第263話
パルタの都は水の都と呼ばれてきた。都の中心に、水の湧き出し続けている大きな井戸がある。
王都トルネリカと地方の伯爵領の間にある都で、遠征軍に参加する若者たちが王都を目指して行く途中で、ここで給水するために立ち寄った。
この時期に、獣人娘アルテリスも辺境地帯から来てパルタの都へ立ち寄っている。
まだこの時期は、執政官がベルマー男爵だったから、住人たちの雰囲気に不安があった。
男性たちは王都トルネリカや地方の伯爵領に働きに出かけ、女性たちや、まだ幼い子供たちばかりが暮らしていた。
若者たちは、遠征軍に参加したら戦死して生きて帰れないかもという不安な気持ちを抱えていた。
パルタの都でこの執政官ベルマーに逆らえば、遠く離れた土地へ出向して働く恋人や夫にどんな仕打ちをされるかと脅されていた人たちの権力の怖さを感じていた。
獣人娘アルテリスが、呪われて生きた人形のようになっていた冒険者レナードの治療の手段を探すため、旅の途中で立ち寄った時期には、そんな死の不安や権力への恐怖の気持ちを抱えた人たちが集まっていた。
今は騎士ガルドが執政官ベルマーを粛清した。また、女騎士ソフィアが、ベルマー男爵にパルタの都を与えて自分も利用していた黒幕のモルガン男爵をパルタの都へ誘き寄せて粛清した。
――このパルタ事変で、執政官ベルマーから、後任の執政官マジャールに統治者が変わった。
そのため、パルタの都の雰囲気は、以前よりはずっとましになっている。
アルテリスは裏事情は知らなくても、その雰囲気の変化を、エリザの散策につきあって案内しながら直感的に感じている。
王都の宮廷議会では、先代のローマン王に仕えていた議会の重鎮のモルガン男爵が暗殺されたことで、ランベール王がゴーディエ男爵と法務官に任命したレギーネという若い二人を宮廷議会へ参加させた。
法務官マジャールは、レギーネの新婚三年目の夫だった。パルタ事変で、法務官の地位からパルタの都の執政官へ栄転したように見せかけ、妻のレギーネから引き離された。
夫婦仲は、三年目にして冷めていた。
寵妃の一人として宮廷議会に影響力を持ったシャンリーと、モルガン男爵が、法務官マジャール以上の権力を握り、マジャールは、この二人の決めたことに従うだけの事務処理担当の人物のように扱われていた。
レギーネは、それがおもしろくない。彼女もターレン王国の法律に詳しい官僚だが、家柄の関係で法務官の地位は、家柄が上のマジャールに譲ることになった。
レギーネは法務官になれなかったので、ひどく落ち込んでいた。
そんな彼女の両親が選んだ見合い相手が、皮肉なことに法務官マジャールだった。
波風を立てて権力者たちに逆らえとは言わないが、法律の改変まで権力者から口を出されても、悩みもせずに、妻に改変の話を聞かせて、普段通りにおっとりしているマジャールには自分の仕事に対する誇りはないのかと幻滅した。
レギーネは、法務官の地位に憧れていた。それをあきらめて、夫の相談ぐらいなら自分ならできると妥協したところ、夫は法律家としてふがいなさすぎると落胆することになった。
妻のレギーネがそれまでの態度から、不機嫌そうな態度に幻滅して変わった時期は、ランベール王とモルガン男爵、そして暗躍していた呪術師シャンリーが権力者で従うことのできなかった人物は、徹底的に排斥されていた。
ランベール王が即位して、先代のローマン王の亡霊がランベール王として権力を誇示し始めている状況を、レギーネは婚姻後、官僚を辞めて家庭の主婦として離れていたので、宮廷議会の不穏な雰囲気の実感がなかった。
呪術師シャンリーがバーデルの都の女伯爵の地位をランベール王から与えられて去った直後に、レギーネは法務官の地位で家庭の主婦から官僚に復帰した。
その条件として王からマジャールとの離婚が出されたが、すでにランベール王から吸血され関係を持ってヴァンピールとなっていたので、レギーネは快諾した。
いきなりのレギーネとの離婚、そして、いきなりの栄転という宮廷議会から排斥の仕打ちを受けた貴族のおぼっちゃん育ちのマジャールは、失意のどん底でパルタの都へやって来た。
そんなマジャールが、ようやく前向きな気持ちで踊り子アルバータに心を奪われていた。
遠征軍の任務を全軍の指揮官である将軍に任命された騎士ガルドが放棄すると聞いて、ついてきた逃亡兵の千人の若者たちも、潜伏先のパルタの都の生活になじみ始めて、パルタの中流貴族のお留守番の女性たちや、震災で王都トルネリカやバーデルで夫を亡くした未亡人たちと、恋に落ちる者も、ちらほらとあらわれている。
ただし、平民階級と小貴族とはいえ貴族との階級差がある相手との婚姻は、貴族階級の者は平民階級へ降格となる。
パルタの都で小貴族として、決められた当番の仕事を持ち回りで行えば、住居や食品の支給される貴族暮らしを手放して、平民階級の畑仕事をする雇われ農夫の村人の生活になることを選ぶパルタの都の住人は、どれだけいるのか?
