第2話 須磨から来た姫


 時峰に頼まれた3日後、須美姫すみひめが花房邸にやって来た。


 土筆が出向くのではなく、須美姫の方から花房邸に来訪してもらうことになったのは、単に土筆と須美姫の身分の上下だけが、理由ではない。


 一つは、須美姫が須磨の出だというので、時峰が、万が一に備え、土筆の身の安全を考慮したということ。

 そして、あまり社交的な性質タチではない土筆にとっては、知らぬ屋敷より、自家のがいいだろうと配慮をしたこと。


 また、須美姫のほうも、居心地の悪い式部しきぶ大輔たいふの家にいるよりも、花房邸に来たいと望んだらしい。


 それで、三条西洞院の屋敷から二条東洞院、花房邸までの僅かな距離を、牛車に乗って、二人の牛飼童に、四人の従者という、物々しい装いで花房邸にやって来た。


 この派手で騒々しい行軍は、須美姫の希望ではないだろう。

 須美姫が脱走などせぬように、見張るためだろうか。


 そう思うと、土筆はなんだか、この姫が気の毒な気がした。


 須美姫は、どんな顔で、どんな気持ちで、ここに来るのだろう。


 陰鬱に沈んだ顔をしているだろうか。

 都に疲れ切って、窶れているのだろうか。


 あれこれ思案し、心配してしたから、実際に、先導するタマに連れられて部屋にやってきた須美姫の顔を見たときには、少し意外に思った。


 須美姫は決して、閉じ込められた、不幸で弱々しい姫には見えなかった。


 やや痩せ型の頬に、キリリとつり上がった瞳。キュッと結んだ唇。

 都に来るまでは、陽の光を沢山浴びる日々を過ごしていたのだろうか。やや褐色の肌は、凛々しい顔立ちによく似合う。天竺の向こうあたりからやって来たような異国風のエキゾチックな雰囲気を身に纏っている。


