9話
「文豪寺め、生意気なことを言いやがって」
授業が終わり、職員室へと戻っている道中、一森は先刻の授業について悪態を付く。
互いの主義主張が交わらない時、何かしらの形で決着を付けなければならないことは、この世界の歴史的にもままあることであり、それは決して珍しいことではない。
それが話し合いによるものなのか、武力行使による戦争なのかという内容の違いだけであり、今回は三者面談という形を取ってはいるものの、これは一森と治乃介の個人間での戦争である。
「だが、あいつの主張にも一理あるところがなくもないんだよなー」
そういった意味でも、教師としてはあまり褒められた行為ではないことを口にした一森だったが、あとになって冷静に考えれば、治乃介の主張は決してそのすべてが論理的に破綻しているわけではなかったと彼は思った。
ただ、一森にも教師という職業に特別な思い入れがあり、治乃介の書いた文章にはそれを真っ向から否定するようなものであったため、彼としても感情的になってしまったことは否めなかった。
だが、いくら第三者の視点から見て大人気ないと後ろ指を指されようとも、人間譲れないこだわりや主張というものが時にはあり、一森にとってそれが教師という職であっただけに過ぎない。
「それはそれとしてだ。まさか、この俺がたかが十五歳そこそこのガキが書いた文章に感情的になるとはな……」
それとは別に、一森は自分の心境の変化に驚いていた。
彼が受け持つ【文芸技術】という科目は、文章についてのあれこれを学ぶものであり、彼自身こういった類の荒っぽい文章に出会ったことも少なくはない。
だというのに、自分がこれだけ感情的になることが彼自身の中でも珍しいと感じており、なぜここまでムキになるのかと客観的視点から見ても不思議に思っていた。
「ま、まさか。この文章……」
そして、一森は一つの可能性を見い出す。それは、治乃介の書いた文章が特殊なものであるという可能性だ。
改めて彼の書いた文章を読み返してみる。すると、文面はどこにでもあるようなありふれたものなのにもかかわらず、自分の心の奥底にある感情に訴えかけるような何か得体の知れないものが存在していることが感じ取れる。
具体的にどういったものなのかは、一森にも説明できない。だが、ありとあらゆる文章を見てきた彼にとって、感情を揺さぶられるような文面自体にお目にかかれる機会は少なく、それは大抵プロの物書きが手がけた作品と呼ばれるべきものがほとんどだ。
だというのに、彼が感情を揺さぶられた文は、高校生になったばかりのまだまだ世間知らずのクソガキといっていい少年が書いたものだった。
ありとあらゆる可能性を考えた結果、一森が出した結論。それは、治乃介の書いた文章に自分の感情を揺さぶられる何か特別なものが込められていたという可能性だ。
「言葉にはパワーが宿るって聞いたことがあっけど、文章も同じもんなのかもしれんな」
などと、少しだけ哲学的な話をする一森だったが、すぐに頭を振ってその考えを棄却する。
あまりに突拍子もないことであるし、何よりも科学的な根拠に欠ける。それならば、治乃介自身にそういった才能があると結論付けた方がまだマシである。
「あんな、口だけは達者なガキなんかに文才があるっていうのかよ……。おそらく、文豪寺の能力に気付いたのは、俺以外だと桜井くらいか」
半信半疑だが、自分以外にも治乃介が持っている能力の特異性に気付いたであろう人物の名を一森は口にする。
彼も決して治乃介を殺したいほどに憎んでいるわけではなく、いち生徒として彼が持った才能をどう活かすかどう伸ばしてやるのかを第一に考えてやれるくらいには考えている。
一森自身が、治乃介が書いた文章に対して口にした通り「教師という職業に誇りを持っている」ということについては事実なのだから。
「まあ、それとは関係なく、あいつとは個人的に決着をつける必要があるとは思ってっけどな」
教師とて、一人の人間であることに変わりはない。時には個人的な感情で物事を見てしまうこともあり、頭ではわかっていても納得できないことというのは、生きていればいくらでもある。
