ツノとしっぽ ――牛窓プロメテウス伝説――

猿田夕記子

第1話 岡山県瀬戸内市牛窓町

「すばらしい海だ。まるでエーゲ海のようだな」

 ぼくは明るい海を眺めて、感慨たっぷりにいった。


「いいや、ここは岡山県瀬戸内市牛窓町だ」

 三宅が実に現実的極まるセリフを吐いた。その通り。そしてここは旅館の二階だ。


「だいたい、森田君はエーゲ海を見たことはあるのかね。ないんだろう。それなのにエーゲ海こそが素敵だというのはどういうことだ。君は今ここにある牛窓の海を美しいと思わず、架空のエーゲ海を見ようとしている。そんなことでは君は永遠に実存を見ることはかなわないだろう!」


 三宅は、ぼくが通っている大学の先輩だ。

 研究室に出入りするうち、ぼくはこの変わり者の男に興味を持つようになったのだ。


「そりゃあ、まあ、ぼくは俗人だからね」

「いや、俗人は神経衰弱などにかからない」

 三宅はきっぱりといいきった。


「うん、森田君の様子はおかしかったな。なにしろ『顔の長い女がへんな柄の着物を着て立っていた』なんて言い出すくらいだからな」


 ぼくはこの春から調子が悪く、卒業論文だってままならないくらいに精神状態が悪化していた。


「でも心配するな。ひと夏、牛窓の日光に当たればきっとよくなるさ。うちの旅館はこの通りのんびりとしたところだから、まあゆっくりやってくれたまえ」


 三宅はぼくの様子を見て「それならうちで療養しろ」と、ぼくを牛窓に引っ張ってきたのだ。


「それはありがたいのですが……なぜそんなに親切にしてくれるんですか?」

 ぼくは過敏な現代っ子なので、昔ふうの書生的友情にはなじみがうすかった。もっというと、三宅は何かウラがあってぼくを招待したのではないかとすら思っていた。


「……昔、ぼくの友だちが死んだんだ。自殺だよ」

「えっ」


「いつもと同じように明るく笑っていた。別に何も困っていないふうに見えた。でもある時、私をちょっと引き留めるようなことをいったんだ。『相談したいことがあるんだ』と。だけど、その時私は忙しかったんだ。明日のレポートがどうとか。くだらない話だよ。翌日、彼はアパートで首を吊っていた」


 ぼくは何とも答えられなかった。


「だから私にはわかるんだよ、君は今にも死にそうだ。もし君が一人でいたなら、きっとこの夏は乗りきれないだろう。秋に腐乱死体になって発見されるだけさ。君は自分で思っているよりずっと悪い。だから私は、私が後悔しないよう、君を見張っておこうというわけだ。自己満足だよ」


 ぼくは、彼の真摯な態度に驚いた。心打たれた。


 確かにぼくは自分の毎日に不安を感じていた。ぼくは母を早くに亡くし、父も高校卒業間際に事故に遭って、今は天涯孤独の身だ。ふわふわした状態のままでいたら、何をしでかすかわからない。


 そして、彼を疑った自分が恥ずかしくなった。

「そんなことがあったんですか……それはどうもかたじけない」


「なに、礼はいらない。それでは私は失礼するから、君は勝手にのんびりやっていたまえ」

 そういって、三宅はふすまを閉めて出ていった。


 うーん、ぼくは自分で思っているより悪いのだろうか。でも、ひと夏無銭で旅館暮らしできるなんて、願ってもない話だ。

 ぼくはエーゲ海みたいな牛窓の海を見つめて、三宅に感謝した。すると、老婆が入ってきてお茶をいれてくれた。


「あっ、これはどうも」

 老婆は返事をせず、もくもくと給仕する。

「あんた……」

 老婆は、ぼくをじろりとねめつけた。

「な、なんでしょう?」

「……」

 老婆は黙ったまま、お茶とお菓子を置いて去っていった。

 変な人だ。ぼくに惚れでもしたのだろうか。


 ぼくはお菓子を食べた後、気分転換に外に出かけてみた。のんびりとしていて、いいところだ。

 海岸では、一人の和服姿のご婦人が立っていた。黒白水玉模様の、へんな柄の着物を着ている。


 へえ、こいつは絵になる光景だ。

 ぼくは別に熟女好みってわけじゃないけど、彼女の後ろ姿から目が離せなかった。どこかで見たことがあるような人だ。懐かしい感じがする……まさか女優とか?


「もし、あなた」

 彼女は海を見つめたまま、言葉を発した。ぼくに言ってるのか? まさかね。

「そこの後ろのあなた」

「は、はい」


「運命というものを信じますか?」

「……え、えーと……いくらかはあるかもしれませんが」


「プロメテウスの予言は何を意味していたのでしょうか」

「プロメテウス? す、すみません。ぼく理系なんで」

 へどもどして、スマホでプロメテウスのことを調べようとすると――あれ? 彼女がいない……。

 ここは砂浜で、隠れる場所もない。

 なんだったんだろう?

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