55 マルガレーナの見送り
「ソティア嬢。見送りまでありがとう。嬉しいわ、あなたに見送ってもらえるなんて」
「いえ、私こそ、お見送りさせていただきありがとうございます」
優雅に微笑んだマルガレーナに、ユウェルリースを抱っこしたソティアは恐縮してかぶりを振った。
午前中に聖獣の館を出る支度を終えたマルガレーナを見送るため、ソティアとユウェルリースも聖域と外界を区切る柵のところまで来ていた。
荷物はすでにマルガレーナの侍女達が運び出したため、あとはマルガレーナ本人を見送るだけだ。
「それと……。わたくしもユウェルリース様のお世話に携わらせてくださって感謝しますわ」
マルガレーナが気恥ずかしそうにはにかむ。
彼女自身が望んだため、朝食の前にソティアはマルガレーナと一緒にユウェルリースの朝ご飯のお世話をした。
一夜で成長したユウェルリースに、聖獣の館の侍女達も驚いていたが、『まんま〜!』とたどたどしく話せるようになったユウェルリースの愛らしさにたちまち夢中になっていた。
成長したのだからと、食事も昨日まで食べていた柔らかいものより
『わたくしや他の令嬢も、侍女達にかしずかれることはあっても、誰かのお世話をする機会なんてありませんもの……。もし聖獣様に何かあってはとあなたに任せてばかりでしたけれど……。もっと積極的にお手伝いすればよかったですわね』
ユウェルリースに食事をあげたあと、後悔をにじませて告げたマルガレーナに、ソティアはあわててかぶりを振った。
令嬢達があてにならないからと最初から相談もせずにユウェルリースのお世話を勝手に進めたのはソティアなのだから。
謝罪したソティアに、マルガレーナは柔らかな笑みを浮かべた。
『あなたは本当に人が好いのね。だからこそ、ユウェルリース様もこれほど懐いていらっしゃるのでしょう。そして陛下も……』
マルガレーナの最後の言葉は低すぎて、ソティアには聞きとれなかった。
ちなみにジェスロッドはマルガレーナが無事に目覚めたと報告を受けてすぐ、王城へ戻ったと侍女長から聞いている。
昨夜別れたきり、ジェスロッドとはひと言も交わせていないが、それを寂しく思うのは
本来なら、ソティアなど、ジェスロッドと言葉を交わすのはおろか、拝謁すら許されぬほどの身分なのだから。
マルガレーナに教えてもらったところによると、今日は邪神を封じたことを祝う式典があるらしい。
昨夜、邪神の残滓の瘴気にふれた時を思い出すだけで、恐怖に身体が震えそうになる。残滓でもあれほどの力を持つ邪神と戦い、それを封じたなんて……。
ジェスロッドが無事で本当によかったと安堵すると同時に、ソティアなどが想像もつかぬほどの高みにいる御方なのだと、あらためて痛感させられる。
この想いが決して届く方ではないのだと。
胸の痛みに、無意識に唇を噛みしめたところで。
「あら……?」
マルガレーナがかすかな声を上げて聖域の外を振り返る。
我に返ったソティアの耳に聞こえてきたのは、初夏の風に乗って届くエディンスの叫びだ。
「ちょっ、陛下――っ! 待ってくださいよ~っ!」
叫ぶエディンスのかなり前を足早に進んでいるのは長身のジェスロッドだ。
力強い歩みは、いまにも走り出すのではないかと思える。
式典からそのまま来たのだろうか。国王にふさわしい立派な衣装を纏う姿は、思わず見惚れてしまいそうなほどの凛々しさだが、いまはそれどころではない。
ジェスロッドがこれほど聖獣の館に急いで来るなんて、何かよからぬことがあったのだろうか。
「ちぇちゅ~っ!」
緊張するソティアとは裏腹に、腕の中のユウェルリースが嬉しそうに名を呼んで、じたばたと暴れ出す。
「ちぇちゅ、ちぇちゅ~っ!」
ユウェルリースはどうしてもジェスロッドのところに自分の足で行きたいらしい。
いまにも腕の中から抜け出しそうな暴れ方に、ソティアは仕方なくユウェルリースを地面に下ろす。
てっちてっちとユウェルリースが小さな身体を揺らし、懸命にジェスロッドへと歩き出す。
そのユウェルリースが着ているのは、午前中、ソティアと侍女達が大あわてで縫い上げた子ども服だ。
実家から弟妹が使っていた産着の中で比較的綺麗なものは何枚か持ってきていたが、まさかこれほど急に大きくなるとは思っていなかったので、子ども用の服は持ってきていなかったのだ。
