

 あまりに直球過ぎる姉の物言いに、ぶはっと噴きながら一気に耳まで赤くなる。その姿で察した姉は訳知り顔で頷いている。

「そっか。とうとう……大事にしなよ」

「当然だろ!」

「あら、あらあらあら」

 母親はふふふと笑ってそれ以上は何も言わず、そそくさと台所へと行った。その日のおかずが俺の好きなオムライスだったのは、母なりのエールなのだろう。

 次の日、美夜は昼過ぎに家にやって来た。慣れた家なので、美夜はずんずんと俺の部屋に遠慮無く入り「全然変わらないねー。制服が変わったくらいか」と俺の部屋を見てそう言った。来客用の丸テーブルを部屋の真ん中に出し、向かい合って座り勉強を始める。美夜はあまり緊張もしてないようだったから、俺も平静を装って当初の予定通り勉強をしていた。

 うちへ来て二時間が経った頃のこと。

「勉強、飽きたな」

 その言葉に俺の心臓が奇妙なくらいに脈打った。何かの合図のように聞こえて、思考が止まる。目の前には公式に当てはめればすぐに解けるはずの数式が並んでいるのに、それは紙に乗ったただのインクに成り下がる。

 考えなかった訳ではない。久しぶりにやってきた俺の部屋。二人きりの勉強会。親は買い物に行っていて、姉は遊びに行っていて、一階には誰もおらず邪魔する者はいない。付き合って恋人になったなら、その先を望むのは当然のこと。昨日の夜は遠足の前日みたいに眠れなくて、今だって少しクマがある。

 付き合って恋人同士になったなら、まずは手を繋ぎ、その次があって、その次もあって――手順を踏んで先に進むもの。勉強という名目で集まってはいるけれど、俺はあわよくば先に進みたいとは考えていた。

 もしも美夜が同じ事を考えていたとしたら?

 美夜の様子を窺えば、視線に気付いたのかノートから掬うように視線が弧を描いて交わった。

 美夜がゆっくりと目を閉じる。応じるように、俺は顔を傾けて唇と唇がそっと合わせた。柔らかい唇だった。

 心臓の音が耳の側で鳴ってるみたいに大きく聞こえる。意識して呼吸しないと、酸素が肺に入ってこない。 

 クーラーを点けているはずなのに暑くて、背中を汗が伝っていく。

 離れると自分の唇がどこか寂しく感じた。俺は美夜の隣に座り直し、抱きしめる。潤んだ瞳の美夜が上を向いて、俺達は再びキスをする。

 その日、数学の問題はもう解かれることは無かった。



 美夜は朝練があるから、行きは別で帰りは一緒に帰ることにした。俺が美夜の部活が終わるのを待って、歩いて帰る。

 家の近くは家族も小学校からの友人も多かったから、少し遠回りして帰ることが多かった。茶化されたくなかったし、二人の時間を邪魔されたくは無かった。俺達を知らない人しかいない場所ならば、昔みたいに手を繋ぐことも出来たから。

 家から離れた大きな公園の、出入り口から遠い木の影は人目に付きにくいから俺達は最近そこで家へ帰るまでの時間を潰していた。

 腕を広げると美夜が飛び込んできてキスをする。そして段々と深くなっていく。

 頭が白んできて、何も考えられなくなってきて、下半身が疼くのを感じる。けれど、ここは屋外だ。キス以上のことはまだしたことはないし、こんなところでする訳にもいかない。

