第19話

 「では、契約書にご記入いただけますか」

 「もちろんですとも」


 リンアールペ侯爵夫人が出した契約書に、ホクホクとイヒニオがサインをする。


 「待って、お父様!」


 慌てた様子のクラリサが、わなわなと震えている。


 「どうした」

 「そ、それ……」


 クラリサが指さした先を見て、イヒニオがギョッとする。

 ファニタも見て、絶句した。


 「ど、どういう事だ」

 「ありがとうございます。それで、メルティ嬢とはあなたの事ですか」


 サインを終えた契約書を手にとり、リンアールペ侯爵夫人が訪ねた。


 「あ……お待ちください。何かの間違いではないでしょうか」

 「と、申しますと?」


 契約書には、『クラリサ』ではなく、『メルティ』と記載されていたのだ。


 「ラボランジュ公爵から頂いた手紙には、レドゼンツ伯爵家の娘には家庭教師が必要なようだ。必要なら手配すると書いてあったのだが……」

 「えぇ。その通りですわ」

 「聖女はクラリサでございます」

 「あら、そうですか」

 「「………」」


 沈黙して、微妙な空気が流れた。


 「旦那様、メルティ様をお呼びしてまいります」

 「何!? 余計な事はせんでいい!!」


 壁に立ち、様子を伺っていたアールがそう言ったので、ついイヒニオがそう叫ぶ。


 「おや、随分と差をつけているようですわね」

 「え? 滅相もうございません。間違いなのですから……」

 「何が間違いなのでしょうか」

 「ですから、聖女はこのクラリサです」


 そうだと、クラリサが頷く。


 「聖女かどうかなど、関係ありませんわ」

 「「え!?」」


 三人は、リンアールペ侯爵夫人の言葉に驚く。


 「すぐに彼女を呼んできて頂けるかしら」

 「ただいま」


 アールは、軽くお辞儀をするとメルティを呼びに行くために応接室を出て行った。


 「彼女が来てから詳しくお話を致しますが、ラボランジュ公爵からは、ご夫妻のご様子も伺う様にお願いされてますの。この意味お分かりですよね」

 「………」


 二人は、ごくりと唾を飲み込む。


 「お父様、お母様?」


 どういう事と、不安げにクラリサが二人を見る。


 「失礼します。メルティお嬢様をお連れしました」

 「あ……」


 連れてこられたメルティは、リンアールペ侯爵夫人を見て驚いた顔つきをした。

 今日の予言に出て来た人物だったからだ。

 彼女が手紙を差し出している場面だった。

 一体、自分にどの様な用事があるのか。ただならぬ雰囲気でかしこまる。


 「あなたが、レドゼンツ伯爵家の娘、メルティ嬢ね」

 「はい……」


 メルティに振り返ったクラリサが、ギロリと睨む。朝食時とは違って機嫌が悪い。何があったのだと、警戒する。


 「私は、ミリィ・リンアールペ。ラボランジュ公爵夫人からあなたの家庭教師を頼まれ伺いました」

 「私の!?」


 メルティは、目を瞬く。

 三人が言っていた事と違って驚くも、三人が何か勘違いをしてそれが発覚したため、三人の機嫌が悪いのだとわかった。


 「私が伺ったのは、淑女としてまだ世間に出せないので、今年もデビュタントを見送るとの事。今年で14歳と伺いました。ラボランジュ公爵夫人からたってのお願いですので、お引き受け致しました」

 「え……」


 デビュタントが出来ない理由が、イヒニオが言っていた理由と違う事に、メルティは驚いた。


 「いやそれは……」

 「一つ上の姉と言う手本が居るのに不甲斐なくて申し訳ありません。彼女には、夫人の教育にはついていけないと思いますの」

 「え……」


 ファニタの言葉に、メルティは傷ついた。やっぱり嫌われているのだと。


 「先ほどの言葉が響かなかったようですわね。ですがもう契約は成立しておりますわよ」

 「だまし討ちだわ!」


 クラリサが叫ぶ。


 「だまし討ちですって。私は一言もあなただと申しておりませんし、契約書をお見せした上で、サインを頂きましたのよ。その言葉、侮辱以外の何物でもありませんわ!」

 「娘が、失礼致しました」


 慌てて、イヒニオが謝り頭を下げる。

 そうすると、リンアールペ侯爵夫人が冷ややかに言う。


 「クラリサ嬢からは何もないのですか」

 「も、申しわけありません」


 クラリサも頭を下げ謝った。


 「あの、夫人。クラリサも一緒に見て頂けないでしょうか」


 図々しくもファニタがお願いする。


 「ラボランジュ公爵家からは、メルティ嬢一人分の代金しか頂いておりません。ですので、お受けできません。追加も受け付けませんわ。クラリサ嬢は、私から学ぶ前にもっと学ばないといけないようです」


 クラリサは、俯き唇を噛む。ギュッと握りこぶしを作った両手の爪が食い込んだ。


 「メルディ嬢。あなたのデビュタントは三か月後の私のパーティーです。是非ともご参加下さい。素敵なレディーなって華やかなデビュタントに致しましょう」


 リンアールペ侯爵夫人はそう言ってメルティに、招待状を手渡す。


 「ありがとうございます。ご期待に沿えるように誠意を尽くします」


 嬉しそうにメルティが言うと、クラリサが応接室を飛び出して行った。


 「クラリサ!」

 「私もこれにて失礼します」


 ファニタが軽く挨拶をして、応接室を後にする。


 「レドゼンツ伯爵。これだけは言っておきます。メルティ嬢の足を引っ張らない様にお願いしますね」

 「………」


 イヒニオは、何も言わずに頭を下げた。

 一体どうなっているのか。メルティは不思議でならない。


 「三か月後が楽しみでございますね。メルティお嬢様」


 アールが、優しく笑いかけ言う。それに、はいっと元気に返しメルティは嬉しそうにほほ笑むのだった。

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