明晰夢パラノイア

のじま


 マンダリンオレンジの空、黒い口髭が沢山上空に並んでいる。海はすっかり落ち着きを取り戻し、さざなみを立てて眠りこけていた。


 今日の仕事は、この甲板に木製コンテナを乗せれば完成だ。最後の一頑張り、と肩に力を入れてコンテナを持ち上げた。


 あ、おっと。


 バランスを崩して荷物ごと右に倒れ込む。コンテナの口が開いて、高そうな紅茶の茶葉がパラパラと溢れ出た。


 何が起きたか分からず、横になったままで固まっていたら、船の設計図片手に仲間達が走ってくる。



「おい、大丈夫か?」


「今手を貸すから。おーい!誰かこいつを持ち上げてくれ!」


「よーし、いくぞ。せーのっ!」



 されるがままに体を起こされる。どうやら倒れた拍子に頭を打ったらしく、仲間が自分の首に巻いていたスカーフを、ぼくのおでこに巻き付けた。



「これまた派手にやったなあ。」


「ずっと働き詰めだったろ。今日はもうあがれ。」



 親方さんはそう言うが、ぼくはズキズキと痛む頭を左右に振る。全部終わるまであと少しだったのに。



「んなもん怪我した坊やが気にするもんじゃねえよ。」


「それに、俺らは弱った男の子を酷使するような団体じゃないんでね。」



 視界の右端で、他のやつらがぼくのこぼした紅茶をせっせと集めている。ハッとなって親方さんの脇の下を通り抜けてそこへ行く。



「おい、ちょっとまて。」



 ぼくはしゃがみこんで、手元に広がった茶葉をかき集めはじめた。



「だーらいいっつーの。」



 親方さんはぼくのよれた襟元を強引に掴んで、手のひらに紅茶を乗せたままのぼくを甲板から連れ出した。



「そんなに働きたいか。真面目くんのお気持ちはわからんな。」


「これやるから街に行ってジャガイモでも買いにいけ。」



 紅茶の上から雑に硬貨を数枚落とされる。普段手にしない様な大金。見るだけでさっきみたいに倒れそうだった。



「ボーナスってやつだよ。たまには大人を頼るんだね坊や。」



 手の上で輝く銅ニッケルをしばらく眺めた後、どうしようとその場であたふたしていたら、親方さんはもう甲板に戻ってしまっていた。その後をついて行きたくなったが、さっきの言葉を思い出して、大きな船に背を向ける。


 ああまで言われたのなら、従うしかない。というよりも、あれ以上駄々をこねたって、頭を打つより酷い目に会うだけだろうから。


















 港を出て煙草臭い通りを抜ければ、開けた広場に辿り着く。そこから伸びる一本の小道から右に曲がると、この国最大のsnový pocitスノヴィー・ポティット旧市街がぼくを待っている。


 橙色と黄色の建物が織り成す美しい配色のこの街は、肩摩轂撃けんまこくげきでいつも忙しない。高く立ち上る時計塔は豪華に飾られ、この街の人達見張っている。左右に並ぶ商店達は、この国の経済の根幹を担っているのだと教えてもらったことがあるが、確かに何度来ても賑わいが無くなる気配は無さそうだ。


 ぼくがここに来て買うものは、他所から来るお金持ちと違ってこれっぽっちも無いけれど、雰囲気を味わう為によく散策をしている。スリだと間違われないようにするのが大変だけど。


 さっき港にいた時よりも日が傾いて、神様が空に無数のモールス信号を打ち始める。点灯夫ランパーシュ達もそれに返事をする様に街灯に光を灯し始めたら、ポウっと街中が暖かい風に包まれた様な気がした。


 ぼくは目立たない様に側溝に添いながら辺りを見渡して、バザー市場を探す。視線の右奥に青と白のストライプの屋根が見えたら、そこ目掛けて早足で歩いた。


「お、どうした。乞食にあげるようなもんはもう残ってないぞ。」


 そう店の店主に言われて、ムッとして握りしめてた硬貨を掲げて見せる。


「おっとこれはすまんな。お前みたいな身なりのやつが、この街で真っ当に買い物なんてしないもんでね。」


「で、なにが欲しいんだ?もう店仕舞いするから大したものは無いが。」


 スタンドに雑に積み上げられた野菜達を眺める。林檎、玉葱、アスパラガス、オレンジ…。肝心なジャガイモは見つからない。というより置いてあった気配だけ箱に残して、逃げてしまったようだった。


