第5話 夕星と明星


 殺された夕星ゆうづつ

 結婚が決まった明星あかぼし

 それに付き添うつもりの女房。

 そして、消えた侍女と小間使いの下男。



 土筆つくしは、手のひらの上の小さな竹の欠片をじっと眺めた。

 素人が荒く削ったような薄い竹片は、土筆の指先よりも小さい。そこに、紐でも通すのだろうか、小さな穴が2箇所空いている。


 こんなこと、考えるなんて馬鹿げている。


 でも、ひょっとしたら……万に一つ。あるかもしれないーーー


 その考えが浮かんだとき、土筆は、口にせずにはいられなかった。


「夕星姫は……本当に殺されたのでしょうか?」

「……どういうことでしょう?」


 時峰ときみねが、怪訝な声で問い返す。

 土筆は、自分の考えたことを、順を追って説明した。


 すると時峰は、土筆の言わんとすることを理解し、そして頷いた。


「なるほど、そういうことも考えられますね。」


 話を最後まで聞き終えた時峰は、立ち上がって、言った。


「それでは一つ、貴女の仮説に立って動いてみましょう。」


 土筆は慌てて、扇で顔を隠した。

 立った時峰は、几帳よりもずっと高い。覗き込まれたら、顔を見られてしまう。


 しかし時峰は、こちらに視線を寄越すことなく、庭に降りた。


「あっ、くつ……」

「沓なら、ちゃんと、ありますよ。」


 時峰が自分の足を指している。

 今夜は、意外と雲が厚いようだ。明かりのない庭は暗く、薄っすら浮かび上がる時峰のシルエット。足元は、確かに沓のような形をしている。

 女房に案内されてここに来たはずなのに、何故、沓を持っているんだろうと不思議に思っている土筆に構わず、時峰は、


「今宵、私は、これで失礼いたしましょう。」


 告げる時峰の表情は見えない。


「なんせ、これ以上ここにいると、その几帳を越えてしまいたくなりますからね。」


「なッ………!!」


 土筆は驚きのあまり、思わず、扇を取り落とした。


「ご冗談は止してください。」


 そんなことを、なんの躊躇いもなく言うなんて、流石、好色男プレイボーイと名高い、藤原時峰だ。


「明日の晩も、来ていいですか?」

「ダメです。」


 土筆は即答した。


「二日続けて、夜に訪れるなど、誤解されます。」

「うーん。私は誤解されてもいいのですが……」


 時峰がまた、さらりと凄いことを言ってのける。と、その瞬間、強い風が吹いた。


 花の宴をしている庭の方から飛んできたのだろう、紅色の花びらが、二人の間に舞う。それと同時に、雲が切れた。月明かりが差した。


 慌てて扇を拾う土筆に、


「それでは、三日後、昼間に訪れましょう。事の顛末をお話しに。」


 それくらいはいいでしょう、と無邪気な子供みたいに、時峰が訊ねた。


「……分かりました。」


 確かに、事の顛末は気になる。自分が考えたことが合っているかどうか。

 だから、昼に訪れるならいいだろう。


 時峰に、再び会うのは危険ではないかと頭の中で鳴り響く警鐘を、土筆は理屈で抑え込んだ。


 時峰は、土筆の返事に満足したらしく、


「では、また三日後に。」


 と、爽やかに手を振って、庭の木の陰に消えていった。



◇  ◇  ◇



 部屋の外で、蛙がなく声が喧しい。

 春だから、仕方がない。

 ましてや、ここは右京の外れだから、仕方がない。


 明星あかぼしは、筆を手に持ったまま、軽く目を閉じた。


 父が生きていた頃が懐かしい。

 あの頃、屋敷は、左京三条にあって、庭には、季節の花々が趣味よく植えられていた。


 父はあまり社交的な人ではなかったから、他の貴族たちに比べれば、来客が多いわけではない。それでも、夕星ゆうづつ、明星姉妹は、それなりに評判だったと思う。


 あの日々が、遥か遠い昔のことのようだ。


「……明星さま?」


 明星は、女房に呼ばれて、ハッと気を取り直して、筆を置いた。


「写経……でございますか?」

「えぇ。まさか、あんなことが起こるなんて、思わなかったから……」


 不思議なものだ。


 そう仲が良い姉妹ではなかったのに、死んだと思うと、自分の身体の一部が消えたような気がする。


「せめて、弔ってあげたいと思って。」

「それは、良いことでございます。」


 年老いた女房も、しみじみ答えた。父の代から当家に仕えている、この女房は、何度、暇を告げても、頑として聞き入れない。


「それで、私に何か用事だったかしら?」

「あぁ、そうでした。」


 すすすと膝行して、明星の前で両手をついた。


「また、近衛中将殿がお見えです。」

「………藤原時峰どのが? また?」


