第246話
エリザは、黴というものが気になった。
もしかすると、買い置きしていた食パンや革製品などに黴にとられた転生前の記憶が残っているのかもしれない。
ペニシリン、味噌、醤油、チーズなど、黴が役立つことはある。されど、清潔志向の世界の生活では、アレルギー疾患を引き起こす一因ともされていて、徹底して嫌われている。
黴を愛でるために栽培している人は、とてもめずらしいと思われる。
ロンダール伯爵領でマーオと呼ばれているものは、たしかに黴ではある。
ただし、手のひらに乗るほどの大きさでふわふわのピンクの毛玉を思い浮かべてもらいたい。
マーオとは、このドレチの職人たちが飼っている奇妙なモンスターのことである。
「なんか花みたいな匂いがする」
アルテリスはマーオが飼われている小屋に案内されて、中に入るとそう言った。
棚にはずらりと、木皿や木のスプーンなど、職人たちが作ったものが並べられている。
「マーオ、ごはんだよ~!」
ドレチ村のエリザに髪を三つ編みしてもらった職人の家の女の子が、エリザたちをマーオ小屋に案内してくれた。
マーオは臆病で大人だけだと隠れて姿を見せてくれない。
だから、マーオ小屋に大人の職人が作ったものを保管に行くことや、餌やりをするのも、職人の家の子供の役割となっている。
マーオはパンが大好物だけど、他に果物や木の葉などでも餌はいい。泥ではなく、しっとりと湿った土なども好む。
木の薫りとマーオの花のような匂いに、少し薄暗い小屋の中に入ると包まれる。
職人の家の女の子の両手の上にピンクの丸い毛玉が天井のあたりから漂ってきてふわりと乗ると、もぞもぞと動いている。
「ほら、エリザお姉さん、マーオだよ!」
しゃがんだエリザに、女の子が差し出した両手の上のマーオを見せてくれた。
職人たちによると、マーオ小屋に10日ほど置いて匂いづけすると、他の黴が生えなくなるとのことだった。
(この村の子供たちは香水をつけているわけじゃなくて、このマーオの匂いがすれ違った時にするんですね、なるほどです)
エリザは
エリザが指先でちょんとふれると、マーオはふわふわと浮き上がり、棚の上に乗って、もぞもぞとしている。
小屋の室内の真ん中には
アルテリスが、女の子と一緒に持ってきた果実を入れて桶の中をのぞき込むと、先に入れられていた果実がびっしりピンク色の粉まみれになっている。
樽の底にもピンク色の粉がたまっている。
アルテリスと女の子が桶から離れると、マーオが桶の中に降りてきた。
「しーっ!」
女の子が小声で唇の前に人差し指を立て、全員で小屋からそーっと外に出た。
餌に乗ったマーオは表面から粉にしていく。最後にはピンクの粉だけが桶にたまっていく。
この時に大きな物音、たとえばくしゃみなどをして驚かせてしまうと、マーオが飛び上がる時に粉が室内に舞ってしまい、粉をかぶってしまうことがある。
人の生活に役立つ黴を飼うという考え方も、黴の粉の匂いで他の黴が生えてこなくなるというのも不思議だった。
マーオ小屋は特に掃除はいらない。泥や
このマーオの粉は、どうやら石鹸がわりで使われているらしい。
たしかに、水に濡れた手のひらに粉をつけてこすり合わせると、泡立つ。
「手がすべすべになりました!」
マーオの粉を職人の母親がエリザに分けてくれた。髪を洗うと、油汚れや汗の臭いがスッキリとれてとてもよいらしく、目に入っても痛くないらしい。
ロンダール伯爵のぽっちゃりとした白いもち肌で美肌の頬っぺたの秘密は、このマーオの粉をよく泡立てたあと、ごしごしこすらず泡で洗顔することである。
(このピンクの粉がついたら、マーオが生えてくるとかはないみたいですね)
シン・リーが山小屋風ペンションに戻ると、水桶に水を張ってエリザに泡だらけにして洗ってもらい、かなりご満悦だった。
「アルテリス、これはなかなか気持ちいいものじゃ!」
アルテリスはそう言われて、少し考え込んでいた。
「みんな同じ匂いになったら、暗いところで、声と気配しかわからないじゃないか。大丈夫かな?」
「そういえば、人間や獣人族は暗いところでは見えぬのだな。わらわは少しの光があれば見えるから平気じゃ」
エリザはマーオについて考えてみて、ゲームのダンジョンには、人の生活に貢献するモンスターはいなかったと思う。
小さくて臆病で、人を粉にしたりはしない。嫌がられない匂いで見た目も色も可愛い感じだから怖がられない。
人の生活に便利なものを作り出して共存しているモンスター。
「マーオだらけになったりしないんでしょうか?」
「なんか、水が苦手らしいよ。あと、日陰が好きで、大きな音が嫌いって、職人のおっちゃんたちが言ってたけどさ。他のところにはいないのに、変なやつがここにはいるねぇ」
この黴のモンスターのマーオもロンダール伯爵領限定の怪異ではある。
土地の運気を占術で考え抜いて幸運を呼ぶ配置にした結果、夢幻の領域から出現したモンスターは臆病で、小さなもふもふのマーオなのだった。
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