 須美姫の出で立ちからは、この状況に流されず、自分で思考する人間の、意志の強さのようなものを感じた。


 御簾をあげ、几帳は片付けられた部屋。

 須美姫は土筆を真っ直ぐに見据えると、幾重にも重ねた着物の、厚い袖口から覗かせた両手をきちんと揃えて、頭を下げた。


「本日は、私のために貴重なお時間を頂戴いたしまして、ありがたく存じます。」


 土筆に対する嫌悪は感じない。

 だが、警戒はしている。


 まるで、用心深く距離を取りながら、こちらを覗う猫のように。


「はじめまして、須美姫。私は花房家の次女で、皆から土筆と呼ばれております。」


 土筆も応えて頭を下げると、


「はい。存じております。」

「あら、そうなの? どうして?」


 問い返す土筆。そんな反応を返されると思わなかったのだろう。須美姫は、少し戸惑うように、


「有名な方だと……。」

「どんなふうに有名なのかしら?」


 尚も首を傾げて、尋ねてみる。


 どうせ土筆のことは、式部の大輔の家の女房たちから聞いたのだろう。

 帝の寵愛篤い女御の長女や、可憐な深層の姫と評判の三女と違って、書物ばかり読んで部屋に籠もっている変わり者だとか、そんな類の噂に違いない。


 須美姫は、困惑したようだが、それでも、


「聡明な姫だ……と聞きました。」

「ありがとう。」


 土筆は、ニコリと微笑んだ。


 言葉の選び方は悪くない。土筆への気遣いや遠慮もある。決して、誰彼構わず反抗的な態度をとるような、失礼な姫ではない。


 だが、なかなか手強い。


 土筆は、須美姫をじっと観察しながら、さて、どうやったら、この姫の心を開くことができるかしら、と考えた。


 と、ふと、黒い道具箱に目が留まった。

 土筆は、それを引き寄せると、


「須美姫は、これをご存知かしら?」


 蓋をあけると、中には何枚もの蛤の貝殻。


 土筆は、そのうちの一枚を取って、「どうぞ。」と、須美姫に渡した。


 須美姫が恐る恐る手を伸ばして、黄土色の縞模様の貝殻を受け取る。


「反対に返してみて。」


 土筆に促されて、貝殻を裏返すと、


「これ……」


 金箔を散りばめた美しい蒔絵に、驚いて目を見開く。


「源氏物語の場面です。これは……うーん、空蝉かしら?」


 須美姫の手元を覗き込んで、土筆が答える。須美姫が、


「とてもキレイ……」


 と呟いた。 


「須美姫は、これを何に使うか知っていますか?」

「………貝あわせ……ですか?」


 須美姫が、恐る恐る答える。


「正解です。」


 土筆が「よくご存知でしたね。」と褒めると、須美姫は、「タキが……」と話を続けた。


「タキは、父がつけてくれた母の女房なのですが……須磨は海が近く、貝がたくさん取れるけれど、都人たちは、この貝を使って、貝あわせという遊戯をするのだ、と教えてくれました。」


「なるほど。」


 土筆も蛤を一枚とって、改めて眺める。

 綺麗な縞模様。確かに、この蛤は、元はどこかの海にあったもの。

 それを誰かが拾って、美しい絵が描かれ、終にはここに流れ着いて来たのだと思うと、とても不思議な気がした。


「そうね。海に……あったのよね。」


 目を瞑ると、絵巻物でしか見たことのない海の、満ちては引く波の飛沫しぶきが浮かんでくる気がした。


 波は、どんな音をしているのだろう。

 潮風は、どんな香りなんだろう。


 須美姫の話に、俄かに興味が沸いた。


「その話、是非詳しく聞いてみたいわ。」


 土筆が言うと、須美姫は、意外そうな顔で、目を見開いた。


「須磨の話を……ですか?」

「えぇ、是非。」


 土筆は促したが、須美姫は、やや俯いて、「話す程のことは何も……」と、小さな声で答えた。


 その言い方に、躊躇を感じさせた。『犬丸』という名の、隠している男のこともある。話したくないのかもしれない。


 慌てて、無理に話さなくてもいいと撤回しようと思ったとき、須美姫は、俯いたまま言った。


「………土筆姫は、私がどうして、須美姫呼ばれているのか、ご存知ですか?」


「え……?」


 翳りのある言い方が気になったが、土筆は、正直に時峰に聞いた通りに答えた。


「あの……磨から来たしい姫、と……」

「フフ……」


 須美姫は、自嘲気味に口を歪ませ、「当て字ですよ。」と笑った。

 それから、自分の手に視線を落とし、


「炭みたいに黒い……」

「炭?」

「私の肌です。皆さんに比べて、浅黒いでしょう? 白粉もしていないし。まるで炭みたいだって。だから、スミ姫……さすがに字面が悪いので、須美姫とつけられたのです。」


 馬鹿にしてますよね、と須美姫が言った。怒りというより、呆れているみたいだ。


「須磨は海が近い。女だからと言って、ここのように、一日中部屋に引きこもっていては暮らしていけません。」


 須美姫も、都に来る前は、普通に皆と戸外で働いていたという。男たちが海で魚をとるのを手伝ったり、海岸で貝を拾ったり。

 だから、当たり前のように日焼けしている。


「首元の色が黒いから、下手に白粉を塗ると、かえって顔だけ浮いてみえて、目立つんです。」


 挑むような瞳は、まるで、「貴女も私のことを、田舎者と見下しているんでしょう?」とでも言わんばかりだ。


「そんな………」


 土筆は、須美姫の、貝を持つ手元に視線を落とした。


 確かに貴族の姫たちは、白いほうが美しいと思われている。色白で、柔らかく丸みを帯びた頬が美人の証。それに比べて、須美姫の手は、ゴツゴツしていて、荒れている。


 だが、程よく日焼けした肌は、須美姫の意志の強そうな顔立ちに、よく似合う。生命が内から眩く輝いているような美しさがある。


「須美姫は、何か誤解をしているわ。」

「誤解……ですか?」


 不審げに眉頭をキュッと寄せた須美姫に、


「私が聞きたいのは、どちらかというと、貴女が過ごしたという、その海のことや人々の生活のことだわ。どんなものを採って、食べて、どんなふうに一日を過ごすのか。海には、どんな生き物がいるのか。そういうことを私は、知りたいの。」