 俺は美夜を大事にしたいんだ。姉にもそう言われた。結婚する前に、美夜を汚すことは出来ない。

 美夜は俺の考えを知ってか知らずか、子どものときみたいに腰の辺りに抱きついて上を向く。

 綺麗な目だ。食べてしまいたい。俺だけを向いていて欲しい。

 衝動のまま瞼にキスをして、薄く開いた目を軽く食むようにして、そして舌を這わせた。少しだけしょっぱい味がする。涙の味だ。

 美夜は「わ」と息を飲み、パチパチと音が鳴りそうな瞬きを繰り返す。

「痛かった?」

「痛くない。意外と、全然」

 そっか、と言いながら目尻にキスをして、目蓋にキスをして、再び軽く瞳を舐めて、頬にキスを落とす。

 肩に手を回す美夜の手が、俺の学ランをぎゅっと握る。目尻にキスを落とす度に、美夜の手が強く握られた。美夜の声が小さく漏れる。

 美夜の瞳が俺のものになったのだと思った。

 今はここまで。これ以上のことは、美夜を大切にしたいからしない。俺は美夜の味を知れただけで満足だった。

「美夜は大学どこにするの?」

 公園のベンチに並んで座る。当然のように、手を繋いでいて、美夜は頭を俺の肩に預けていた。涼しくなってきた空気の中に、美夜の重さと温度が心地よい。

楓雲ふううん大学にしようかと思ってる。ちょっと遠いけど、あそこの文学部に行きたいんだ」

 美夜はやりたいことが定まっていて素敵だなと思う。そういうところを俺は見習いたい。

「俺もそこにしようかな」

「いいの? 咲人はもっと上に行けるんじゃない?」

「美夜とずっと一緒にいたいから」

「私に合わせなくてもいいんだよ? 勿体ない」

「特にやりたいこと無いし、今は美夜と一緒にいることが一番大事なんだ」

「じゃあ……一緒の大学に通えるね」

 大学は美夜と同じ大学を受けることにした。少しでも美夜と一緒にいたかったから。



 俺も美夜も大学に合格した。そこで一つ問題が浮上する。楓雲大学は隣の県で、電車で通学するには少し遠いのだ。だから一人暮らしをしたいと両親に打診したのだが。

「美夜ちゃんと住めばいいじゃん」

 姉が無責任にもそう口を挟むのである。考えたことが無かった訳ではないが、まさか姉が提案するとは思わなかった。

「まぁ大学生になったんだし、あんたも美夜ちゃんもそうしたいならいいんじゃない? お父さんもいいよねぇ?」

「淀木さんが了承するならいいんじゃないか?」

 母も父も追い打ちをかけてくる。まさか美夜の家は承諾しないだろうと思っていたら、

「咲人くんなら安心! 変な虫が付かないように、美夜のことをよろしくね」

 などと俺を信頼しきった返答をされ、あれよあれよと俺と美夜の同棲が決まったのだった。 

「俺が変な虫になる可能性は考えてないんですかね……」

 大学の側の広めのマンションを借りた。お互いに一部屋ずつある、ルームシェアを想定したマンションだった。家賃は一人で住むには高いが、二人で住むにはかなり安く済む価格だ。

「咲人、何か言った?」

「なんでもないよ。授業はどれを取ろうかなって言っただけ。美夜はサークルとか入るの?」

「もちろんテニスサークルに入るつもりだよ」

「テニサーか……」

 大学のテニサーというものは悪い噂が尽きない。テニスサークルという名前が付いてはいても、その実態は飲みサーだとか、ヤリサーだとか。

「明日は新歓があるから、ちょっと遅くなるよ」

 楽しそうに言う美夜に、俺は一抹の不安を感じた。……変な虫から守るのも俺の仕事じゃないのか?

「俺も行っていい?」

「咲人、テニス出来ないのに!?」

 俺はテニスを始めとして、球技全般が苦手なのである。

「心配じゃん……」

「大丈夫だよ。受験のときに出来た友達もいるし」

「じゃあその友達にも挨拶するついでに……」

「心配性だな。そんなに言うなら、一緒に新歓行こう」

 まだ荷解きをしていない段ボールに囲まれながら俺達は並べた布団に入る。

「ねぇ咲人、今日から二人でここに住み始めるんだね」

「そうだね。おやすみなさい」

 俺は美夜の許嫁で、姉にも言われているし大事にしたいから、結婚するまで美夜に手は出さない。同棲も俺に課せられた試練なのだと思っている。

「え、うん……おやすみ……」

 そうして俺達は初めての夜を過ごすのだった。

 テニスサークルの新歓は、五時に大学の正門集合だった。二人で家を出て待ち合わせ場所へと向かう。美夜は最近買ったのであろう初めて見る服を着ていた。似合っているけど……肩が出ていた。

「その服、露出高過ぎない? 男はそういうの好まないよ」

「えー可愛いじゃん。私は大人っぽい大学生を目指してるの!」

 そう言う美夜のバッグには可愛いアザラシのキャラクターの小さいぬいぐるみが付いていた。

「大人っぽい大学生を目指してるなら、キャラ物ってどうなの?」

「……可愛いじゃん」

「可愛いかもしれないけど」

 そうして話していると、背後から「美夜ちゃん!」と呼び掛ける声がした。

「冬音ちゃん久しぶり! 髪染めたんだ、似合うね」

「美夜はその服可愛いじゃん。隣の人は?」 

「俺は美夜の彼氏の鈴鹿咲人です。美夜がお世話になってます。仲良くなったって話してて気になってたんですよ」

「噂の彼氏さんってこと!? 美夜いい子ですよね。いつも世話になってるのはこっちの方ですよ! この前だって――」

 美夜と冬音ちゃんと話していると、テニスサークルのメンバーが段々と集まっていた。「こんにちは」と控えめな声が掛かってそちらを向くと、俺よりも背の高い黒いシャツを着た男が立っていた。その姿を見付けた冬音ちゃんがその男とハイタッチを交わす。

