第8話 御簾の内側


 御簾の内に行ってもいいか、と尋ねる時峰に、土筆は、「いいえ。」と断る言葉が、出てこなかった。


「貴女が怖がることは、致しません。」


 時峰が言った。


「どうして……どうして、突然そんなことをおっしゃるのですか? 今まで、そんな強引なこと、一度だって………」


 質問で返すのはズルい答えだ、とは分かっていた。


 受け入れる勇気は、まだない。

 でも、もしここで断ったら、もう二度と時峰が来なくなるんじゃないかと思うと、それもまた出来ないのだ。


「姫が、尚侍ないしのかみとして出仕するーーーと聞きました。」


「それっ……は、まだ……」

「いいえ。貴女は、尚侍になります。」


 なんてこと!!


 確かに打診はあった。

 でも、あれ以来、具体的な話はなく、何も決まっていないはずだ。


 にも関わらず、時峰の耳には、すでに確定した事実として伝わっている。


 しかも、これだけハッキリと言い切るということは、土筆の気持ちとは裏腹に、事実、物事は決まっているのだろう。


「貴女は、尚侍として出仕する。だから私は、ここに……貴女の元に、通していただけなくなったのです。」


「……どういう……ことですか?」


 寝耳に水だった。


「時峰さまが、お見えにならなかったのは、いらしていなかったから……ではなく、来ても通してもらえなかった、というこですか?」


 時峰が悲しげに微笑んだ。


「尚侍は、帝の政務を補佐するという立派な仕事がありますが、実質的には、女御に継ぐ帝の后と見る向きも大きい。出仕する以上、いつ帝の手がついてもおかしくはない、と大納言殿は考えたのでしょう。」


「お父さまが……」


 あのときの様子からすると、この尚侍の話は、父とは関係がないところから出たはずだ。


 だが、決まった以上は、政治的な利用価値がある。

 だから父は、土筆の周りをうろつく時峰を排除しようとした。


 時峰が言うには、ある日突然、花房家の者たちが冷たくなり、門前払いをくらったのだという。


「何度も来たんですよ?」


 居ても立っても居られず、なんとかタマを捕まえたこともあるという。


「ですが、タマさんからも申し訳ないと謝られるばかりで……」

「タマまで……?」


 そんなことが、自分の知らないところで、起こっていただなんて。


「そんな……ヒドイ。何も教えてくれなくて……」


 信頼していた女房だ。誰よりも、心を開いていた。なのに、聞いても逃げるばかりで、こんなことになっていることを、何一つ教えてくれなかった。


「いえ、タマさんを責めないでください。今晩、ここに通してくれたのは、タマさんです。」


「えッ?! どういうことですか?」


 時峰が、「今日の昼間のことです。」と言った。


「また追い返されている私を捕まえ、今晩、早々に部屋を暗くするので、庭から忍んでくるように、と。」


「そんな……ことが?」


 昼間、部屋を下がるときのタマの様子を思い出す。

 時峰に会えなくて辛いか、と尋ねたタマ。何かを決意するような顔は、これだったのだ。


 時峰が、今度は少し情けなく笑って、


「余程、私を憐れに思ったのでしょう。」


 違う。

 土筆は、時峰の言葉を頭の中で、否定した。


 タマは、時峰を憐れに思ったのではない。

 

 私が、この人に会えないことに……その辛さに気づいて、タマが呼んでくれた。


 タマは、土筆を憐れに思ったのだ。


 そんなことなど露知らぬ時峰が、話を続けた。


「だけど、貴女のお父上も、決して手放しで喜んでいるわけではなさそうですよ。」


 時峰が、タマと別れて家に着いた後のことだという。


「花房資親すけちか殿から、手紙が届きました。」


 内容は、何故に土筆が尚侍に選ばれたのか、調べて欲しいということだった。


「どういう経緯で姫が内裏に呼ばれることになったのか、情報を集めて貰いたい。そして、もし娘が何かに巻き込まれようとしているのなら、力になって……守ってやって欲しい、というものでした。」


 父にとっては、娘が尚侍になるのは喜ばしいが、一方で訝るような気持ちもあった。


 表立っては、時峰の来訪を断たせておきながらも、単純に、慶事に踊らされているわけではない。状況を見極めつつ、どにらに転んでもいいように、時峰との繋がりも、確保しておく。