今後、治乃介と向き合うためにも、ここで個人の感情に折り合いをつけるという意味でも、一森は敢えて治乃介と対峙することを選択したのである。
「とりあえず、あいつの親に電話すっか」
彼の選択が吉と出るか凶と出るかはわからないが、どちらに転んでも一つの結論が出ることは間違いないと自分に言い聞かせるように呟きながら、出席名簿を片手に一森は職員室へと歩を進めるのであった。
〇×△
「よお、大先生。ずいぶんと大立ち回りをやってたな。見ていて面白かったぞ!」
「ちょっと、やめなさいよ」
一森の授業が終了後、次の授業がある休み時間に健一と咲のコンビがやってきた。
開口一番、一森とのやり取りについて突っ込んでくる健一を咲が窘める。
そんな様子を隣の席から窺っている人物がいるとも知らず、治乃介は何故この二人が事あるごとに自分のところへとやってくるのかということを考えていた。
治乃介がそのようなことを考えていることにも気づかず、健一が話し掛けてきた。
「ところでよ。最近新しい書籍が話題になってるんだが、大先生は知ってっか?」
「書籍?」
「ああ、無名玄人っていう新人の作家さんなんだが」
「ぶふぉっ」
「どうした、大丈夫か?」
突如として出てきた自分のペンネームに驚いてしまい、治乃介が吹き出す。そんなことにもお構いなしに、健一が続きを話し始める。
「内容はよくある王道ファンタジーものなんだが、どこか引きつけられる魔力のようなものがあってな、一気に読み切ってしまった」
「あんたがそこまで褒めるなんて珍しいわね」
「ああ、早く無名玄人先生の新刊が待ち遠しいぜ!」
「……」
その無名玄人本人である治乃介としては、複雑な気持ちであった。その作品は、かつて自分が暇つぶしに書いただけのただの落書きのようなものであり、治乃介としてはただただ自分の欲望のままに書き殴っただけのなんの思いも込められていない駄作であったからだ。
もちろん、執筆中はその物語のことを考えていたため、構成的には問題なくストーリーが進んでいるが、100%治乃介が“これは面白い”と納得した上で書き上げたものかと言われれば、彼としては首を縦に振ることは到底できなかった。
「あ、あのっ」
「うおっ! これは桜子先生!!」
「……その呼び方はやめてください。学校では、一人の作家としてではなく、一人の生徒として通うつもりでいますので」
「あいてっ、咲何すんだよ!?」
「ごめんなさいね桜井さん。こんなやつの言うことなんか無視してくれちゃっていいから。私は小鈴木咲。小さい鈴木って書いておりんぎよ。咲って呼んでちょうだい。ほら、あんたも自己紹介しなさい!」
健一が治乃介が過去に書いた小説を絶賛する中、その会話に割って入ってくる人物がいた。
先ほどから、チラチラと治乃介に視線を向けていた人物の正体、桜井美桃である。
言わずと知れた有名人である彼女は、その容姿と纏う雰囲気によってあまり話し掛けられることがない。
中学生時代も特定の友人はいたので、決してぼっch……もとい、孤高の存在ではなかったのだが、それでも気軽に彼女に喋りかける人間は少なかった。
見目麗しいというのは、一つの武器ではあるものの、それはあくまでも社会に出てから通用するものであり、学生時代に他者と関わり合うという点においては、あまりその優位性が発揮されない。
どことなく近寄りがたい雰囲気を持つ彼女に、積極的に話し掛けようというチャレンジャーはおらず、高校生活が始まって二日目だが、クラスメイトも遠巻きに彼女の様子を見るだけであった。
しかしながら、社交性の塊である咲からすれば、そんなものは関係ないとばかりに美桃に話し掛け、あまつさえ健一にも自己紹介をしろと促す始末。
健一としても、憧れの作家さんに自分を知ってもらえる機会ということで、若干興奮気味に自己紹介をした。
「ご機嫌麗しゅう。私は山田健一というしがない小説オタクでごぜぇます。桜井様とお目に掛かれましたこと、恐悦至極に存じ上げ――がぶらっ」
「固い固い。なにが、ご機嫌麗しゅうよ。次、文豪寺君」
健一の仰々しいまでの挨拶がお気に召さなかったようで、咲が物理的に突っ込みを入れる。