 土筆は、キッとこちらを睨んでいた須美姫の視線を、優しくいなすように、正面から受け止めた。

 土筆は、心の内の正直な気持ちを、誠実に打ち明けた。


「だから貴女は、私にとって、いい先生になりそうだな、ということが分かりました。」

「………は?」


 ポカンとしている須美姫の手から、蛤がこぼれ落ちた。それを拾って、道具箱に戻す。と、その底で、何かがキラリと光った。


「あら……?」


 指を突っ込んでつまみ上げると、黒い碁石だった。菫か父の相手をした時に使ったものが、間違えて紛れ込んだのだろうか。


「こんなところに……」


 そのツヤツヤと光る碁石を見て、土筆は、あることを思いついた。


 昔、泣いてばかりいた菫にやってあげたこと。


「ねぇ、須美姫。」


 土筆は、左手に黒い碁石を乗せて、須美姫の前に差し出した。


「この碁石、よく見ていてちょうだい。」


 そして、それを右手の平に置こうとしたーーーが、手が滑って、碁石がはスルリと落下した。


「あら、ごめんなさい。」


 慌てて拾うと、碁石を右手に渡して、握り込んだ。

 そして、須美姫に尋ねる。


「今、石はどちらにあると思いますか?」


 土筆の問いかけに、須美姫は戸惑いながら、「こちらの手……ですか?」と、右手を指した。


 それで土筆が、クスリと笑って、


「残念。」


 手のひらを開くと、何もない。


「あら……? では……こちらですか?」


 不思議そうなに反対の握りこぶしを指した須美姫の目の前に、反対の手を掲げて、ゆっくり開く。と……


 こちらにも何もない。


「え?」


 須美姫は戸惑いながら、


「ま……呪いですか?」


 少し気味悪そうに尋ねてきたので、土筆は笑って首を横に振った。


「いいえ。ちゃんと、仕掛けがありますよ。」


 姫の前で、腕をぶんぶん振ってみせる。

 すると、袖口からカランと碁石が転がり落ちた。


「袖に……隠していたんですか?」

「驚きましたか?」


 土筆が、いたずらっぽく肩をすくめた。


「昔、これをすると、いつも泣いていた菫が、驚いて泣き止んだのです。」

「菫様……というのは、妹さまですか?」

「えぇ、そう。」


 土筆は、碁石を拾って文机に置いた。


「菫は、異母妹です。もともとは別々の場所に暮らしていたけれど、貴女と同じように、母を亡くして、ここに来ました。」


 もっとも、今の須美姫よりも、ずっと幼いときの話だ。


 まだ菫は、5歳にもならなかった。


 父の通っていた女のところに、女児がいるのは知っていたけれど、土筆も牡丹もその子に会ったことはなかった。

 しかし、通っていた女が亡くなり、菫は引き取られることになった。


「貴女によく似た話でしょう?」


 ここに来た初めの頃、菫は、四六時中泣いていた。


 それを私や姉の牡丹が二人で宥め、あやした。その時に土筆が思いつきで見せたのが、碁石を消す遊びだ。


 これをすると、驚いて泣き止むからと、牡丹に頼まれ、一時期は頻繁にやっていた。


 流石にもう、そんなことで、泣き止ませる必要はなくなり、久しくやっていなかったのだが………


「初めての方に見せると、皆、驚くの。」


 だが、気をつけなければならない。


 ただ、手の動きで碁石を隠しているだけだけど、時々、本当におかしな呪いを使うと思い込む人間がいるのだ。


 だから、普段は滅多にやらないのだが、菫と同じ境遇の須美姫に、つい試してみたくなった。


 仕掛けを知った須美姫は、驚いて目を見張り、


「土筆さまは、本当に……噂通りの方ですね。」


 それで今度は、土筆自ら、おどけて、


「どうせ変わり者の姫として、有名なのでしょう?」


 と、肩を竦める。


「えっと…………」

「いいわよ、気を使わなくて。」


 須美姫は、惑うように目をキョロキョロさせてから、やがて、肩をストンと落として、


「……はい。」


 そこに先程までの緊張はなく、イタズラの見つかった子どものような、ほんの少しの気まずさを滲ませ、眉を下げて言った。


「でも私は、土筆のことが何だが好きになりました。」


 二人の間の空気が、温かく柔らかいものに変わった。

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