第3話 花房家の転機


 須美姫すみひめと過ごす時間は、順調に過ぎていった。


 2日か3日に一度、須美姫が花房邸にやってくる。それで、土筆の部屋で、あれこれ話をするのだ。


 須美姫は、仮名文字のほとんどを難なく読めた。書く方も、上手くはないが、ある程度はできる。

 式部しきぶ大輔たいふが母親につけてくれた女房が時々、須美姫や近所の子らを集めて、教えてくれたのだという。


 それで土筆は須美姫に、流行りの絵物語や日記を使って、都の生活や文化を教えた。


 節会や、その行事の意味。物忌や穢れ。あるいは、日常生活、慣習。物の手順。


 他にも、例えば、夫となる人以外に、むやみに本当の名を教えたりせぬこと。


 また、牛車の乗り方、降り方について。牛車は後ろから乗り、前から降りる。人と乗り合わせる時には、上座下座で、座る位置が決まっている。都人たちは、そういう小さなことを、知らないことを馬鹿にする。


 須美姫は、従順で優秀な生徒だった。年は18だというけれど、2つ下の土筆の話を素直に聞くし、覚えも悪くない。


 時間が空けば、時には、全く関係のない話をすることもあった。


 ある日のこと。


 花房邸での予定の時間を終えたものの、突然の雨に、牛車が出せず、思いがけず須美姫が逗留することになった。


「夕立でしょう。しばらく、うちで待っていればいいわ。」


 空が暗いからと、タマが気を使って、燭台に火を灯してくれた。


 須美姫は、明かりの前に静かに鎮座し、じっと揺らめく光を見ている。

 土筆は、空を覗き込みながら、


「雷が鳴らないといいけど……。」


 暗い空には、今にも稲光が走りそうだが、須美姫は、あまり気のない様子で、「そうですね。」と答えた。


「雷が怖くないのですか?」


 都の者たちは皆、雷が苦手だ。

 音と光に怯え、身を寄せ合って、過ぎるのを待つ。


「好きではありませんが……」


 須美姫は土筆の言葉に、軽く首を傾げた。


「須美姫には、怖いものはないのですか?」

「怖いもの……ですか?」


 長考するかのような沈黙のあと、やがて「……思いつきません。」と、首を軽く振った。


 それで、また、二人の間が静かになった。


 雨粒が家屋を叩く音だけが、部屋に響く。


 ふと、須美姫が言った。


「何か、お話をしてくださいませんか?」

「お話? えぇっと……どんなのがいいかしら? 何か巻物を……」


 タマに命じようとしたが、須美姫が、「いえ、」とそれを止めた。


「物語ではなく、土筆さまのお話が聞きたいわ。」

「私の話……ですか?」


 うーん、何か面白い話題があったかしら、と頭を捻って考えていると、


「例えば、物の怪の話などはいかがでしょう? 都は物の怪が多いと言うし、土筆さまも、そういった類のものと出会したことはあるのですか?」


 須美姫に尋ねられ、土筆はまた、「そうね……」と考え込んだ。


 正直、物の怪なんて出会ったことはない。

 けれど………


 土筆は、空を見上げた。

 大粒の雨が次から次へと降ってくる。


「物の怪じゃなくても、怖いものはあります。」


 こんなことを思い出したのは、きっと雨のせいだろう。


「生きている人間だって、時には、物の怪以上に怖いものなのよ。」

「生きている人間……ですか?」


 須美姫は興味を持ったらしく、「それは、どういうことですか?」と先を促した。


 それで土筆は、あの長雨が続いたあとの、怨霊屋敷で起こった出来事を須美姫した。


 時峰と小野明衡おののあきひらの活躍、そして怨霊屋敷に閉じ込められた可哀想な姫のことを。


 ひょっとしたら、怖がるかもしれない。嫌がるようなら、すぐに話すのをやめよう。

 そう思っていたが、心配は無用だった。須美姫は土筆の話を、驚きながらも興味深げに、最後まで聞いていた。


 話し終えたあと、須美姫は、胸をなでおろし、


「その姫さま、助かって良かったですね。」

「えぇ、本当に。」


 流石に、床下から、もう3人分の身元不明の亡骸が出たことは、話さずにおいた。


「無理やり連れて来られるなんて、きっと辛かったでしょうね……」


 ひょっとしたら須美姫は、囚われた不幸な吉野大松の姫に、自分を重ねながら聞いていたのかもしれない。


「きっと、とても淋しくて……家族に会いたかったに違いないわ。」


 その日の須美姫は、今まで土筆と過ごしてきた時間の中で、最も感情豊かだった。

 あれこれと思いついたことを、次から次へと口にする。


「それにしても、床下に隠したり、行李に入れて運ぼうとしたり……世の中には、思いもつかないようなことを考える方がいるのもですね。」


 呆れるように言ったかと思えば、「そんな奇想天外な策を見破るなんて、土筆さまも凄いです。」と、素直に感激しているようにもみえる。



 暗い雨に閉じ込められたのような部屋での出来事は、いつもとは違い、思い返すと、どこか浮世離れしたような不思議な時間だったように感じる。



