19話
「えーっと、食器洗剤はと……」
奇妙な少女との出会いを果たした治乃介は、近くのスーパーに買い物に来ていた。
その目的とは、切らしてしまった洗剤などの雑貨類の補充のためである。
文豪寺の家を任せられている身として、そういった物資を枯渇させることは許されないことであり、彼も毎回気を付けていたのだが、小説を書くという彼にとっては趣味に近いことをやり始めてしまったため、家の物資の在庫状況の確認を疎かにしてしまったのである。
「あった。これと、あとは……石鹸とクリーンクリーンだな」
心強い主婦の味方というキャッチフレーズの洗剤を手に取り、買い物かごへとぶち込んでいく、このまま食材の補充を行うべきか迷ったが、一旦雑貨だけに留めておき、また改めて治乃介は出直すことにした。
スーパーから出てきた治乃介の表情は明らかに明るいものへと変わっており、まるで新作のゲームを手に入れた学生が、今から家に帰ってプレイするんだというようなウキウキ顔であった。
とてもではないが、彼の表情を見て“家事が捗る物資が補充できて喜んでいるんだな”と思う人間は、その場にはいなかった。……たった一人を除いては。
「うおっ、な、なんだ!?」
周囲に向ける意識が散漫となっていたのか、突如として治乃介の視界が真っ暗になる。
一瞬のことで驚く治乃介だったが、それが誰かが自分の目を塞いでいるということに気付くまでそれほど時間は掛からなかった。
「だーれだ?」
「こんなところで、何やってるんだよ母さん。この時間なら出社しているはずだけど?」
自分の視界を塞いだ人間の正体を、治乃介は一瞬にして見破った。
元より交友関係の少ない治乃介に、そのようなことをする仲のいい友人などいるはずもなく、もしいたとしても、それは決して女性ではなく男性になるだろう。
後ろから聞こえてきた声が女性の高い声だった時点で、そんな馬鹿な真似をする人物に心当たりがあるのは自分の母親だけだとすぐい答えが出たのである。
「えー、なんでわかったの?」
「こんな馬鹿な真似をする人間、母さん以外にいないだろ?」
「おーちゃんひどーい。血を分けた実の母親に向かって、言う台詞じゃないわよ」
「だからこそ、こんなことを仕出かすのは母さんだってわかるんだよ」
「なるほど、ということは私とおーちゃんは相思相愛ということね!」
「……」
母親の言葉に治乃介は内心で呆れる。
確かに、彼は母親であるみゆきに家族としての愛情を向けているし、みゆきもまた一人息子の治乃介に今まで愛情を注いで育ててきた。
だがしかし、相思相愛などというのは、どちらかといえば恋人に使う意味の言葉であり、親子間で使用するには些かの違和感が生じてしまう。
特に思春期真っ只中の治乃介としては、母親と仲がいいというのは悪いことではないと思いつつも、この時分の若者によくある“異性の家族と仲良くするのは格好悪い”という感情を抱いていてもおかしくはない。
そんなことを思われているとは露知らず、母親が突然話題を変えてきた。
「そうだ、ちょうどいいところに会ったわ。おーちゃん、今暇よね?」
「いや、これから食材の買い出しに一旦家に戻って――」
「じゃあ、ちょっとついて来てちょうだい」
「お、おい! 忙しいって言ってるだろう。母さん。聞いてるの? 母さん」
思い立ったが吉日というか、猪突猛進というか、思ったことをすぐに行動に移すみゆきは、息子の腕を引いてある場所へと連行しようとする。
治乃介としては、これから食材の買い出しを行いたかったため、緊急の用事でなければ断るつもりだったのだが、すでにみゆきの中では彼をどこかしらに連れて行くというのは決定事項であったため、彼の返事を待たずにそのまま連行されていく。
ここで普通ならば、高校生の息子とその母親であれば男と女という違いから、大抵の場合物理的な力関係は息子に軍配が上がる。
だが、この親子は少々特殊な関係性であり、息子よりも母親の方が物理的な力が上なのである。
動物的な例を挙げれば、治乃介がチンパンジーであるのなら、差し詰めみゆきはマウンテンゴリラといったところだろう。
それほどに二人の力関係は歴然としており、そんな母親を振り払えるかといえば、ほとんど不可能に近い状態であった。
彼にとって幸いだったのは、食材を買い込む前であり、すぐに冷蔵庫に入れて保存しなければならない物資を購入する前だったということだろう。
かくして、母親に連れられ、治乃介はどこかへと連行されることになったのであった。
〇×△
みゆきに手を引かれること数十分後、とある建物へと到着する。
母親とはいえ、どこか自分の知らない場所へと連れて行かれるのではないかと多少なりとも不安になっていた治乃介だったが、そこは彼も見知った場所であった。
その場所とは、英雄社の本社だ。
みゆきが副編集長としてその手腕を遺憾なく発揮している勤め先であり、言うなれば彼女の縄張りでもある場所である。
「ここよ」
「ここよって……なんで今更英雄社なんかに」
「なんでって、作家としてここにくるのは初めてでしょ? 編集長にご挨拶くらいしておきなさい」