「今日は林檎が安いぞ、でけえ仕入先がしやがってな。」


「あ、おい、坊主、買わないのか?」


 はぁ、と阻喪を吐き出して、店に背を向け後にするぼくを店主がとめる。ぼくは無駄な買い物をする趣味は無いので気にせずその場を立ち去ろうとした。


「悪いな、欲しいもんはなかったか?」


「許してくれよ、もう点灯夫ランパーシュも帰ったくらいの時間なんだからさ。まあ、気をつけて帰れよ。」


















 足音が多くなってきた娼館通りをとぼとぼ歩く。ああいうバザー市場や商店が閉まれば、これからは夜の時間の始まり。甘くて気分が悪くなるような匂いに煽られて、沢山の大人達が建物に吸い込まれている。そして辺りにはぼくより服の崩れた子供達が、肩を寄せながら道行く人を睨んでいた。


 この道は港に戻る1番の近道だけど、なんだか居心地が悪くなって、合ってるいるかも分からない脇道に進む。薄暗くて湿った道は、人の代わりにネズミの小路になっている。どちらも違う嫌さがあって、今日はついてないなと思いながら鼻で息をするのをやめた。


 そのまま何も考えずに進んでいたら、街の声が聞こえなくなる。ひたひたと囁く僕の足音が、あの娼館街から遠ざかっている事を知らせているようで少しだけ安心できた。それに今自分がこの広い街の誰も知らない場所にいることで、少しでもあの悪印象な所が世界から消えている気がして、何故か善行を成しているつもりにもなっていた。
















 いったいどのくらい歩いただろう。空の色は紺色に変わって、すっかり夜が更けてしまっていた。気温も低くなり、首元が少し肌寒い。早く帰らないと人攫いがでちゃうかな。


 ……あれ。


 さっきから歩いているから、どんどん静かになるのは当たり前だ。ただ、静かといってもネズミの走る音や水の滴る音有りきの静けさだったし、ぼくの考えが正しければさざなみの声が聞こえてくるはず。でも、今は。


 今は、無音だ。


 ネズミや水どころか、風の音すら聞こえない。建物だけが粛然と立ち並び、ぼくの息遣いと足音が偏重に響いて堪らない。月光がひたすらにぼくに孤独感を植え付け、段々と怖くなってきた。


 膝が動かなくなる。息が荒くなる。急に不安になる。その場で立ち止まって、よく周りを見たわした。でもそこらにあるのは、ひびの入った外壁だけ。


 身の毛がよだつ怖さが襲って来て、ぼくは弾けたように走り出した。


 怖い、怖い、怖い。あまりな音の無さに耐えられなくて、走りながら適当な言葉を吐き出す。でもぼくが出した言葉はこだまの様にぼくに響き帰って来て、より心をナーバスにさせるだけだった。


 とにかく何処か音の聞こえる所へ、願わくば波の音が聞きたい。今はポケットに入った硬貨がぶつかり合う音すら頼みの綱で、甲高い金属のノイズを脳に焼き付けた。


 幸い月明かりが道を照らしているし、道は一本しかないから迷うことは無い。けれど一体何処まで伸びているのだろう。とてつもなく果てしない気がしてしまって、冷や汗が止まらなくなってしまった。


 でもきっと大丈夫。方角は海の方向で間違いない。例え見知らぬ海岸に出たとしても、海に沿って歩けば港に着くはずだから、大丈夫。


 自分で自分を慰めながら走り続ける。途中転びそうになったり、涙が零れそうになったけど必死に走る。走って走って、それでもだめだったらもう壁を登ろう。そう思った矢先に、鼻先に嗅ぎなれた香りが漂ってきた。


 今さっき自分が走り去った後ろから香る。暖かくて、懐かしい、クネドリーキ蒸しパンの香りだ。

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明晰夢パラノイア のじま @noji_kaki

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