 その老獪さは、流石、実力で権大納言に成り上がった父だけある。


「私に……断る選択肢はないのですか?」


 土筆が尋ねると、時峰は頭を横に振った。


「選択肢があっても、貴女は断らないでしょう。」

「どういう意味……ですか?」

「その様子だと、ご存じないようですね。」


 御上から、土筆の知らない、追加のふみが届いているのだという。


「そこには、どうしても土筆姫の出仕が難しいようなら、妹姫を出仕させよ、と書いてあったそうです。」


 尚侍の欠員は困る。聡明な姫の妹なら、同じく聡いことだろうから、代わりに寄越せと。


「な………な……なんですってッ!?」


 土筆の声が震えたのは、驚きではない。怒りだ。


「菫を? 尚侍に?? そんなこと、できるわけありませんッ!!」


 あの子は男も苦手だが、それ以前に、人見知りだ。

 その菫を出仕させるだなんて。一体、誰がそんなことを……ーーー


 ………いえ、違うわ。


 土筆は、そのことに気がついて、思わず身震いした。


「……気味が悪いわ。」

「え?」


「だって、それ……目的は、菫じゃないと思うんです。」


 どうやら、土筆を呼び込もうとしている人間は、ようだ。


 菫が社交的ではないことは、世間に、よく知られている。純粋無垢で、上等な織物で何重にも包むかのように、大事に大事に守られてきた、深層の姫。


 その菫に、宮仕えが勤まるはずがない。


 それなのに何故、菫なのか。


 多分、その男は、知っているのだ。

 菫を持ち出せば、土筆が動くであろうことを。

 土筆が、絶対に菫を身代わりになど、せぬことを。


「これは、私のことをよく知る人物が考えた策略です。」

「策略?」


 土筆がそう言うと、時峰は、「いや、しかし……」と戸惑いながら、


「失礼ながら、妹姫ほどではなくとも、貴女も決して交友関係が広い方ではありますまい?」


 それは、確かにそうだ。

 それなりに交友関係の広い時峰ですら、実際に会うまで、『花房家の次女』を噂程度でしか知らなかった。

 その上、土筆と菫の関係性や行動原理まで正しく把握しているというと、相当に限られてくる。


「心当たりは、あります。ただ、それが、誰か分からないのですが……」

「どういう……ことですか?」


 木の上の男。

 土筆の語る話に、時峰は驚愕して、目を見開いた。


「なんてこと! 貴女は……貴女は、無事ですか? 危険な目にあったりは……」


「大丈夫。それは、大丈夫です。」


 橘貴匁のこともある。

 時峰が案じるのは、もっともだ。


狐笛丸こてきまるだけでなく、他の男にも貴女の庭に侵入を許してしまうなんて……」


 時峰は悔しそうに言ったが、土筆は、それどころではない。


「時峰さま。その男に、心当たりありませんか?」


 尋ねると、時峰はすぐに冷静に戻って、首を横に振った。


「帝ではない、というのはおっしゃる通りです。その日、私は宿直をしており、御上(帝)にお会いしていますから。ですが、近しい者……というと、すぐには……。」


 せめて、もう少し特徴なりが絞れていないと難しいという。


「ですが、やはり御上に親しき人間だという、姫の考えに間違いないでしょう。何故なら、宮中には、貴女のことを最もよく知る人間がいますから。」


「……え?」


「女御ですよ。」

「あ………」


 土筆の姉。三姉妹の長女、牡丹。


 美しく、華やかで、人付き合いも良い。気遣い上手で、土筆とはまた違った意味での頭の良さを持ち合わせている。

 今上帝を虜にする、完璧な貴婦人。


「牡丹が………?」

「自発的に話したのか、御上なりを通して聞きつけたのかは分かりませんが、女御なら、貴女のことをよくご存知でしょう?」


 そう。その通りだ。


「でも、その男……なんのために、私のことを調べて……?」


 呟いてから、愚問だと気づいた。

 あの桃の男の狙いは、一つ。


「その、妙な練香のことでしょう。」


 時峰が言った。


「おそらく、その練香とやらの調査のために、貴女の協力を仰ぎたいのです。そのために自分の近くに引っ張ったのでしょう。確かに貴女ならば、その者の期待に添う働きができるでしょうから。」