「珀じゃん!こちらは美夜とその彼氏さんだよ。珀はバイトが一緒なんだよね」

「初めまして、枚方珀です。珀って気軽に呼んでくれると嬉しいな」

 人懐こそうな笑顔で珀という男は笑った。

「美夜ちゃんのそのカバンのぬいぐるみ可愛いね。好きなの?」

「はい、好きなんです!」

 美夜が嬉しそうにそのぬいぐるみを見せている。なんだかいけすかない男だな……と俺は少し嫌な気持ちになっていた。

 時間になると俺達はサークルの先輩方の後を付いてチェーンの居酒屋に入る。美夜と俺は知り合いだからとテーブルを離されてしまった。俺は隣のテーブルの会話に聞き耳を立てる。

「珀くん、大人っぽいね」

「俺は浪人組だからね。美夜ちゃんよりも一つ年上なんだ。けど学年は一緒なんだし、気にしないで欲しいな」

「何学部?」

「経済学部だよ」

「なんで経済学部にしたの?」

「俺の住む町は田舎で段々人口も減ってるんだよね。柚子とイチゴが名産なのに知名度無くてさ。町おこしが出来たらと思って経済学部に入ったんだ。俺、地元が好きだからさ」

「珀くん、しっかりしてるんだね」

「そんなこと無いよ」

 そんな会話が遠くから聞こえてきた。そうしているうちに新歓は終わる。

「二次会行こうかと思うんだけど」

「バイトあるから、俺はいけないんだよな……」

「冬音ちゃんもいるし、行ってきてもいい?」

 心配だけど、ここは美夜を信用して送り出した方がいいのだろう。

「いってらっしゃい。あんまり飲み過ぎないようにね」

 美夜を送り出す。俺は居酒屋のバイトが終わり家に帰ると美夜はもう家に着いていて、ほろ酔いなのか布団に安らかに寝ていたのだった。

 


 それから数ヵ月が経った頃、美夜が何やらずっとスマートフォンを気にしているようだった。ご飯を食べていても、どこか上の空だ。

「友達が困ってるから、行ってきていい?」

 冬音ちゃんだろうか? 美夜は優しいな。

「いってらっしゃい。俺は先に寝とくね」

 そう言って俺は美夜を見送り一人で布団に入った。次の朝になっても美夜は帰ってきていなかった。

「ただいま……」

 美夜が帰ってきたのは午前十時頃だった。美夜の様子がおかしかった。頑なにこちらを向かないのだ。

「なぁ美夜、その首元の赤いの何? 虫刺され?」

 反射的に美夜は赤い跡を隠すように首元に手を当てる。美夜の目はこちらを向かないまま中空を泳いで、俺を見ることを避けるように伏せられる。

「これは……虫刺され、かな」

 困ったように半笑いで言い「痒いなー」なんて取って付けたように呟いてみるけれど、全てが張りぼてで画面を一枚隔てた映画か何かのように見えた。これが現実であることの気持ち悪さと共に俺は確信する。

 美夜は――嘘を吐いている。

「昨日って、本当に友達の家に泊まったの?」

「そうだよ。私のこと信じてくれないの?」

 白々しくそんなことを言う美夜に吐き気がした。昨日までの美夜とは、何かが違う。そんなことを言う美夜を俺は知らない。

 タートルネックに手を掛けて、露になるように下に下げた。赤い跡は一つではなく、無数に存在した。服を捲りきれない胸元にまで跡は続いている。

 頭が真っ白になる。これ以上思考を進ませてはいけないと直感が言っている。

「これ、何?」

「ダニ……かな」

「俺をそんな言い訳で騙せる男だと思ってるの?」

 ぐらりと足元が崩れるようなめまいがした。嫌な予感が、よぎった。最悪な予感が。

「友達って、誰」

 思い当たる名前は一つあって、そうじゃないですようにと願いながら俺は聞く。本当は聞かなきゃいいのにと頭の中の別の俺が言うけど、聞かないまま美夜とこれから過ごすことなんて出来なかったから聞いてしまった。聞かなければよかったのに。

「……珀くん」

 一番出てきてほしくなかった名前だった。

「まさか、最後までしてないよね?」

 最後の一線は超えてないでくれ、と願いながら続きを待つ。

 美夜は迷子みたいに目を彷徨わせた後、細めて俺のいないところを見て、すっと背筋を伸ばしてこちらを見据えた。多分いま、美夜が何か腹を括った。知らない瞳と対峙する。

「した」

「なんで……?」

 声が震えないように、情けない声にならないように気を付けながら、聞いた。

「咲人は私のことが好き?」

「好きに決まってるだろ?」 

「私って、魅力ない?」

「俺は、美夜のことを大切にしようと思って――」

 美夜が体を許すわけが無いのだ。だから悪いのはきっと珀の方。

「珀のやつ、美夜に無理矢理――!」

「やめて! 珀くんは悪くないから」

 その声に耳を疑った。なんで美夜がそんなことを言うんだろう? 無理矢理された訳でも無いっていうのか? まさか美夜が、望んで?