 先日、夕星が死んだことは告げたはずだ。明星とは、元々面識がないのだから、もうここに来る理由はない。


「困ったものですね。中将殿も。夕星と添うつもりがあったわけでもないくせに、何をそんなに拘っておられるのか。」


 ため息をついた。


「お会いするつもりはない、とお断りくださいな。」


 明星は、再び小筆を手にした。

 しかし、女房が首を振った。


「それが……中将殿がおっしゃるには……」


 女房は、オドオドとしながら、


「下手人が分かった。だから、ーーーと。」


 明星はハッとして顔を上げた。筆先から墨がポタリと落ちる。黒いシミが広がった。


「中将殿は……藤原時峰さまは、夕星に会わせてくれ、とおっしゃったのですか?」

「えぇ。えぇ、確かに。」


 女房は首をブンブンと縦に振った。 


「聞き間違いではございません。確かに、そうおっしゃいました。」


 明星が、筆を硯に戻す。


 それを見て、女房が尋ねた。


「お会いに………なりますか? 。」


 気づかれた以上、このまま黙ってやり過ごすことは難しいだろう。


 やはり、自分が明星あの子に成り代わるのは無理があっただろうか。


 夕星は、目を瞑って、ゆっくりと頷いた。


「………えぇ。会うしかないようね。」



*  *  *



 夕星が都に戻ってきたのは、父が亡くなってから、ちょうど3年後だった。


 父が亡くなる少し前にまとまった縁談は、父の喪が開けて、すぐに結ばれた。そのときは、父という後ろ盾がなくなっても、約束通り履行された婚約に、安堵したものだった。


 それから夫となった人の地方への任官が決まり、それに付き添った。


 そして2年。


 夕星にとっては、辛い日々だった。


 都とは勝手の違う土地で、それでも最初の頃は、良かった。夫が夕星を大切にしてくれたし、土地の者たちも、京からきた姫を饗してくれた。


 雲行きが怪しくなったのは、半年ほど経った頃だった。


 段々と、夫が、夜を外で過ごすようになった。


 その約1年後、女に子ができたらしいと告げられた。


 夕星には出来なかった子が、できたのだ。


 それも、厄介なことに、相手の女が土地の豪農の娘だった。


 夫は、女を屋敷に引き取った。

 夕星は、その女のために、夫が屋敷の北側に設けてくれた上等な部屋を、譲らなければならなかった。

 それはつまり、実質的な北の方(正妻)の地位を明け渡すということだった。


 土地の者たちは、当然のように、その女を持て囃す。まるで、京から来た姫のように。

 本当の京の姫はーーー見向きもされなくなった。


 屋敷に産声が響いた翌日、夕星は、古くから付き添っている女房と二人、屋敷を出た。


 夫にも、情けがあったのだろう。

 京への道中の足だけは、手配をしてくれた。


 京へ帰ったとて、頼るものは妹しかいない。

 父が亡くなり、後ろ盾のなくなった妹は、父が所有していた古い右京の屋敷に移っていた。


 仲の良い姉妹ではなかったが、それでも、頭を下げて、置いてもらった。


「あら、お姉様。結局、出戻ってきたのね。」


 妹は、冷たく嗤った。


 明星は、幼い頃から、周りにチヤホヤされて、持て囃されるのが好きだった。男に媚びることばかり考えていた妹と、夕星は、昔から気が合わなかった。


「離縁されたんですって? 仕方がないわ。お姉様は、面白みも、可愛げもない女ですもの。」


 夕星が京を離れていた2年。明星もまた、辛く惨めだったのだろう。

 夕星も援助らしい援助をしてやることは出来なかった。彼女の気性からしたら、耐え難い屈辱の日々だったと思う。


 その耐え難い日々の中に、夫を女に寝盗られ、追い出された女ーーー夕星という、見下すべき存在が現れたのだ。


 その惨めさからくる鬱憤は、すべて夕星に向けられた。


 明星のところには、ひっきりなしに違う男が出入りしていた。


「お姉様のところは、誰もいらっしゃらないのね。お気の毒さま。」


 会えば嘲るように詰ってきたが、文句を言う事は出来なかった。


 夕星にも、負い目があった。妹を一人置いて嫁ぎ、そして、なんの援助もしてやれなかった。


 それに、今の夕星の食卓には、あの子が男から贈ってもらった食べ物の残り滓が並ぶ。

 食事の支度を始めとする雑事も全て、彼女の雇った侍女と下人がしてくれていた。


 彼女がいなければ、夕星の日々の糧はままならない。


 だから、夕星は、明星の嫌味も嘲笑も受け止めた。


 ある日のことだった。

 明星が、夕星を自分の部屋に呼びつけた。


「お姉さま。私、結婚が決まったの。」

「結婚……? そう……おめでとう。」