 心から、そう信じている様子でキッパリと言い切った時峰だったが、一転、「ですが………」と、悩ましげに視線を伏せた。


「どうかされましたか?」


「実は、もう一つ気になることが……」


 先程、話しそびれたことだと前置きをして、


「権大納言殿が私に、貴女の出仕に際して、情報を集めて欲しいと言った理由が、他にもあります。」

「お父さまが、時峰さまを頼った理由?」


 時峰は、憂うような顔で頷くと、ゆっくりと告げた。


「私たちの知る限り、尚侍は。」

「え……?」


 通常、尚侍の定員は二人。だが、そのどちらも、宮中から下がるという話は、聞いていない。


「でも、確かに手紙には……」


 ちょうど、尚侍に空きがあるからーーーと言っていたはず。


「尚侍を臨時で増員するのか、内々にどちらかが下がると決まっているのか……意図が分からず、不気味なのです。」

「そう………そうなのね。」


 練香に、怪しい男。

 狐笛丸、姉。そして、尚侍。


 物事は複雑な体を様して、まだ何もわからない。


 けれど、それならば、私は………

 私の答えはーーー


「時峰さま。」


 土筆は、一度大きく深呼吸をすると、自らの決意を見失わないように、ハッキリと言った。


「私、出仕します。」


 良くわからないまま招聘されるのは嫌だったが、本当に何か理由があるのであればーーーそれに、自分が役立てるのならば、その役割を果たせばいい。


 あの練香は、摂津が出どころだという。事の経緯からして、時峰の叔父が絡んでいる可能性もあるのだ。

 場合によっては、土筆が、時峰の役に立てるかもしれない。


 だが、土筆は、帝の后になる気はない。


 出仕して、自分の成すべきことをして、それが全て終ったら、離任と里下がりを願い出る。


「私にできることは、力になりたいと思います。」


 口に出した決意。

 それは同時に、当分の間、こんなふうに時峰と過ごすことが出来なくなる、という宣言だった。


 今、時峰はどんな顔をしてきるのだろう。

 少しは寂しいと思ってくれているだろうか。


 月明かりだけでは、表情の細部までは読み取れない。


「貴女なら……」


 時峰が静かに言った。


「貴女なら、そう言うと、初めから分かっていました。」


 菫の名が出てきた時に、時峰は、とうに覚悟を決めていたという。


「時峰さま………」


 心は決めているのに、少しだけ揺れる。


 土筆は手を伸ばし、御簾を少しだけ上げた。


「時峰さま、あの……」


 御簾の下、空いた隙間から、おずおずと手を差し出すと、勇気を出して告げた。


「………お手を、触れてもいいですか?」

 

