立葵、薄紅牡丹、放春花。

氷桜

霞草-1


さあ、と小さな雨が降り注ぐ夜。

花を濡らす、世界を湿らせる。

けれどそれ以上でも以下でもない、水無月の初めの頃だったらしい。


二つの産声が響いて。

一つの産声が産まれることはなく。

双子は一人の女の子として。

一人は、唯の一人として。


それぞれが世界に、降り立ったのは。



《1:霞草。》



行ってきます、と。

小さく棚引く線香の香りに、声を掛けた。

行ってらっしゃい、なんて声は一つ。


運動靴を履いて、背中のリュックの口が塞がっているのを確認し。

折り畳み傘を手に握り、重く閉じられた玄関口を開く。

道路に面した柵までは、通り道のように幾つもの花が道を作り。

毎年の如く、霧のような雨が世界を覆っていた。


はぁ、と漏らす声は既に幾度も発してしまった自分の物。

溜め息を吐くだけ幸福は逃げていくと言うけれど――――今の状況が不幸かどうかと聞かれれば。

はっきり首を捻ってしまうだろう。


食事に困ったことはない。

生活に困ったこともない。

成績も中の上、運動神経が悪いわけでもない。

只々埋没するだけの一個人として成り立てる今の自分は、決して不幸ではない。


ただ、それでも。

『不幸かも知れない』、そんな事を思ってしまうのは。

俺にはない全てを持ち合わせた、上位互換のような存在がいるからなのかも知れない。

そんな人間とずっと付き合い続けた十七年間は、そんな諦観を俺に与えるには十二分過ぎる程に長かった。


横目に、『石蕗つわぶき』と刻まれた表札を見ながら。

傘を差し、霧の中の鉄柵を抜け一つ隣の家まで向かう。


ずっと昔――――未だに父が生きていた頃。

その当人が、隣の家の父と合わせて作ったという遺産の一つ。


幼い頃の記憶の中にだけ残る、妙に大きな背中。

そして今よりも少しだけ若い、母と仲良くしていた姿。

……隣の家の両親と合わせ、四人で過ごしていた姿。


今では、互いに一つずつを欠けさせて。

二人しか残っていない、重みの産物としての側面も秘めているモノ。

そして、未だに心に傷跡を残す理由の一つ。

だからこそ、毎朝……欠かさずにそれを見るのも習慣の一つ。


時間はきっちり朝の七時半。

それがいつも通りのことで。

のが、自分の定期的な行動として成立している。


和風の雰囲気を残した自宅とは違い、洋風の2階建ての家。

その呼び鈴を小さく一度押す。

直ぐにぱたぱたとした足音が聞こえてくるようで。

いつも通り、決まって30秒ほどしてから玄関が開いた。


「……おはよ」


「おはよっ!」


制服に身を包んだ、黒髪を背中ほどまで伸ばした少女。

ポニーテールとかいうらしい、首元辺りで髪を纏め。

白と赤を混ぜ合わせたようなリボンで散るのを防いでいるような髪型。

にも関わらず……和風の簪を胸に入れたのが印象に残る、女性と少女の境目に立つ異性。


「……相変わらず、朝から元気だよね」


今日はそっちか、なんて言葉を漏らして。


「そりゃ、朝は元気になるものでしょ?」


ただ、聞いただけでは理解できない言葉を受け流す。

お互いにしか分からない、お互いの周囲にしか伝わらない。

他では漏らす理由も意味もない、彼女にのみ向けた言霊。


「どうだろ……僕はいつも似たようなものだからなぁ」


当然のように傘に入ってきて。

当然のようにそれを受け入れる。

ずっとずっと繰り返し続けて、当たり前となってしまったそんな行為。


「じゃ、行こうか……葵」


霞葵かすみあおい

俺と同日に産まれた。

そして、産まれることが出来なかった幼馴染の少女達。


「そうだね、あけちゃん」


そんな彼女達と。

普段と変わらないように――――歩き始めた。

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