嫌いだよ
校舎を出て、黒木くんの家ってどの辺なの? とか当たり障りのないことを聞かれ、途中まで白石と一緒に帰ることになった。
白石の家は、意外と俺の家と近かったらしい。聞いてみると歩いて十分圏内だということがわかった。
分かれ道まで、俺たちは他愛もない会話を繰り広げた。
ウチの担任の頭、あれ絶対カツラだよね。え、俺は地毛だと思ってた。
もうすぐ中間テストだね、そっちは勉強得意? いいや俺はあまり好きじゃない。
そんなことを話しているうちに、彼女が「私、こっちだから」と俺が進む道の反対を指さした。
「ああ。じゃあ」
会話もちょうどキリよく終わって、俺は別れを告げ歩き出す。が、数歩歩いたところで背中に声が飛んできた。
「……海都!」
一瞬、誰に呼ばれたのかと肩を振るわせたがこの道に俺の名を呼ぶ人はひとりしかいない。
「……って、呼んでもいいかな」
彼女は思いのほか響き渡った声に驚いたのか、つづく言葉を控えめに発した。
なんで人って、下の名前で呼びたがるんだろう。距離が縮まったという証拠が欲しいのだろうか。そんなことを思ってから、俺は白石の方に向き直る。
いいよ。それを言っただけなのに、彼女はなぜかパッと顔を輝かせた。白石は春に咲く向日葵だった。
「へへっ、それじゃあね、海都!」
満足したのか、白石はピラピラっと手をふって俺とは反対方向の道を歩き出した。
反対。俺と彼女は、きっと正反対だ。彼女に背を向け歩き出しながらふと、思った。
家に帰ると、リビングには誰もいなかった。「先生」はどこだろう。そう思ったとき、どこからともなくピアノの旋律が聞こえてきた。
レッスンルームのドアを開けた瞬間、その旋律はぴたりと止まる。
「おかえり」
先生は俺の方を振り返って微笑んだ。つられて俺も「ただいま」と返す。
「先生がピアノ弾いてるなんて珍しいな。なんかあったの?」
「……たまに、弾きたくなる時がある。今がその時だった。それだけ」
先生、もとい
「今日は遅かったね」
何かあったのか、そういう意味合いで先生が尋ねてきた。
「ああ、まあ……ちょっと放課後、用事があって」
今日あったこと。白石との関係。全てを整理して話すには少々億劫で、俺は咄嗟に内容を伏せた。先生は、特に気にする様子も見せず「そうなんだ」とだけ言った。
彼はもう一度ピアノに向き直り、弾き始めた。曲は先ほどと同じ。
「先生ってさ、月光しか弾かないよな。なんで?」
ふと気になって、俺は先生にそんなことを聞いた。というのも、俺は先生が月光以外の曲を弾いているのを見たことがない。先生は決まって、月光を弾くのだ。
「僕には、この曲しかないからかな」
それだけ言って、先生はピアノを弾く。
俺は、先生の弾く月光が大好きだった。
だけどなぜか、先生はこの数ヶ月で見違えるほど痩せこけた。先生がピアノを弾く横顔は苦しそうで、でもどこか神秘的だった。
「先生、ピアノ好き?」
間があいた。先生は──。
「好きか嫌いかで言えば、……嫌いだよ」
俺の方に向き直って、そんなことを言うのだった。
ぞっとするほど暗い声だった。
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