芥川龍之介 蜘蛛の糸 考察

 芥川の代表作であまりにも有名なので私が考察を考えるのもおこがましいのですが、書いてみようと思います。


 私はこの作品で大きく考える所が3点あると感じました。お釈迦様が歩いている天界とカンダタがいる地獄との対比、極楽の蜘蛛から出ていた長い糸、それと地獄から抜け出そうとする時のカンダタの行動です。


 まず、天界と地獄の対比について、自分なりに掘り下げてみます。善行の積み重ねのような考え方で、徳というものがありますが、地獄の罪人の罪とお釈迦様の徳の対比、それがプラスとマイナスの極値的に表された世界として、天界と地獄がここで書かれているのではないかと感じ考えました。芥川自身はどちらの世界に身をおいてこの作品を書いたのかというと、やはり地獄ではないかと思います。地獄からほぼ無限遠に位置する、死後の精神世界における絶対的な存在として、お釈迦様が天界にいるのでしょう。それが存在することによって、地獄にいるカンダタと自分を重ね合わせた作者の逆説的な救いになっているのではとこの部分を読み取りました。


 次に、蜘蛛からの長い糸についてですが、こう考える方が多いかもしれません。それは、この極楽の蜘蛛は、カンダタがただ一つ善行を行って命を助け、その後天寿を全うし、極楽に来ることが出来たのだということです。その蜘蛛が銀色の長い糸を出していたのは、お釈迦様にカンダタの大罪の許しを請うためのサインではないかと考えます。それを酌み取ったお釈迦様が自ら機会として銀色の細い糸を血の池地獄まで下ろし、カンダタがそれで救われるか試したのでしょう。糸の細さはカンダタが蜘蛛を救ったことによる、非常にわずかな徳、地獄までの糸の長さは大罪の深さを表していると私は考えています。


 最後は、血の池地獄から糸を登って抜け出そうとする時のカンダタの行動についてですが、果てしない長さの糸を登って行く時、ふと下を見ると、無数の他の罪人も蜘蛛の糸を登って来ています。この時、カンダタの自己中心的、自利的な行動により蜘蛛の糸が切れてしまいます。罪人はカンダタのわずかな徳にすがって助かろうとしていたわけで、このことはお釈迦様が彼の心を試した場面でしょう。しかしながら、カンダタの徳を表した糸は切れてしまいました。お釈迦様はカンダタの後に、例え100万人の罪人が続いたとしても、全てを救ったのではないかと思います。


 カンダタの行動を悲しみ、またどこかへ歩いて行ったお釈迦様も、一抹の寂しさを感じたのではないかと。その寂しさを癒やすために、お昼をまわる頃の天界で一緒にいれるようになった、父と母、そして十大弟子達と静かに穏やかに話し、瞑想をされてから休まれたのではと、物語の後を想像します。

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