さすがに靴までは用意できなかったため、ユウェルリースがいま履いているのは厚手の布を何重にも縫いあわせた布製の靴だ。ユウェルリースは気に入ってくれたらしく、今朝からてちてちと部屋の中を歩き回っていた。
「ちぇちゅ~っ!」
「ユウェル……!」
ソティア達の姿を見た瞬間、駆け出していたジェスロッドが、自分のほうへ歩んでくるユウェルリースに、思わずといった様子で歩をゆるめる。
「あーいっ!」
嬉しそうな声を上げ、両手を上げたユウェルリースを、ジェスロッドの大きな手がひょいと抱き上げた。
きゃっきゃと笑うユウェルリースにつられたように、険しかった表情をしていたジェスロッドの面輪がようやくゆるむ。
ユウェルリースを抱いて速度を落として歩き始めたジェスロッドに、後ろから全速力で走っていたエディンスがようやく追いついた。
「へ、陛下……っ! いったいどうなさったんですか……っ!? 式典が終わった途端飛び出し――うぇぇっ!? マ、マルガレーナ……っ!? どうなさったんですかっ、その
がしぃっ! とジェスロッドの肩を掴んだエディンスが、肩を過ぎた辺りで切り揃えられたマルガレーナの髪を見た途端、
信じられないものを見たように見開かれた緑の瞳は、いまにもこぼれ落ちそうだ。
「……やっぱり、変でしょうか……?」
不安そうに眉を下げて問うたマルガレーナに、エディンスが千切れんばかりに首を横に振る。
「とんでもないですっ! とてもよくお似合いです!」
力強く言い切ったエディンスが、言葉だけでは足りないと言わんばかりに、ジェスロッドから手を放して身を乗り出す。
「マルガレーナ嬢はどんな髪型をなさっていてもお美しいですっ! 短い髪もマルガレーナ嬢の新たな魅力を引き出していて、たいへん素晴らしいと思いますっ! マルガレーナ嬢のお姿を見れば、他の令嬢達もそのお美しさに憧れて、髪をばっさり切る方が出ないとも限りませんよ!」
真剣極まりない表情で言い募るエディンスの様子は、心の底から似合っていると思っているのがソティアにまで伝わってくる。
エディンスの言葉に、マルガレーナも安堵したように表情をゆるめた。髪を切り揃えたソティアも心からほっとする。
「殿下の信が篤いばかりか、洒落者と評判のエディンス様にそのように言っていただけるなんて、嬉しゅうございますわ」
マルガレーナに微笑みかけられたエディンスの顔が、一瞬で熟れた林檎のように赤くなる。
「マ、マルガレーナ嬢……っ!」
水揚げされた魚のように口をぱくぱくさせる様は、いつも軽妙で
マルガレーナを見つめる熱っぽいまなざしは、完全に恋するもののそれだ。
と、エディンスが我に返ったように咳払いして姿勢を正す。
「し、失礼いたしました……っ! 次期王妃の呼び声も高いマルガレーナ嬢によからぬ噂を立てるつもりなどはまったく……っ! どうぞ、とりとめもない
次期王妃。
深々と頭を下げたエディンスの言葉に、ソティアの胸がずきりと痛む。
マルガレーナが最も次期王妃にふさわしいことは、ソティア自身も、まったくそのとおりだと思っているというのに。
ジェスロッドの隣にマルガレーナが並び立つのだと想像するだけで、胸が痛くてたまらない。
つい先ほどとはいえ友人になったというのに、マルガレーナの幸せを心から祈れない自分の狭量さに、泣きたい気持ちになってくる。
と、マルガレーナがゆるやかにかぶりを振った。
「エディンス様。わたくしは次期王妃にはなりませんわ。……いえ、なれませんの」
「え……っ!?」
凍りついたように動きを止めたエディンスには応えず、マルガレーナがジェスロッドを振り仰ぐ。
「陛下。勝手なことを申し上げて、誠に恐縮でございますが……。昨夜お願したことを、撤回させていただけませんか?」
マルガレーナの言葉に、ジェスロッドもまた、虚をつかれたように目を瞠る。
「マルガレーナ嬢が取り下げたいと言うのなら、俺に否はないが……」
答えるジェスロッドの凛々しい面輪には、困惑の色が浮かんでいる。
「だが、聖獣の館に残ってまで、直談判をしたというのに……。よいのか?」
「はい。構いません」
きっぱりと、一片の迷いも見せずにマルガレーナが断言する。
「ソティア嬢とお話して、わたくし、心が決まりましたの」
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