2 聖獣、赤ん坊になる


「だぁっ!」


 いまにも服が脱げ落ちそうになりながら、腕の中の赤ん坊が元気いっぱいの声を上げる。


 にぱぁっ、と笑う様子は、愛らしいことこの上ないが、ジェスロッドの目には、呆然自失の自分をからかっているようにしか見えない。


「だぁう~っ!」


「おいっ、暴れるな! 服が脱げる!」


 赤ん坊と接した経験など、これまでの人生で一度もない。


 びっくりするほど軽くてふにゃふにゃした身体は、うっかりすると潰してしまいそうなほどだ。


 ふくふくした手足をじたばたさせるユウェルリースの小さな身体をいままで着ていた服でくるんだジェスロッドは、足早に地下室の扉へ向かう。


 邪神は再封印したものの、周囲はまだ瘴気の気配が濃い。本体は封じたが、床のあちらこちらにジェスロッドが斬り飛ばした触手が転がっている。


 ぐずぐずと形を崩しつつはあるものの、邪神の欠片だ。やがて消えるに違いないが、その前に聖剣で斬り、消滅させておくべきだろう。


 だが、もぞもぞといっときもじっとしていないユウェルリースを片腕に抱いていては困難だ。何より、 こんな瘴気に満ちた場所に赤ん坊のユウェルリースを長居させてよいものかわからない。


「だぁ~っ! だっ!」


 揺れるのが楽しいのか、腕の中のユウェルリースがきゃっきゃとはずんだ声を上げるが、むしろジェスロッドは途方に暮れて泣きたい気持ちだ。


 何百年とローゲンブルグ王国を守ってきた聖獣が力を使い果たして赤ん坊になったなんて、たちの悪い夢に掴まったかのようだ。


 邪神の罠にかかって悪夢の中に彷徨い込んでしまったのかとすら思う。


 が、腕の中のユウェルリースは確かな重みとあたたかさを伝えてくる。


 固く閉ざされた扉を気忙きぜわしく押し開けると、


「終わったのか?」


 とすぐさま鋭い声が飛んで来た。声の主はジェスロッドの従兄弟いとこであるアルベッドだ。


 ジェスロッドの父の妹――つまり叔母は、隣国のバーレンドルフに王妃として嫁ぎ、一男一女をもうけた。


 従兄弟であるアルベッドは次期バーレンドルフ国王だが、同時に、邪神を封じる聖剣を振るえる条件がローゲンブルグ王家の血をその身に宿していることという関係上、ジェスロッドに婚約者がいない現在、ローゲンブルグ王国の第三位王位継承権を持っている。


 扉の外で待っていたのも、万が一、ジェスロッドの身に何かあった場合、ジェスロッドに代わってユウェルリースとともに邪神を封じるためだ。


 万が一邪神が復活した場合、ローゲンブルグ王国だけの問題ではない。すべての国々が恐怖と混沌に飲み込まれかねない。


 そのためならば、他国の王太子であるアルベッドを聖域に招き入れることも許容の範囲だ。


「ああ、邪神本体は復活した。だが……」


「何だ、この赤子は!? もしや、これが……っ!?」


 ジェスロッドの腕に抱かれた白銀の赤子の姿に気づいた途端。アルベッドが緑色の目をみはる。


「ああ。邪神の封印と引き換えに、ユウェルが力を使い果たし……。とにかく、この状況を放ってはおけん。アルベッド、お前も来い。まずは父上達に報告する」


 一方的に告げ、ジェスロッドは足早に歩を進める。


 ジェスロッドの動揺を知ってか知らずか、腕の中のユウェルリースは、「だぁっ、だぁっ!」と暢気のんきな声を上げるばかりだ。


 石造りの廊下に、ジェスロッドの気忙しい足音だけが高く響く。


 白銀の鎧に包まれた長身が通路の角を曲がって消えたところで。


「相打ちになれば僥倖ぎょうこうと思っていたが……。想定外すぎたな」


 無言でジェスロッドを見送っていたアルベッドは苦々しい声をこぼす。


 まさか、何百年もの時を生きるユウェルリースが赤子の姿になるなんて、想像もしていなかった。


 おかげで、千載一遇の好機を逃してしまったことに今さらながら気づき、思わず舌打ちする。


「だが、ジェスロッドが邪神を封印することはもとより想定内……」


 低く呟き、冷静さを取り戻したアルベッドは、ジェスロッドが閉じた邪神が封じられた部屋の扉をそっと押し開ける。


 案に相違して、複雑な紋章が刻まれた古めかしい木の扉は、あっけないほど簡単に開いた。


 途端、部屋の中からあふれ出してきたのは、反射的に嫌悪感をもよおすほどの、濃厚な瘴気の気配だ。


 本体が封じられたにもかかわらず、部屋のあちらこちらで大人の腕よりも太い触手がおぞましく蠢いている。


 本来ならジェスロッドが一片も残さず滅していただろうが、ユウェルリースが突然、赤ん坊になってしまったため、対処できなかったに違いない。


 生身の人間の気配を感じたのか、蠢いていた触手が、まるで獲物を見つけたかのように、アルベッドに殺到する。


 身を引いて触手達をかわしたアルベッドは、素早く扉を閉めた。そのまま、おぞましく蠢く触手を無視して、ジェスロッドの後を追う。


「何が起こるのか……。せいぜい、楽しませてもらおう」


 聖域の中に入れるのは、ローゲンブルグ王家の血を引く者と、清らかな乙女達だけだ。


 そして、肝心の聖獣は赤子になっているときている。


 邪神を封印できたと安堵しているに違いないジェスロッドが邪神の残滓に殺されてくれれば、しめたもの。


「ローゲンブルグ王国の王位も聖獣の力も、わたしのものだ……」


 今頃、ジェスロッドをたたえているだろう人々の元へと歩みながら、アルベッドはくらい笑みをこぼした……。



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