一方の美桃も少々困惑気味ではあるものの、健一の名前は記憶の片隅に置いておくとして、挨拶自体はなかったことにした。哀れ、健一。
そして、今度は治乃介に自己紹介を促してくる咲だったが、彼としては別に自己紹介をする必要性はないと考えていたが、それでは咲が納得してくれそうになかったため、ここは空気を読んで名乗っておくことにしたのだ。
「文豪寺治乃介。以上」
「ちょっと、それだけ? 名前を言っただけじゃない」
「桜井美桃です。よろしくお願いします。ところで、その。文豪寺君に聞きたいことがあるんです」
治乃介の簡潔な自己紹介に不満を漏らす咲だったが、美桃自身はさして気にした様子もなく、彼に問い掛ける。
一体なんだと先を促すように治乃介が彼女と視線を交差させると、美桃は自分の聞きたいことをはっきりと口にする。
「文豪寺君って、何か本を出版してたりしますか? 例えば、小説とか」
「え?」
美桃の問い掛けに、治乃介は素直に聞き返してしまう。
いきなりそんなことを直球で聞かれるとは思わず、また彼女の性格からいってそういった聞きにくいことは濁した形で聞いてくると思っていたからである。
しかしながら、彼女もプロの作家としてのこだわりを持っており、自分が関係することであればずけずけとまではいかないものの、こういった鋭い質問を飛ばしてくる性格の持ち主なのだ。
彼女の質問を受け、治乃介は即座に頭の中で逡巡する。
結論から言えば、美桃の問いに対しての治乃介が口にする答えは否定の一択だ。
みゆきの策略によって、望まない形での作家デビューとなってしまった治乃介にとって、自分が本を出版しているということを学校の人間に知られるというのは具合が悪かった。
中途半端なことを嫌う彼にとって、すでに世に出てしまった物語の続きを執筆するということはやぶさかではない。
だが、自分が執筆活動を行っているということを不特定多数の人間に知られるということは、彼の中で知られてはならない事項の中にリストアップされていたのだ。
それ故に、美桃の質問に対して治乃介の返答はこうであった。
「いや、そんなことをした覚えはないが」
「本当ですか?」
「ああ、そもそもそんなつもりで物語を書いたこともないしな」
「……そうですか」
ここで治乃介の言葉遊びという名の言い回しが炸裂する。
彼は確かに自分の意志で本を出版したことはない。今回の書籍については、母であるみゆきが勝手に行ったことであり、決して治乃介が望んだわけではない。
であるからして、彼は“自らの意志で本を出版した覚えはない”という意味で美桃に返答したのだ。
これは決して偽りではないため、治乃介が美桃に嘘を吐いたことにはならない。
そして、美桃のさらなる追及に、物語を書いたことがないという返答もまた“本を出版することを前提とした執筆を行ったことがない”という意味で治乃介は嘘は吐いていない。
どこか釈然としない顔を浮かべながらも、治乃介の返答に美桃は一応の納得は見せる。
だが、彼の言葉に引っ掛かりを覚えていることもまた事実であるため、すべてを納得したわけではない。
(嘘を吐いているというよりも、本当のことを言っていないって感じかしら)
職業柄、人の言葉や記された文章に含まれる裏のメッセージを汲み取る能力に長けている美桃は、治乃介が嘘を吐いているのではなく、本当のことを口にしていないだけであると結論付けた。
そのことについてさらに追及したい美桃だったが、残念ながら休憩時間終了のチャイムが鳴り、次の授業を担当する教師が姿を現したことで、治乃介は彼女の追撃から辛くも逃げることができたのであった。
(いつか、彼の正体を暴いてやるんだから)
一森が指摘した通り、治乃介が一森に向けて書いた文章の特異性に気付き、その内に眠る圧倒的な文才を美桃は肌で感じ取っていた。
この日を境に、美桃は治乃介の動向をそれとなく監視するようになるのだが、幸か不幸か治乃介がそれに気付くのはもうしばらく先のことになる。
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