「なんで美夜が珀を庇うの!?」

「だって……珀くんは優しいもん。珀くんは彼女とうまく行ってなくて、私も相談に乗ってもらってて、それで……」

 俺は頭に浮かんだことをそのまま口に出せば、美夜はそんなことを言ってのける。確かに珀は優しい……だろうけど、俺だっていつも美夜のことを考えて、美夜に優しく接していただろう?

「ごめんね。ごめんね。珀くんは、私の好きなものを受け入れてくれたし、優柔不断じゃないし、先のこともしっかり考えてるし――」

 頭の中が沸騰して、感情のまま美夜をその場に組み敷いた。押さえ付けた手首が捕えられた魚みたいに動いている。首元に咲いた赤い花を摘み取るように食らい付く。赤は中々消えなくて、俺の赤で塗り潰していく。歯の痕が残るくらい、噛み付いた。

 抵抗はしているけど、美夜は「やめて」なんて言わなかった。悪いことをしたと言う自覚があって、こんなことをされても仕方ないと思っているから美夜はそんなことは言わないみたいだった。だから俺は止まらない。

 美夜の服を全て脱がせてベッドに転がし、俺はベルトを外して屹立した自分を顕にした。

 きっと一度入れてるからすぐに入るんだろう? そう思って無理に突っ込んだら、すんなり入った。「いたい」って小さく言った気がするけど、二度目なんだしそんなわけ無いよね。血も出てなかったし。

 温かいな。けどこの温かさはもう他の奴が知ってるんだろう? この感触も他の奴が知ってるんだろう? 美夜の中は俺じゃない他のやつの形になってるんだろう? 気持ちいいかは分からなかった。悔しさしか無かった。はっきり言って、惨めでしかなかった。

「……ひどいよ、咲人」

 その声で正気に戻る。自分の下にいる美夜が、可愛いはずの美夜が、顔をぐちゃぐちゃにしていて、そんな姿にしたのが他でもない俺自身であることに気付いてしまって、途端に後悔と取り返しの付かないことをしてしまったことに蒼白になる。

 おかしいな。こんなはずじゃなかったのに。初めてはお互いに初々しく、分からないなりに俺がリードするはずだったのに。お互いに幸せすぎてどうにかなっちゃいそうになるはずだったのに。なんだこれは。

 途端に自分は萎んで勝手に抜けてしまった。

 ならばと思い直し、俺は美夜と顔を合わせることにする。美夜の瞳がこちらを向いた。

 これだけは、俺の物。

 いつものように瞼にキスをして、舌を這わせようとしたところで嫌な予感が再びした。 

「まさか瞳も許してないよね?」

 美夜の瞳から流れる涙が、更に量を増していく。嗚咽が漏れて、それが答えだった。

 美夜はもう、全部俺の物じゃなくなった。

「ごめん、咲人。ごめん……」

 謝りながら被害者みたいな顔をしている美夜が気持ち悪い。これは誰だろう。知らない人かもしれない。俺は俺の知る美夜が好きだったけど、本当の美夜は手で目を隠して泣きじゃくっている。

 俺の美夜はどこだろう。

 知らない人を家に置いて家を出て、行く宛もなく夜道を歩く。どこかへ行きたかった。どこにも行けないから、足だけでもどこかへ。

 姉が許嫁と決めてから、高校で付き合って同棲するまで、うまく行っていたはずだったのにどうしてこうなったんだろう。ゆっくりと走馬灯みたいに今までのことを思い出していけば、どこが悪かったのか分かるだろうか。初めて美夜を好きだと自覚した日を思い出し、付き合った日のことを思い出し、これまで美夜と過ごした様々な日々を思い出して――そこで俺は間違えた、と思った。どこが悪かったのかが分かったわけではない。これまでの楽しかったことを思い出そうとしても、自分の下で泣きじゃくる美夜の姿がよぎるようになってしまった。俺はあんなことをしてはいけなかったのだ。

 おかしいな、いい思い出だったのに。つい数時間前までは、そんなはず無かったのに。

 自分の中の彼女までも、俺が汚してしまったのだ。いい思い出さえも俺が汚して失くなった。

 なぁ、美夜。俺たちはどこで間違えたんだろうな。


  


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