治乃介は以前にも何度かこの場所へやってきたことがあり、その時はみゆきの関係者としてだったが、彼女の言い分としては作家としてデビューしたのだから、改めて挨拶をしておけということらしい。
母親の独断で勝手に人の小説を書籍化された治乃介としては、挨拶しろと言われても自分の意志で書籍化に同意していない以上、関係のないことであったが、現状小説を書いている以上、どこかのタイミングで出版社との情報共有は必要なことであると彼も感じていた。
であるからして、みゆきの提案は治乃介としても望むところではあった。
しかし、頭では理解しているものの、勝手に書籍化しやがったというみゆきに対するやっかみのような感情が残っているため、彼女の指示に素直に従うのはどこか癪だと感じていたのである。
「母さん?」
「おーちゃんに黙って、おーちゃんの小説を黙って本にしちゃったのは悪かったと思ってる。でも、私も二十年この業界でやってきた編集マンとしての誇りとプライドがあるの。おーちゃんの小説を読んだ時、夢を見ちゃったのよ。この小説なら行けるって。それと同時に、こんな作品が世に出ることなく埋もれていくなんて許せないし、許されないって。でも、それは完全におーちゃんの意志を無視した形になるってことだから、母親としては失格ね。ごめんなさい」
「……」
プロとしてのプライドか、母親としての慈愛か、そのどちらか一方を選択しなければならない状況に立たされた時、みゆきはそのどちらもを捨てることはできないのだろう。
治乃介も今回の一件については、起こるべくして起こったことであると解釈しており、みゆきが小説を出版するという点において一切の妥協ができないことは理解していた。
だからこそ、今回の一件を防ぐのであれば、小説などというものを残しておいた治乃介の過失であり、それをみゆきに見られればどうなるのかは大体の予想を付けることはできたはずだ。だというのに、治乃介は思い出の品として残してしまった。
だが、そんなみゆきの態度に治乃介はズルいと思ってしまう。
自分が勝手に小説を本にされたことを心のしこりとして残していることをすぐに看破し、それについて謝罪してくる彼女に、母親に駄々をこねているような感じがしてむず痒いような自分をわかってくれているという嬉しいような何とも言えない感情を治乃介は感じていたのだ。
先ほど、治乃介が目を塞がれた時真っ先に母親であるという結論を付けたように、みゆきもまた治乃介の考えていることが感覚的に理解できてしまうのである。
「別にもう怒ってないよ。ただ、そういったことは事前に相談して欲しかったってだけ。もう今更なかったことにはできないし、小説の続きも書いてるから。それに母さんが小説に対して妥協しないってわかってるから」
「おーちゃん……」
「だから、次から気を付けてくれればそれで――わぷっ」
「あーもう、可愛すぎっ! んまっ、んまっ、んまっ、どうして私の息子はこんなに可愛いのー!!」
「んー、んー!!」
治乃介がみゆきを許した途端、感極まったのか、彼の頭をそのまま胸に抱き、そのまま熱烈なキスを何度もお見舞いする。
これが他人であれば、絶世の美女といっても過言でないみゆきの行為を嫌がらないだろうが、息子からすれば堪ったものではない。
何よりも治乃介が堪えたのは、まだ二人のいる場所が人の往来がある通りであり、みゆきが治乃介を抱きかかえる姿を他の人間に目撃されてしまっていることだ。
みゆきの口から出た“息子”という単語から母親が息子を愛でる仲睦まじい光景ということで、生温かい視線を向ける者がほとんどであるが、中には“あんな美人な母ちゃんにチュッチュしてもらえるなんて羨ましい”などという嫉妬の視線も混じっていた。
それはそれとして、第三者に見られながら母親に愛でられるなどという恥辱プレイ甚だしい行為を許容できるほど、今の治乃介の精神は成熟していない。
もっとも、これが成熟した精神を持つ大人の男性であっても、果たして母親からの直接的な愛情表現を許容できるのかという問題となってくるが、今はとにかくこの恥辱から逃れなければならないと考え、治乃介はみゆきのふくよかな胸に埋もれる自身の頭を起こし上げる。
「ぷはぁー、母さん何してんの!?」
「私の息子がこんなに可愛いわけがないを体験中?」
「そんなことより、さっさと行くよ」
「あらあら、おーちゃんたら、いつの間にやらこんなに逞しくなって……」
立場逆転とはこのことで、今度は治乃介がみゆきの腕を取って英雄社の本社ビルに入っていくことになった。
本人は、恥ずかしい現場を一刻も早く去りたいというただの逃亡行為に過ぎなかったが、幼い頃から彼を見ているみゆきにとってはそれが男らしい行為に映ったようだ。
治乃介がみゆきを引き連れて英雄社の本社に逃げ込むように入っていくと、再びその場に静寂がやってくる。
こうして、治乃介とみゆきの二人は彼女が勤める英雄社の本社へやって来たのであった。
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