15話
「ちょっと、いい加減放してくれないかしら?」
治乃介と別れた零は、未だに自分の腕を引っ張って歩いている男性に向かってそう懇願する。
だが、彼女の扱いが慣れているのか、その願いが聞き届けられることはなかった。
「ダメです」
「もう逃げないから」
「そう言って、手を離した途端逃げるんでしょ? もう同じ手は通用しませんから」
「ちっ」
男性とのやり取りから、零が以前にも同じような状況になった時に逃亡していることが窺える。
彼もそのことを覚えており、今度こそ逃がさないようにするために、彼女の手を離さないようにしっかりと掴んでいた。
男性の頑なな態度に、今回は逃げられないと悟った零は、そのまま大人しく連行されていくことを選択する。
二人が向かったのは、零が作家として専属契約を結んでいる出版社である【アクト社】だった。
出版業界最大手といえば、まず名前が上がるのが【英雄社】だが、その次に上がるのが、アクト社である。
英雄社と双璧を為すとまではいかないものの、出版業界の中でも大手の部類に入るアクト社としては、英雄社をライバル視せざるを得ない。二人が向かっているのは、そのアクト社の本社であった。
「編集長、連れてきました」
「おう、ご苦労だったな。仕事に戻っていいぞ。……さて、小娘。何でここに呼ばれたか、わかっているよな?」
零が連れてこられたのは、様々な業種の企業が建築したビルが立ち並ぶビル街に存在する建物の一つで、そこがアクト社の本社となっている。
各階のフロアには、乱立したように設置された灰色の仕事机があり、そこに編集社員が一人一人あくせくと業務を行っていた。
そんな中、一際目立った男の姿があった。
彼の名は、宇梶武虎(うかじたけとら)といって、アクト社の本社のすべてをまとめ上げる編集長を務める。アクト社のボスだ。
百九十センチはあろうかという巨体に、まるで軍人を思わせるような筋骨隆々な肉体は、編集長というよりも部隊長や軍団長という肩書きの方が似合うのではないかと思うほどだ。
迷彩柄のズボンから出ているサスペンダーが印象的だが、何よりも彼の異常性を高めているのが、身に着けている衣服がズボンのみで、上半身は裸なのである。
五月上旬といっても、まだまだ朝の早い時間帯や夕方頃には肌寒く、上着がなければ風邪を引くかもしれない。だというのに、この男……武虎は上半身が裸なのである。
三十代半ばの脂の乗っている時期であるその男は、精悍な顔つきとすべての髪を剃り上げたスキンヘッドの見た目をしている。
身に着けている迷彩柄のズボンと相まって、ますます彼を軍人らしい見た目に昇華させてしまっていた。
そんな姿の男が、腕を組みながら見下ろすように睨みつける様は、例え大人であっても恐ろしさを感じてしまうところである。
しかしながら、ある一定の才能を持った非凡なる存在は、得てしてそういった凡人が考え付くことのさらに上を行く存在であると改めて思い知らされることになる。
「何を言っているのかさっぱりわからないわ。あたしは忙しいの。くだらないことで呼ばないでちょうだい。このハゲ!」
「……あのなぁ、人をいつもいつもハゲだの何だの言っているが、俺のこれは剃り上げてんだ! 何もしなきゃ、ちゃんと髪が生えてくんだよ!!」
「だからどうしたっていうのよ。剃っていようが何だろうが、髪がないことに変わりないじゃない」
「ぐっ」
もう慣れてしまったのか、それとも恐れ知らずなのかはわからない。
だが、零が武虎に怯えることはなく、あまりにあまりな言い草で武虎の追及にとぼけた様子を見せる。
そんな彼女の態度に武虎が抗議の声を上げる。それに対し、反論できないもっともなことを零が口にする。
突然のカウンターパンチをくらった彼は、言葉を失い黙り込んでしまう。
だが、彼もまたいち出版社の編集長のポストにおさまるほどの人間だ。
たかが十年やそこら生きた程度の小娘にやられっぱなしではない。
「また書店と揉めたらしいな? 何度言えば判るんだ。書店と揉め事を起こすんじゃない!」
「あれは、あたしの本を一番目立つ場所に置かないのが悪いのよ! あたしは悪くないわ」
「それはただのおまえの我が儘だ。日之国屋書店には、俺から直接謝罪の電話を入れたから事なきを得たが、これ以上の我が儘を言うのなら、こちらにも考えがあるぞ?」
「な、なによ?」
「そんな我が儘を言う悪い子ちゃんは、お仕置きが必要だ! こうしてやる!!」
「ふがっ」