*  *  *


「何にせよ、上手くいっているようで安心しました。」


 定期的に、様子を伺いに……という名目で部屋にやってきていた土筆に、時峰が言った。


 預けた手前、責任を感じていたのだろう。土筆の話を聞いた時峰は、ホッと胸を撫で下ろした。


「それで、須美姫のことは、何かわかりましたか? その……犬丸のことなど……」

「………いいえ。」


 土筆は、申し訳ないと謝った。


「須美姫は、あまり自分の話をしたがらないのです。」


 須磨のこと、自分のことに話が及ぶと、やはり口数少なになる。

 和やかな雰囲気の中で、土筆も無理強いして聞きたくはなかった。


「そうでしたか。それでは、狐笛丸こてきまるのことも……?」

「それは聞いたわ。」


 会話の中で『狐笛丸』という陰陽師の話題を出した。狐面を被った、横笛の得意な男で、薬草の知識が豊富。

 土筆が毒を盛られたことには触れず、ただ、昨今、噂の陰陽師だということと、どうやら、その正体が須磨出身の橘貴匁たちばな たかめという男らしいということ。


 だが須美姫は、その男の話題には、特別、強い関心を示さなかった。


 他の話題と同じように、土筆がよく話す、勉強の間の閑話休題くらいにしか捉えていないようだった。


 貴匁の出身が須磨らしいという下りにも、ほとんど反応しなかったが、貴匁のいた寺の名前は聞いたことがあると言っていた。


「親をなくした孤児たちが暮らしいているそうです。」


 でも須美姫は、そこを訪れたこともないし、それ以上のことは何も知らないと言っていた。


 その言葉に、嘘はないように思えた。


 そう時峰に告げると、「そうでしたか……」と、また、安堵したように言った。


「狐笛丸の情報が得られなかったのは、残念かもしれませんが、私は逆に、貴女への危険がないと知り、安心しました。」


 均整の取れた美しい顔が、優しく笑う。

 いつものように。


 こういうときに、ふと、土筆は錯覚しそうになる。


 こんなにも、私を案じ、気にかけてくれる人が、他にいるだろうか。

 真面目で正直なこの人が口にするのは、本当の気持ちなのか。私への想いも、もしかして、誂いや気まぐれではなく……


 もしかしてーーー


 時峰の顔を見ていたら、何かが溢れてきた。


「………ッあの………!」


 その感情が流れ出すように、土筆が口を開きかけた、そのとき。

 部屋に向かって、ドスドスと駆けてくる足音がした。


「大変だッ!!」


 足音とともに現れたのは、父の花房資親はなぶさ すけちかだった。


「お父様?!」

「一大事だ。我が花房家にも、いよいも転機が……」


 話しながらドスドスと近づいてくるから、


「お父様、お待ち下さい。お客様が……」

「客人?」


 土筆に言われ、資親は初めて、気づいたらしい。足を止めて、御簾の前に座る時峰を認めると、


「あぁッ!! すまない。いらっしゃっていたのか。」


 慌てて謝った。父にしては、珍しい失態だった。


「そんなに慌てて、何かあったのですか……?」


 余程のことだろうと尋ねた土筆に、父は、コホンと一つ咳払いをした。


「いや、悪い話ではない。悪い話ではない……のだが……」


 時峰のほうを意味ありげにチラリと見た。察した時峰が、


「私は、お暇しましょうか?」


 資親が、「………うむ」と頷く。


「悪いが、そうしてもらえるか?」

「……分かりました。」


 時峰が洗練された所作で、腰をあげる。


「すまない。君を信頼していないわけではないのだが……」

「構いません。」


 時峰は、軽く首を振って、頭をかくと、土筆の部屋を出ていった。


 時峰が去ると、土筆は御簾をあげ、父の近くに寄った。資親はタマに、周辺の人払いをするように命じた。


 人払いと言っても、ここは屋敷の奥。土筆の部屋と、その先に菫の部屋があるのみで、行き交う女房たちも少ない。


 念の為ーーーということだろうが、やけに厳重だ。


「私も退席しますか?」


 戻ってきたタマが尋ねると、


「いや、お前はいい。ここにいなさい。」


 資親が言った。


「ただし、これから話すことは、くれぐれも内密にするように。まだハッキリしたわけではないが、事は、花房家の今後に関わる。」


 タマは土筆の絶対的女房として、高い信頼を得ている。本人も、その扱いが満更でもないようで、どこか誇らしげに、「はい。」と頭を下げた。



 しかし、それほどまでの事とは、一体なんだろう……?



 すると資親が、土筆に向き直り、背筋を正して座り直した。


 そして、ゆっくりと口を開いた。


「……牡丹が………女御として入内しているお前の姉が………懐妊したようだ……」

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