53話
「さて、何を書くか」
九月中旬の休日、治乃介は文芸祭に向けた短編の小説を考えていた。
いろいろと草案はあるもののしっくりくるものがなく、彼には珍しいことだが、なかなか書き出しが決まらない。
「そう、だな……ああ、あれがいいかも」
そこでようやく一つの案が浮かんだ。
なにかといえば、以前牙山大吾との戦いで生み出した【春】を題材とした小説である。
文字数的には二万文字に届かない短い小説であったが、制限時間があったがために完成には至らず中途半端なところで止まっていたのだ。
今回はそれをもっと簡略し、さらには春という題材を変えて春夏秋冬にまで範囲を広げる。そして、その文字数も長編にするには少し短く、短編にしては少し長い四万四千四百四十四文字にし、一つの季節ごとに一万一千百十一文字という切りのいい文字数にすることを思いついた。
そうすることで春夏秋冬という季節の移り変わりと、四季折々の描写を表現しようと考えたのだ。
「いざ、参る」
そう言いつつ、治乃介の創作活動が開始された。
今回の題材は四季ということに加えて、文字数制限も設けられているため、ちょっとした縛りがある執筆となっている。
当然、今まで自分が思うままに書いていた時よりも難易度が上がり、思うようにいかない場面が見受けられた。
「ああ、二百文字も文字数オーバーしてる。どこか削らねば……」
プロの小説家にとって、こういった誤字脱字や特定の条件を満たすために加筆修正したり、不必要な部分を削ったりなどの校正作業は当たり前のことであるが、日常茶飯事にあることだ。
治乃介の場合【勇者伝説】の一巻に関してすべての編集をみゆきが行ってしまったため、こういった編集をすることに慣れていないのだ。
まるでタイルにこびり付いて離れない頑固汚れのような、長年使い続けたことで蓄積された汚れと悪戦苦闘しているような錯覚を治乃介は感じていた。
だが、その作業に集中しているうちに彼は幻覚を見た。
それは、春夏秋冬がまるで早送りをしたかのように高速で季節が変化している光景で、それが自身の書いた小説の内容と同じであることに気付いたのだ。
「これが、俺の世界」
クリエイターにとって自分が生み出した創作物は、クリエイター本人が作り出した世界に等しい。
それに共感し、堪能しているのがユーザーであり、彼ら彼女らはクリエイターの世界に浸っている存在でもある。
視覚的に自身が生み出した世界を見た治乃介は、そのあまりに幻想的で美しい世界に改めて日本の四季の素晴らしさを実感する。
そして、その錯覚を見たことで思ってもみない誤算が生まれた。
「……ここはもうちょっとこうした方がいいな」
なんと、光景を見て作品の情景の微調整が可能になってしまったのだ。
これによってさらに上の表現にまで到達できることを知った治乃介は、あろうことかその嬉しさのあまり、その限界に挑戦してしまったのだ。
もはや小説を書くというよりも、自身の目に映る光景を編集ソフトを使って編集しているような気分だが、凝り性の彼にとってこういった単純作業は嫌いではなかった。
その結果、第三者から見ても相当なクオリティの作品へと昇華した。たった四万文字強の文章が、誰もが認める名作に化けた瞬間であった。
「ただいまー」
気が付けば時間が経過しており、時刻はすでに夕方となっていた。
今日は定時で帰ってきたのか、珍しくみゆきが早く帰ってきた。
ずっと小説に集中していた治乃介が、未だ椅子に座って余韻に浸っていると普段台所にいるはずの彼の姿がないことを訝しんだ彼女が彼の部屋までやってくる。
「おーちゃんただいま。この時間に台所にいないなんて珍しいわね」
「ああ、さっきまでずっと小説を書いてたからな」
「ずっと? ……読ませてもらってもいいかしら?」
治乃介の言葉に引っ掛かりを覚えたみゆきは、彼が先ほどまで手掛けていた作品を読みたいと口にする。
特に見られて困るものでもないため、それを了承した彼が軽く体を伸ばした後、椅子から立ち上がってその場所をみゆきに譲った。
彼女が椅子に座って、できたばかりの小説を読み始めた姿を確認した治乃介は、そのまま台所へと向かう。シンクの流しに置いてある洗ってあったコップを手に取り、水道の蛇口を捻るとそこから水が流れ出てきた。
それをコップで受け止め、ある程度溜まったところで蛇口を元の位置に戻し水を止める。そして、その水を一気に煽るように飲んだ。
「ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、ぷはぁー生き返る」
長時間飲まず食わずで執筆していたため、腹どころか喉も乾いていた今の彼にとって、たった一杯のコップの水がまるでオアシスから湧き出たような水のように感じてしまう。
そう感じてしまうのは、それだけ作業に集中していた証であり、その作業に見合う成果として彼の中でかなり手応えのある作品に仕上がった自信があった。
文芸祭のコンテストがどういった形式で行われるのかその詳細はわからないが、一番いい賞とはいかないまでも【がんばったで賞】くらいは貰えるのではと治乃介は思っていた。
「さて、母さんも帰ってきたことだし、すぐに夕飯の支度をしないとな」
「おーちゃん……」
そんなことを治乃介が呟いたその時、突然みゆきが現れ彼の後ろから声を掛けてきた。一瞬ビクッとなる治乃介であったが、すぐに振り返りみゆきの姿を視界に捉える。
「ちょっとだけ待っててよ。すぐに夕飯の支度を――」
「そんなことはどうでもいいわ! それよりも、あの小説は一体なんなのよっ!?」
「なにって、文芸祭に出品する予定の短編小説だけど?」
「……なさい」
「なに?」
「今すぐうちで書籍として出しなさい!!」
「は?」
一体どういうことかと問い詰めれば、彼の執筆した作品の質に問題があった。
問題といっても、悪い意味ではなく良い意味でなのだが、みゆきが治乃介の書いた小説の出来栄えを確かめるため軽く読んでみた。だが、読み進めるうちにその小説に引き込まれていき、気付いた時には読み終わっていたのだ。
そこで彼女は一つの幻覚のようなものを見たらしい。それは、治乃介が執筆中に見た光景そのものであり、まるで映像作品を見せられているかのような錯覚を覚えたという。
質の高い小説とは、文字を通して作者が思い描いた情景を読者に想像させるものであり、そういった名作はなかなか出てくることはない。
芥川龍之介・太宰治・夏目漱石など、歴史にその名を残した偉大な文豪たちも、初めからその才能を遺憾なく発揮したわけではなく、時と共にそういった才能を開花させていったのである。
だというのに、わずか十五歳という若さの治乃介が、その才能の片鱗を見せてしまったことにみゆきは困惑してしまった。
もともと父の才能を受け継いでいることは彼が初めて書いた小説から感じ取れ、彼女は懐かしい気持ちを抱いた。しかし、今回のこれはその懐かしい気持ちとは別のなにか……強いて言えばずっと満足していなかった自分を満足させてくれるような高揚感に似た感情であった。
「こんなもの、いち高校の小説コンテストに出していいものではないわ! 書籍にすれば売れるのがわかってるのに、わざわざコンテストに出す意味がないもの」
「母さん、ちょっと落ち着こうか」
それから、みゆきをなんとか説得し、書籍化する話は文芸祭のコンテストに出してその結果を受けてからということになった。彼女としては、今すぐにでも編集長に掛け合って出版したかったが、もともと治乃介が文芸祭のコンテスト用にと書いていたことと、作家として本人の意思を尊重することを優先した結果となった。
「じゃあ、そういうことだから文芸祭のコンテストに出してからにして」
「わかったわ。でも、話は進めておくから!! ……もしもし、編集長? うちのホープがとんでもないものを生み出したから、無名玄人短編シリーズとして書籍を出すわよ」
『ちょ、ちょっとみゆき君? いきなり電話してきたと思ったらなに? 短編シリーズ?』
「いいから、あなたは黙って私の言うことを聞きなさいっ!!」
『僕、編集長なのに……』
治乃介が夕飯を作っている間、みゆきは編集長の佑丞に電話を掛けていた。相変わらずのパワハラまがいな強引さで話を進める彼女だが、のちに治乃介の小説を読んだことでなぜ彼女がここまでプッシュしてきたかを佑丞は知ることになり、その小説の出来栄えに舌を巻くことになるのだが、それはまた別の話である。
こうして、とんでもないものを生み出してしまった治乃介だが、この小説を巡ってまたまた一波乱あることをこの時の彼はまだ知る由もなかった。
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