反省の色を見せない零に武虎は、ついに直接的な行動に打って出る。
警戒されないようさり気なく距離を詰め、その圧倒的な身体能力の高さを利用し、彼女の懐を取る。
そして、徐に自身の親指と人差し指を零の両頬を摘まむようにして挟み込み、その摘まんだ頬を外側に引っ張った。俗に言う頬を抓る行為である。
いきなり両頬に痛みが走った零は、その痛みを与えた人物に抗議の声を上げる。
「ふぃふぁい、ふぁふぃふるふぉよ(痛い、何するのよ)!!」
「おまえが反省するのを促すための罰だ。甘んじて受けるがいい」
「ふぃふぁい、ふぃふぁいっふぇふぁ(痛い、痛いってば)!!」
些か子供染みた罰ではあるが、大の大人の武虎の鉄拳制裁を幼気な少女にくらわせるわけにもいかない。
もし、零が女子高校生でなく男子高校生であれば、武虎とて拳骨の一つくらい落として済ませるが、残念なことに零は少女であるため、限りなく力を使わなくて済む頬を抓るという行為を選択したのだ。
いきなりのことに、最初は焦っていた零だったが、冷静になって考えれば、このままただ黙って頬を抓られてやる道理はないという結論に至り、彼女も反撃を開始する。
「ふっ」
「あいたぁー。てめぇ、やりやがったな!!」
零の頬を抓るため、至近距離まで近づいていたことが裏目に出る形となってしまい、彼女の渾身のキックが炸裂する。
その蹴りは、サッカーのトウキックのようにつま先で蹴る形の攻撃となり、不運にも武虎の脛に直撃する。
所謂、弁慶の泣き所と呼ばれる向こう脛に零のトウキックが直撃してしまい、その痛みに武虎の動きが一瞬止まる。
しかしながら、常日頃から無意味に体を鍛えている武虎にとって、いくら人間の急所である向こう脛を蹴られたところで、少女である零の脚力は弱く、精々が一瞬動きを止めるだけに過ぎない。
すぐに戦線に復帰した武虎は、更なるペナルティを貸すため、彼女の頬を摘まんでいる両手の引っ張る力を強めた。
「ふぃふぁいふぃふぁい(痛い痛い)!!」
「うおっ、てめぇ、こっちの両手が塞がってるのをいいことに、蹴ってくんじゃねぇ!!」
「ふぁら、ふぇをふぁふぁふぇふぁふぃふぃーふぇふぉーふぁ(なら、手を離せばいいでしょうが)!!」
「手を離したら、てめぇ逃げるだろうが! 反省の色がないてめぇを野放しにはできねぇんだよ!!」
零が再び武虎の脛を狙ってくるも、すでに一度見た動きであったため、彼も足を使って対抗し始める。
本当なら、距離を取って彼女の蹴りの射程範囲外に離脱したいのだが、それをやってしまうと彼女の頬を摘まんでいる両手を離すことになってしまう。
そうなれば、零が次に取る行動は逃亡であり、そうなってしまえば、事実上武虎の敗北が確定してしまう。
三十代のおっさんと十代の少女が、体裁を気にせず見苦しく攻防を繰り広げる様は見るに堪えず、大人気ないやら子供っぽいやら、もはや何と突っ込んでいいかすらわからない状況だ。
だが、そんなカオスな状況であるにもかからわず、誰も二人を止めようしない。その理由は、主に三つある。
一つは、面倒事に巻き込まれたくないということだ。
以前同じ状況になったときにある社員が止めに入ろうとしたところ、二人の攻撃の余波を受けて負傷するという事件が起きてしまった。そのため、怪我を恐れて誰も二人を止めることができないのである。
次に、社員全員の業務が忙しいということである。
アクト社全体が受け持つ業務と、それを消化するための人員の割合を見た時、やや人員が少ない傾向にあり、実質的に一人当たりが担当する仕事量が他の出版社と比較して多いのだ。
所謂、ややブラック寄りの会社であるため、余計なことに気を取られていると、その日にやるべき仕事ができず、ほぼ間違いなく居残り残業を強いられるのである。
もちろん、残業すれば残業手当が出るのだが、やはり定時に帰れるのであれば帰りたいというのが労働者の心理であり、個人的な喧嘩に割って入るなどただの骨折り損のくたびれ儲けになってしまう。
最後に、自分たちが手を出さなくとも、この二人を止める役割を担っている人物がいるということだ。
今し方、その噂の人物が外回りから帰ってきており、零と武虎が争っている姿を視認する。
その人物は、一つため息を吐くと、近くにあった雑誌を手に取り、何の迷いもなく二人に近づくと、その雑誌を丸めて素早い動きで二人の頭を叩いた。
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