ブラウエル伯爵領のジャクリーヌがロイドと婚姻した時には、ロイドの身分を小貴族の者から買い取り、念入りに偽造の書類を用意して、貴族階級の者たちの婚姻というようにして手続きをした。
なかなか前途多難な執政官マジャールや、潜伏中の逃亡兵の若者たちの恋愛事情なのである。
もし踊り子アルバータが、ゴーディエ男爵と婚姻するとアルバータは平民階級なので、名門貴族であるゴーディエ男爵は降格して平民階級になる。
ロンダール伯爵領の密偵ソラナも平民階級なので、ゴーディエ男爵はどちらにしても、王都の貴族からは、没落貴族と呼ばれることになるだろう。
男爵の地位は子供へ世襲される身分階級ではないので、ゴーディエ男爵自身の選択といえる。
もしも執政官マジャールが恋の告白をして、踊り子アルバータが受け入れていたら、マジャールは降格して、パルタの都の統治者は平民階級になってしまうだろう。
そうなれば、法務官レギーネは貴族階級の新たな執政官をパルタの都へ赴任させるか、他の土地の伯爵の子爵や統治者の推薦を受けた貴族階級の者を統治者と移住させるしかない。
前例としてバーデルの都の執政官ギレスは、フェルベーク伯爵の推薦を受けたルゥラの都出身の貴族階級の者で、女伯爵シャンリーの後任の統治者となった。
ランベール王が不在でなければ王の権限で承認されたら、すぐに後任の統治者が決定できるが、現在の状況では宮廷議会で協議されてから、法務官レギーネの権限で任命されることになる。
半年ほどから一年ぐらい、パルタの都の統治者が不在のままになる可能性がある。
パルタの都の雰囲気と恋愛事情が変わったことは、ターレン王国の王や貴族が統治者として君臨する国の体制が、ちょっぴりと岩が風化するように崩れていく時代の流れが始まっていることを示している。
執政官マジャールが、パルタの都の中流貴族の女性の誰かと恋に落ちれば彼は降格はしない。
しかし、マジャールが惚れたのは、平民階級の踊り子アルバータだった。
貴族が降格しないように婚姻はしないで、愛人の立場でもかまわないと言う人は、パルタの都では誰もいない。
ベルマー男爵が愛人を何人も作り、子供ができても、認知どころか、何も援助すらしなかった前例があるので、大切な信頼を失墜させているからである。
貴族の愛人になったらとても危険という考えが、パルタの都ではすっかり定着している。
伯爵や執政官、宮廷官僚の貴族たちが愛人をつくり婚姻しないのは、愛人がそれなりに手厚く援助を受けるには、愛人が平民階級の場合は、貴族から降格されたら困ると愛人希望する場合もある。
パルタの都の住人たちは、学者モンテサンドからあれこれ話を聞く機会があるため、貴族様と婚姻したら平民階級の私でも貴族の仲間入りできるんだわ……と考える人はいない。
だから、奴隷市場で奴隷になって買われて、王都の貴族の邸宅で働くことに憧れるパルタの都の若い女性たちは誰もいない。
執政官マジャールは、愛人を何人も作る性格ではない。なんとなく、自分だけの一人のパートナーにちやほやされていれば、とても幸せという性格である。
恋愛して、仲良しでいることは嫌ではないけれど、その先の関係として、婚姻するとなるとターレン王国では身分階級の壁という、ちょっとややこしい事情がある。
踊り子アルバータは、パルタの都から、ゴーディエ男爵と再会を実現するために美形の二人の青年たちと旅立った。
さすがにあれほどのすごい美人だと、なるほど、二人もいっぺんに恋の
執政官マジャールは、恋の告白しそびれたと意気消沈している状況で、エリザをリヒター伯爵領の領事館で、学者モンテサンドから紹介された。
「初めまして、僕はパルタの都の執政官のマジャールです」
エリザが、貴族式の膝を曲げて小さくカーテシーの礼をして顔を上げたのと目が合った。
マジャールは惚れっぽいわけではない。
しかし、胸がときめくのを感じて、動揺してしまい、もう一度、頭を下げてしまった。
マジャールは、何度も相手に頭をペコペコ下げるのは、ちょっと卑屈な印象を持たれるので避けましょう、と王都で子供の頃に礼儀作法を教わっている。
ブラウエル伯爵と貴公子リーフェンシュタールが、執政官マジャールの顔が真っ赤になったのを見て、目をそらして笑いそうになるのをこらえていた。
たしかにエリザは魅力的な可愛らしいお嬢様である。
しかし、ブラウエル伯爵には子爵ヨハンネス、貴公子リーフェンには預言者ヘレーネがいる。
恋愛対象としてエリザのことを意識したりはしない。
「マジャール殿、エリザ様は占いをなされるそうですよ」
「モンテサンド殿、どうしてそれを?」
「先日、イザベラが占ってもらいまして、よく当たると言っておりました」
「あの、エリザ様、僕にも、その占いというものをお願いしてもよろしいですか?」
「ええ、よろこんで!」
すまし顔をしていたエリザが返事をして、にっこりと可憐な笑顔を浮かべたので、執政官マジャールは、もうめろめろだった。
(あー、エリザって、まったく悪気はないんだけど、惚れさせちゃうから。でも、惚れられてるのに気がつかないで、親切な人ですね~とか言うんだよなぁ)
アルテリスはそう思いながら、執政官マジャールとエリザの様子を、リーフェンシュタールの隣でながめていた。
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