富豪怪談

水山天気

第1兆

タワマン怪談 Gさんの話

 D市に住む大富豪のGさん(推定総資産:777億ドル)は、世界経済を裏で支配する秘密結社〈数百人委員会〉のゴールド会員だ。


 ある日のこと。

 いつものように委員会の仕事を終えたGさんは、タワーマンションの自宅(地上444階)へ到達するために、エレベーターに乗った。

「対象A、乗箱ボックスイン…………OK」

 VIPガードの一人が、444階で待機する同僚との通信を終え、エレベーターの扉を閉めた直後、


 ⁉


 Gさんは、エレベーターの中に見知らぬ女がいることに気づいた。

 磨きあげられたゴールデンシルバーの扉に、女の姿がはっきりと映っているのだ。

 Gさんの左斜め後ろ、15メートルほど離れたところにいる。

 白い服──日本の民族衣装らしき服を着た女が、護衛もつけずにたった一人でたたずんでいる。


 珍しい、というか、奇妙なことだった。

 このエレベーターで、Gさんが見ず知らずの他人と同箱したことは一度もない。

 もしも先客がいれば、まず先頭のガードリーダーがそれに気づき、Gさんの顔色をうかがい、よきにはからう。そのはずだった。

 しかし、今日は違った。VIPガードたちは、まるで箱の中には誰もいないかのように動き、乗り込み、展開した。

 ──庶民には見えていないのか?

 そういうステージの世界もある。

 Gさんは両腕を上げ、上昇のGに備える三戦さんちんの構えをとってから、扉に映る女の姿をもういちど確認した。


 ⁉


 女はダラリと手を垂らし、スタンスを広げることも、腰を適度に落とすこともしないまま、ただ突っ立っているだけである。

 ──Gに備えないというのか?

 このエレベーターは、地上444階まで数秒で到達する特急エレベーターだ。その爆発的な上昇のGに備えるために三戦の構えをとるのは、富豪の常識だ。


 Gさんは紳士である。「コッ」と大きめの息吹いぶきを発することによって、女に注意をうながした。

 しかし、女は動かない。周囲からVIPガードたちの息吹の音が返ってくるだけだった。

 ──生意気な。

 富豪の世界には、富豪の常識がある。そして、その常識に挑もうとする新富豪も必ずあらわれる。

 ジーロン・アックス。

 ゲル・ビーツ。

 そして伝説の〈反富豪〉タワワン・マンソン。

 彼らにあこがれる者たちは多い。

 旧世代の富豪を打ち倒し、エスタブリッシュメントのイノベーションにコミットしようとする挑戦者たち。

 ──しかしその門は、ラクダが通る針の穴よりも狭い。

 Gさんは指を鳴らした。

 上昇。

 Gが始まった。女はまだ動かない。

 ──意外にねばるな。

 今日のGは、いつも以上にハードだった。Gさんですら、気をぬくと押しつぶされそうになる。

 ──いかががががですかな、お嬢さん?

 Gさんは扉を見た。


 ⁉


 この荒れ狂うGの中、女の姿勢はまったく変わっていなかった。

 ──姿勢の化物か⁈

 Gはさらに強くなる。Gさんの後ろのVIPガードたちが、次々と膝をつく。

 ──まだついてくるというのか⁈

 加速は止まらない。エレベーターの階数表示は、とっくにカンストしている。

 先に限界をむかえたのはGさんのほうだった。

 全身はべったりと床にはりつき、うつぶせのまま動けない。最高級の接着剤で捕獲された虫のような状態だった。女の姿が映った扉を見続けることしかできない。

 そして、


 ⁉


 Gさんの前に立つことを唯一許されているVIPガードのリーダーが膝をついた時、白い服の女が動きだした。

 すでに女も、立ってはいない。

 よつんばいの体勢のまま、ずるりずるりとこちらへ近づいてくる。

 ゆっくりと近づきながら、床にはりつけられたVIPガードたちの首に腕を回し、一人ずつ裸絞めで処理している。


 ⁉


 Gさんは、恐ろしいことに気づいた。

 ──空手が使えない!

 もはや空手の環境ではなかった。手先と足先にかかる容赦のないGが、一切の技を封じている。


 Gさんの寝技対策は、シンプルなものだった。

 絶対に少数派にならないようにする。

 それだけだ。

 空手の天敵とまで言われた近代柔術は、多数派のための武術である。それがGさんの判断だった。

 どれほど寝技に長けた人間であろうと、寝技の最中に囲んで蹴り続けるだけで死んでしまう。Gさんはそう信じていた。

 だからGさんは、金をかせいだ。大量のVIPガードを雇った。念のため、柔術の賞金王を相手にしても30秒ねばれる男を雇ってリーダーにした。


 そのVIPガードたちが、何もできないまま、ゆっくりとした動きで絞め落とされていく。

 そしてGさんも動けない。エレベーターの床から、指一本浮かすこともできない。

 ──空手が! 押忍! サヨナラ! 押忍!

 声を出すことはできず、もがくことさえできない。

 女が少しずつ近づいてくるのを見ていることしかできなかった。


 ⁉


 ついに、女の腕がGさんの首をとらえた。

 そのまま頸動脈けいどうみゃくを絞める。

 Gさんが意識を失う直前、女は口をGさんの耳に近づけた。

 そして、

「火星に行け」

 と言った。



 今でもまだ、Gさんはそのタワーマンションに住んでいる。

 引っ越しのために使う時間が惜しいからだという。

 Gさんは今、以前にもまして精力的に働いている。

 みずから禁じ手にしていた飛び道具の売買も始めたそうだ。

「火星に行こうと思ってます」とGさんは言った。

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富豪怪談 水山天気 @mizuyamatenki

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