21話



「なーにが“では、また”よ。あいつ、逃げたわね」


「……」



 佑丞がいなくなった会議室で、みゆきの不満気な声が響き渡る。

 確かに、今考えれば返答に困るような問いであったと感じたため、治乃介の質問に答えず逃げるように会議室を出ていったことについて咎めるようなことはしない。



 とりあえず、編集長との顔合わせが終了したので、今日の目的は一応ではあるが達成された。



「母さん、もう帰っていいよね?」


「こうなったら、後で肉体裁判よ……」


「母さん?」


「ん? あ、ああ何かしら?」


「……」



 もはやここに居ても意味はないと判断した治乃介は、みゆきに帰ってもいいかと問い掛けた。

 だが、彼女の瞳にはこのあとどうやって佑丞を料理してやろうかという意思がありありと浮かんでおり、それはまるで獰猛な獣が獲物を見定めているような錯覚を覚えるほどであった。



 そんな母親の姿に、目を細めて訝し気な表情を張り付けるも、このままずっと彼女を見張っているわけにもいかないので、佑丞の無事を祈りつつ治乃介は英雄社を後にした。



 外へと出ると、先ほどまでの重苦しい雰囲気を吹き飛ばすような雲一つない快晴が広がっており、その清々しさに治乃介は両腕を天高く上げて体を伸ばす。



 彼が固くなった体を解していると、そこへ予想外の人物が声を掛けてきた。



「あ、あの」


「ん? ああ、隣の席の」


「桜井です。桜井美桃です」



 治乃介の前に現れたのは、彼と同じクラスでしかも隣の席の住人でもある桜井美桃であった。

 なぜ、彼女がこんなところへ現れたのかと一瞬考えたが、彼女の職業を思い出し、治乃介は頭に浮かんだ疑問を自己解決させる。



「打ち合わせ?」


「はい。新刊の構想について担当の方と」


「ふーん」



 英雄社において美桃桜子こと桜井美桃の立ち位置は、今と時めく期待の星という位置付けとなっている。



 若干十五歳にして、すでに累計販売部数八十万部を達成しているれっきとした作家先生であり、英雄社の中でも上位にランクインする実績を持っている。



 彼女以外にも秘めたる能力を持った実力者は存在すれども、これほどまでに世間にその実力を認められている小説家は少なく、差し詰め表舞台のスターといったところだ。



 そして、そんな彼女もまた次の新刊についての打ち合わせを行うということで、治乃介は曖昧な返答をしつつも、脳内で考えていた。



(あれれぇー、おかしぃーぞぉー? なんで彼女にはちゃんとした打ち合わせがあるのに、俺にはそれがないんだぁー?)



 まるで見た目は子供頭脳は大人な某漫画のような台詞となってしまったが、彼の疑問はもっともである。



 通常は小説というものを本にする際、あとがきや著者プロフィールなどの小説家本人が書く項目がいくつか存在する。

 しかしながら、場合によっては小説家が直接関わっている部分は本編となる小説部分のみであり、それ以外はすべて担当の編集が代行しているということもある。



 治乃介の場合がそれであり、みゆきはぎりぎりまで彼に自分が小学生の頃に書いた小説を本にしたという事実を隠蔽するため、そういった部分をすべて彼女が代筆してしまったのだ。



 これは小説を書くということ以外、治乃介に余計な負担を掛けさせないというみゆきの配慮でもあり、逆に言えば小説以外のことに関わらせないようにしているとも言い換えることができる。



 つまりはどういうことかといえば、他の作家とは異なり、特に具体的な打ち合わせをする必要性がなく、彼の仕事はまさに“小説を書く”ということのみやっていればいいわけである。



 これはかなりの好待遇であり、仮に作家が執筆した小説がWeb小説発祥だった場合、書籍限定の短いオリジナルストーリーを書いてほしいと要求されたり、下手をすれば物語の根幹となる内容を強制的に変えられたりするという可能性すらある。



 だというのに、みゆきが治乃介に対し要求しているのはたった一つで、小説を書くということだけであり、それ以外はすべて彼女が受け持つということを暗に示していた。



 だが、治乃介としてはそういった小説家あるあるに精通しているわけでもなく、せっかく自分が書いた小説が本になるのだから、もっと小説家らしい仕事をした方がいいのではないかという彼の勤勉さが窺えた。



「あの、文豪寺君はこんなところで何を?」


「ん? ああ。ここ、俺の母さんの職場なんだ」


「そ、そうなんですね」


「だから、たまに忘れ物を届けたりしてるんだよ」



 美桃の疑問に治乃介は返答したが、ここで二人の間にすれ違いが生じる。

 治乃介は美桃に対して今回英雄社にやってきた理由ではなく、普段英雄社にやってくる理由を話してしまったのだ。



 これは、別に彼が美桃に自分が勇者伝説を執筆した件の作家【無名玄人】であることを知られたくないという思いからそんな話をしたのではなく、ただ純粋に自分が英雄社を訪れる主な理由を話したに過ぎない。



 そもそも、治乃介に小説家としての自覚はなく、今もただ母親のみゆきに“小学生の時に書いてた小説の続きを書いてほしい”というお願いを聞く形で執筆しているだけであって、そこに作家としてのプライドも小説家としての誇りやこだわりも何もないのだ。



 一方の美桃はといえば、この一か月の間にあった【文芸技術】という授業で治乃介の文章をいくつか見ており、そのあまりの表現しがたい引き付けられる何かがあるということで、もしかすると小説家か何かをやっているのではないかという疑いを持ち始めていた。



 そんな中、自分が世話になっている英雄社の本社前で背伸びする彼を発見し、まさに点と点が線となって繋がったと美桃は内心で“やっぱり小説家だった”という確信を強めた。



 だが、詳しい話を聞いてみると、ただ英雄社に勤めている家族がいて、その家族の忘れ物を届けにたまたま訪れたという偶然の産物であったというものであった。



 それを聞いて、美桃は内心でがっかりするも、幸か不幸か彼女の推測通り治乃介は小説家であり、彼女も気になっている例の新人小説家の無名玄人その人なのである。



 まるで一昔前に流行った、すれ違いから生まれるシュールなコントを繰り広げるお笑い芸人を彷彿とさせるが、残念なことに今回は計算された笑いではなく、偶然から引き起こされた出来事である。



 そして、それ以上の会話が続くことなく二人の間に沈黙が訪れる。

 治乃介も美桃もおしゃべりな方ではなく、学校のクラスメイトという共通の話題がなければ、本来あまり関わることのない二人なのである。



 お互いに気まずい雰囲気が漂う中、その沈黙が一人の人間によって破られることになる。

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