 あちこちの男と娼婦のように関係を持っていた明星だから、一人の男と結婚することはないと思っていた。だが、それでも、めでたいことに変わりはない。


「ごめんなさいね。何もしてあげられることがなくて……」


 父がいない今、唯一の身内の自分が、嫁ぐ妹に何かしてやるべきなのだろうが、夕星には、その財力がない。


「別に、あてにしちゃいないわ。」

「でも……」


 すると嗜虐的に唇を歪めて、


「ねぇ、聞かないの? 私の結婚相手。」

「……誰なの?」


 嫌な予感。

 こういう言い方をするときの明星は、たいてい夕星を見下すのだ。


「お姉さまも、よく知っている方よ。」


 明星の結婚相手は、かつて、父の従者をしていた青年だった。今は出世して、美濃にいるという。

 夕星が幼い頃から、よく面倒を見てくれた、優しい人だった。


「それでね、私たちが苦労していることを知って憐れに思って、妻にという話を頂いたの。」

「そんな……話は、聞いていないわ。」

「当たり前じゃない。手紙は、私にあったんだもの。」

「そう……だったの?」


 明星がクッと嗤った。


「嫌だわ。お姉様のところに、縁談が来ると思ったの? あちらも、傷物の女はお断りだって、おっしゃいましたよ?」


 身の程知らずなのね、と憐れむように言う。


「だから、あれほどお通いの中将さまも、お姉様に手を出されないのよ。」


 明星の言葉に、ガンと頭を殴られたような気がした。

 地面がグラリと揺れる。


 何度となく浴びてきたはずなのにーーーそれでも、中将のことを言われるのは、堪えた。


 憧れはあった。素敵な方だな、という好意も。だから、淡い期待を抱いた。


 けれど、中将は、夕星のことを、そういうふうには扱ってくれなかった。友人以上の関係には、してくれなかったのだ。


 中将が求める女性は、自分ではないのだ。


 心底、自分という存在に、価値がないのだと思わされる。


 いや、今更そんなことを考えていたって仕方がない。


「ともかく、お屋敷は、お姉様に譲るわ。私はここを出るから、どうぞ、あとはお一人で。」


 明星が、お寂しいこと、と高らかに嗤った。


 女房から真相を聞いたのは、その三日後だった。何やら、慌てた様子で部屋に飛び込んできた。


「夕星さま。」


 手に、蛇腹に折り畳んだ手紙を数通、携えている。


「これを……これを、ご覧ください。」


 手紙は、明星の婚約者が明星に宛てたものだった。だが、一通目のみ、宛名が夕星と明星に宛てになっている。


 手紙の中身は………ーーー


「これを……どこで……?」

「明星さまの部屋でございますッ!!」


 手紙には、父を亡くし、辛い想いをしているであろう姉妹を思い遣る言葉。そして、その中には、明確に書いてあった。世話になった父の恩に報いるために、自分で良ければ、夕星姫か明星姫のを娶りたい、と。


「私か明星を………?」


 夕星が結婚したことは知っているはず。にも関わらず、このように書くということは、離縁されたことをどこかで聞いたのだ。

 それでも、妻に迎えて良いと言ってくれたのだ。


 だが、明星は、「離縁された女は娶れない」と告げられたからと、言った。


「嘘っぱちだったんですよ、全部ッ!!」


 女房が悔しそうに地団駄を踏んだ。


「これを読んでください。続きです。」


 渡されて開いた手紙は、明星が出した手紙への返事らしい。

 中には、非難めいた口ぶりで、「離縁されて傷ついたとはいえ、夕星が家に男を代わる代わる呼ぶような女だとは残念だ」、「失望した」と書いてある。また、近衛中将もつくづく女の見る目のない方だ、と。


「明星が相手方に言ったんですよ! まるで、夕星姫が男漁りをしているかのように!! しかも、あの女、夕星さまが、近衛中将殿と結婚する予定だって告げたみたいです!!」


「そんな……」


 あれほど、中将とのことを憐れみ、蔑んだのに。

 本当に次から次へと男と関係を持っているのは明星の方なのに。


 なのに私は、離縁されたという、その事実一つで、まるで価値のないもののようにされたのだ。



ーーーだから……だから、私は……


 握った拳の爪が、夕星の手のひらに食い込んだ。



「だから、私は……あの子を……」


「殺してませんよね?」


 御簾の向こうから、低く、落ち着いた声が響く。


「夕星姫。貴女は、明星を殺していない。そうですよね?」


 中将、藤原時峰は、夕星に確認するように、そう尋ねた。

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