 ただ、指先に触れたかった。

 いつかの……初めて会った、花の宴の、あの晩のように。

 眼の前に、確かに時峰がいるのだと、感じたいだけだった。


 はずなのに……ーーー



 指先が触れ合った瞬間、部屋の外の簀子を、誰か歩く足音がした。


「あッ?!」


 気づいたときには、土筆は時峰を、御簾の内に引き込んでいた。


「あ……あの……」


 咄嗟の行動だった。


 時峰を受け入れるために、ふわりと持ち上がった御簾の裾が、余韻でユラユラ揺れている。


 引き込まれると同時に、時峰は勢い、土筆を抱きしめる格好になった。だから今、土筆は、時峰の香が薫る上等な直衣に、くるりと包まれている。


「ご……ごめんなさいッ!」

「申し訳ありません……」


 土筆と時峰が、同時に謝る。


「私のために、ここに引き入れてくれたのだ、とわかっています。」


 時峰にも足音が聞こえたのだろう。だから、これが不可抗力だと、互いに分かっている。


 分かっているはずだけど………ーーー


「貴女が怖がるようなことは、決してしませんから。」


 その言葉とは裏腹に、土筆を離す気配はない。

 むしろ、先程よりも強く抱きしめ、


「土筆姫………」


 耳元で、時峰の低い声が囁く。

 湿った吐息が耳朶をくすぐり、そこから端を発した熱が、土筆の全身に広がる。


 薫衣香くのえこうに混ざる、時峰の香り。土筆を包み込む温もり。心臓が、忙しなく早鐘を打っている。


「貴女が、好きです。」


 時峰が言った。


「貴女を、恋しいと思っている。私だけのものにしたい。手離したくは……ない。」


 ずっと貴女に触れたかった、と泣きそうな声で言いながら、髪を梳くように、優しく撫でる。その指先も、土筆の背に回した逞しい腕も、少し震えていた。


 それだけで、時峰の想いが、いかに真実か分かる。


 どうして、気づかなかったんだろう。

 なんで、軽いものだ……と思っていたんだろう。


 この人は、危険を侵しても、尚、ここまで会いに来てくれたというのに。


 土筆を包み込む時峰の、上等な直衣から匂い立つ、焚き染められた薫衣香。


 土筆の頭に、ふいに『至福の薫香』という言葉が思い浮かんだ。


 人を狂わす、あの練香は、一度嗅ぐと忘れられぬ、とんでもない程の幸せを感じさせる香りだといっていた。

 一体、どんな香りなんだろう。


 でも、どんな香りだったとしても、多分、これには敵わない。


 上品で優雅だが、真っ直ぐで、生真面目。

 一見、完璧なようで、時折、土筆に見せる、ほんの少しの茶目っ気と遊び心。

 まさに、近衛中将、藤高時峰そのもの。


 直に触れ、感じて、分かる。

 土筆を包みこむ、このこそが、土筆にとっては紛れもなく、『至福の薫香』なのだ、と。


 土筆は、時峰の着物の袖に手を伸ばした。


「……時峰さま」


 名を呼ぶと、不思議と身体の強張りが解けていく。時峰に身体を預けるように、寄り添い、


「時峰さま……」


 そのまま、もう一度呼ぶと、時峰がギュッと強く抱きしめ、それから、少しだけ身体を離した。


 目と目が合う。


「……待っていても、いいですか?」


 時峰が囁くように、聞いた。


「貴女が全てを終え、暇をいただき、戻ってくるまで、待っていてもいいですか?」


「でも……そんなことをしたら、時峰さまの縁談が……」


「断ります。全部。」

「え………?! そんなことをしては……!」


 いけない。

 仮にも名家の息子なのだ。


「太政大臣のお父さまにも、ご迷惑が……」

「誰にも、文句は言わせません。」

「そういうワケには……!!」


 離れようとする土筆に反発するように、時峰が再び、グッと土筆の身体を引き寄せ、抱いた。


「私が貴女を待ちたいから、そうするんです………私が、貴女を好きだから……」


 時峰の手が、ゆっくりと撫でるように、土筆の髪から頬に降りてくる。


「土筆姫……」


 名を呼ぶ時峰の、凛々しい眉に添うような、切れ長の綺麗な瞳が、土筆を捉えていた。


 あぁ、私はもうとっくに、この瞳に捉えられている。

 私の心は、ずっと前から、この人にあったんだ。


 時峰が、僅かに顔を傾げた。応えるように瞳を閉じようとしたところで、ふと、


「……私の名前は………」


 話しかけた土筆に、時峰が動きを止めた。


 土筆は、あのときのマナツのことを思い出していた。


 あの日、去り際に自分の名を伝えた、大切な友人。


 今、彼女の気持ちが、よく分かる。

 本当に大事な人には、自分の名を知っていてほしい。それは、とても自然な感情。


 土筆は、自分の手のひらを、頬に触れる時峰の手に重ねた。


「私の名前は……青子です。花房青子。」


「青子……」

「青々とした、の青子です。」


 説明してから、


「可笑しいでしょう? まっ茶色で、頭でっかちな『土筆』とは、真逆ですもの。」


 自嘲気味に言うと、時峰が小さく……本当に小さく、首を横に振った。


 かと思うと、スッとその顔が側に寄って来てーーー土筆は、瞳を閉じた。


 青子、と囁くように名を呼んだ時峰の唇が、そのまま土筆に触れた。

 柔らかく熱い唇が、喰むように土筆の唇を包み込む。

 優しい時間だった。


 静かで、永遠のように永く、一瞬。


 そして、ゆっくりと離れてゆく。


 それから、また目と目が合って、時峰が、今度は照れたように、はにかんだ。



 半分跳ね上げた御格子から差し込む月明かりが、二人を囲むように照らしている。まるで、この世界には、たった二人しかいないように。



*  *  *



 その、一月後。


 山が錦を纏う頃、土筆は尚侍として、宮中に出仕したのだった。


 自らに課せられた役割を全うすべく、大きな決意を胸に抱いて。




 ーーー 第一部 完 ーーー

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御簾の向こうの事件帖 里見りんか @SatomiRinka

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