第33話 始まったものいつか終わりが来るから

「よう、リベンジマッチに来たぜ」


 加古川誠は努めて平静を保った調子で言葉を紡ぐ。

 同時に右腕の状態を確かめるべく、アームを軋ませた。そして一年振りに握るもう一つの得物の感触をも何度となく確認を繰り返す。

 柄を掴む力を強め、弱め、そして再度強める。

 刃渡り三〇センチ前後。包丁と類似した刀身を有してこそいるものの、柄はより力を込めやすいように計算され尽くしている。

 魔物の肉体を、まな板に上がった動物同然に切り裂くために。


「首裂きの片刃……なんだか懐かしいな」

「だ、大丈夫なんです。加古川……?」


 前任者がダンジョン内で戦死した後で外側冒険者の手によって回収されて闇市へ流れ、曰くつき故に買い手がつかなかった代物。値段の割に握り心地が気に入ったため、購入を決意した日を思い出す。

 当時側にいた恩人は既に現世を去り、代わりとばかりに背中から顔を覗かせる少女は震える声を投げかけた。

 飛田貫伊織が抱く不安は当然。

 先に刃を交えた時は、道連れ覚悟の特攻染みたやり方で紙一重といった所。空の手に得物を一つ握った程度で埋まる差とは思えず、更には命を投げ打つ抵抗を行う気はない以上、彼我の戦力差は広がる一方。

 だが、だからこそ加古川は自信あり気に言葉を紡ぐ。


「大丈夫だろ、これで三度目だ。いい加減見飽きたんだよ、あの面は」

「飽きたって、適当な……」

「グゥア……!」


 少年の態度に呆れた伊織は胸中の不安を露わにし、挑発と解釈した赤錆の人狼は喉を鳴らす。

 尤も、怒りを剥き出しにしたいのはむしろ加古川の側。

 だからなのか、続く言葉は自然と攻撃性が強まり。


「次はまだ見たこともねぇ腸でも見てぇ気分だ」


 鈍色の刀身が煌めくナイフの切先で腹を指し示した。


「……!」


 対して血走った眼光を見開き、レッドフードは赤錆の毛並を逆立たせる。

 低く屈められた両足は獲物へ飛びつく直前の肉食動物を彷彿させ、太腿ははち切れん程の膨張を引き起こす。込められた慮外の脚力に耐え切れず、断末魔の叫びと共に大地は亀裂を刻み込んだ。

 臨戦体勢だと直感的に判断した加古川は背後の伊織を遠ざけるようにそれとなく手で合図し、漆黒の瞳を鋭利に研ぎ澄ます。

 僅かに口を開いて牙を覗かせ、同時に力なく垂らされた舌に唾液と鮮血の化合物が追随した。

 大地に落下した化合物が、戦いの始まりを告げる。


「グゥゥゥアァ!!!」

「ッ!!!」


 大気を震わす出鱈目な衝撃。凡そ人の目では追随することも叶わぬ速度による突撃に対し、加古川は左肩を突き出す半身の姿勢と左のナイフで迎撃。

 血に染まった爪を受け止め、甲高い音が幾度となく反響する。

 魔物、それも特異個体にまで変貌を遂げた膂力に奥歯を噛み締め、受け流すべく右下へナイフを振るう。

 流れに従った右腕が大地を抉り、爪が突き立てられた。

 隙としては一秒にも満たぬ極短時間。しかし、戦闘用の出力にまで向上している対の腕が唸りを上げるには充分な時間。


「こっちの番、だな!」

「グゥ、ア……!」


 反撃の拳を躱すべく、レッドフードは後方へ飛び退く。

 突き刺さった腕を引き抜く時間は誤差に過ぎずとも、全開の拳圧は毛並を不快に揺らした。

 加古川としても回避されるのは誤算だが、何も一撃で撃破できるとまで楽観視してはいない。むしろ決め手となろう時以外、極力温存するのが現状の最善手。


「あの野郎の言葉に従うのは癪だがよ……!」


 脳裏に蘇ったのは、一級冒険者にして剣聖である月背の言葉。

 失った右腕を義腕で補って以降、自然と加古川はナイフを握ることがなくなっていた。

 両手用の二振りを購入したことで無意識の偏見が混じっていたのかもしれない。また、星倉卯月達がいなくなった事実から少しでも目を逸らすべく、意識的に戦法がねじ曲がっていたのも否定し難い。

 気づけば右腕一本で戦いを繰り広げていた。

 ならば左に使い慣れたナイフでも握れば、敏捷に動き回る相手への対処も少しは楽になるというもの。


「実際有効だとなんとも言えねぇな!」

「グウゥ、ゥア……!」


 剣閃と火花が徒に数を増やすも、互いに有効打は増えず。

 大振りになりがちな虚之腕を控えて左のナイフで牽制を繰り返す加古川。

 先の発熱によるダメージを警戒してか、一つ場所に留まることなく軽快なフットワークを発揮するレッドフード。

 すれ違い様の一閃や数度の連撃をナイフで捌いては、相手の進行方向へと身体を向け直す。そして加古川を軸にした旋回の末に再度の接触。

 通路故に先の戦いよりも立ち回りに制約こそあれども、現状では左右へ意識を割き易い程度の話。

 しかし目で追うことすらも困難であった初速の突撃と比較すれば、どこから攻撃が来るのかの予測がしやすい現状の方が加古川には好都合であった。

 結果、互いに得物をぶつけ合う火花ばかりが際限なく数を増す。


「グゥアァァ!!!」


 一進一退の攻防に痺れを切らしたのは、暴食の化身。

 雄叫びを一つ、自らの戦意を奮い立たせると加古川の方を向き、四つの轍を地面に刻む。そして太腿だけではなく二の腕をも膨張させ、大気ごと破裂させた。

 後方へ岩の弾丸を射出し、自身は瞬く間に加古川へ接敵。


「なッ……この!」


 急な変速に動体視力が追いつかず、加古川は勘でナイフを振るう。が、直感がそう何度も正解する道理もなし。

 空を切る刃とは対照的に左脇からは鮮血が飛び散り、黒のインナーに隠れた皮膚が露わとなる。壁に付着した赤もまた、少年への一撃のみが直撃したことを雄弁に物語った。

 更に変速に手応えを覚えた人狼は、牽制の意味も込めて跳躍。

 急速に迫る天井を蹴り上げては、縦横無尽にその身を揺らす。


「ハッ。脇腹を少し掠っただけで勝ったつもりかよ……舐めんなよ」


 削岩機よろしく獰猛な音でがなり立てる赤錆の人狼を前に、挑発の言葉を返す加古川。

 魔物が人語を介することはない。それは通常の個体とは異なるレッドフードにしても例外ではなく、事実として返答は腹の虫と区別がつかない唸り声のみ。

 それでも少年は目つきを鋭くして言葉を紡ぐ。

 死への恐怖か、或いは恩人を殺害された怒りか。

 いずれにせよ、口を閉じれば呑まれてしまう。故に平静を手放さないためにも絶やすことなく口を動かし、意味のある音を紡ぎ続ける。


「そらぁッ!」


 再度閃光が瞬き、背後に視線を感じると同時に左肩から鋭利な激痛が走る。手元のナイフに手応えは、ない。


「加古川!」


 悲鳴にも似た叫びを上げる伊織に意識を傾ける余裕もなく、代替として削岩機の音が鼓膜を揺さぶる。

 振り返る。

 ナイフを振るう。

 空ぶる。

 振り返る

 ナイフを振るう。

 空ぶる。


「ハァ……ハァ……頭に血が上ってた、からな……このぐらいがちょうどいい、ってなもんよ……!」


 幾度となく鮮血が飛び散る中、加古川側の反撃は尽くが外れ。

 いつの間に形成された血の海が足元を濡らし、彼から体温をも奪い去る。口端こそ余裕を形作るものの、肩で息をしていてはやせ我慢と容易に理解が及ぶ。

 とはいえ、視界が霞んだ訳でもないのは僥倖。

 頭部への一撃だけは死守すべきと、重点的に意識していた甲斐があったというもの。

 あと少し。コンマ数秒程度の誤差さえ修正できれば、忌まわしき人狼の毛並に奴自身の赤を付け足すことが叶う。


「ハァ……ハァ……来いよ」


 徐に左腕を上げ、ナイフの切先で動き回るレッドフードを追う。大きく動かすのではなく、手首をスナップさせて軽く照準を合わせるように。

 最初は追従も叶わぬ速度域であったが、今では軌道の予測も手伝ってほぼ正確に捉えつづけている。

 そして突撃の刹那、完璧に照準が揃い──


「ハッ!」


 短いかけ声と共にナイフが弧を描く。


「グゥ……!」


 一瞬、手元に走った鈍い感触とレッドフードが零した呻き声。そして遅れて付着する返り血が主張する。

 確かな手応えを、化生の突撃に対する反撃を。

 地面を擦る音に振り返れば、腹部へ視線を落とす魔物の姿を視認した。地面に刻まれた轍も均一ではなく、左側を中心に微かな歪みが見て取れる。

 出血こそ多くはない。

 だが防戦一方であった状況と比べれば雲泥の差というもの。


「そら、そろそろ決着と洒落込むか。おい?」

「グゥ、アァ……グゥウ……!」


 互いに睨み合い、不意の動きに即応するべく僅かに身体を揺らす。

 次の一手を模索し合う膠着状態へと陥り、加古川は身体ではなく頭を回す。

 そして緊張が張り詰め、空気が破裂するのではないと危惧する程になった段階で闖入者の声が木霊した。


「捉えたぞ、件の人狼」

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