第3話
——こんな俺達を、月は嘲笑う。
窓から降り注ぐ、一筋の月光。
何よりも罪深い俺達を見つめる傍観者。
それがどうした。
今はただ、重ね合わせたこの指先から伝わる彼女の熱に浮かされて、海の中に沈むように落ちていくだけ。
暗がりの中、彼女の火照った顔があまりにも可愛らしくて目を合わせる度、何度も彼女の唇に触れた。
お互いが獣のように、互いを欲するだけのケダモノとなって。
そんな罪人には、いずれ罰が下されるだろう。
——ああ、今夜は月が綺麗だ。
そんな事を思いながら、俺は彼女の隣で眠りに着いた。
そして次に目を覚ました時。熱が冷めて、現実に戻った時。
——そこに、リーエの姿は無かった。
♢
あれから、約一年。
俺は、今まで通りの生活を送っていた。
「女将ー!今日の食材ここに置いておくぞー!」
「ご苦労さん!いつも悪いねぇ。」
あの日、腰を痛めた女将はすっかり良くなり、今では今まで以上の活気を見せている。
「それよりルエーデル、聞いたよ。アンタここの所休んで無いんだろう?働き詰めるのは身体に毒さね。たまには休む事も仕事の内だよ。」
「それを女将が言うかー?働きすぎて、坊主にも俺にも迷惑かけやがって。それに、俺はまだまだ若いからな。多少働きすぎても問題ねぇよ。」
女将の言葉に、ぷっと鼻で笑う。「口の減らない奴だねぇ」と、女将はため息をついた。
働きすぎても、身体に影響が無いのは本当の事だ。
それに、——身体を動かしていないと思い出しちまうからな。
今でも夢に見る、あの一晩の事。
あれは、本当に現実だったのか。それとも俺の身勝手な夢だったのか。
この手の中には未だに、彼女の熱が残っているのに。
その日は仕事を終え、真っ直ぐ家に戻った。
独り身にしては、そこそこに広い一軒家。
二階の一室。ベットが置かれたその部屋で、俺はリーエと……。
「——って、いつまで過去に囚われてんだ、俺は。」
忘れると決めたでは無いか。あれは一夜の夢物語。
決してもう見る事のない遠い、幻だったと。そう分かってはいるのに、どうしても割り切れない。……かっこ悪ぃな、俺。
と、そんな時だった。
——コンコン。
家の外から聞こえてくるノック音。
今日は仕事を早く終わらせたせいで、まだ夕方にもならない。
こんな時間から、友人が飲みの誘いでもしにやって来たのかと思いながら階段を降りる。
「んだよ、今日は飲む気分じゃ……あ?」
ガチャりとドアノブを回し玄関を開けると、そこに人の姿は無かった。
何度も周辺を見渡したけれど、人っ子一人見当たらない。
「なんだ……?悪戯か……??」
不信感を抱きながら、扉を閉めようとした瞬間、
「おぎゃあ!」
それは多分、人間の声。
視線を足元に向けると、そこには片手で持ち運べるようなカゴがあった。
そして、その中には小さな赤ん坊の姿。
「はぁ!?!?何だよ、これ!」
ふわふわのタオルに包まれた赤ん坊は、薄いピンクの髪をしていた。
親指をしゃぶりながら、俺の顔をまじまじと見つめる。
「たいやぁ!あう!」
なんで赤ん坊が俺の家の前に!?まさか……捨て子ってやつか!?
と、赤ん坊の方にばかり視線が向いてしまったが、よく見ればタオルの上に何かが乗っている。
カゴを持ち上げて、それが何かを確認した。
「…………これ、は」
それは、花だった。白くて小さい花。
「貴方に幸運の風が巡りますように」という意味の込められた、愛らしい花。
その花の名前は——リーエ。
その刹那、俺は全てを悟った。
ああ。そうか。この赤ん坊は……俺と、リーエの……。
忘れようとしたのに。記憶から消さなくてはと、そう思っていたのに。
やっぱり忘れられなくて。
赤ん坊の顔を見た瞬間、俺はリーエの事を思い出した。
お転婆で、いつも俺を振り回して。笑いながら、俺の名前を嬉しそうに呼ぶ、その声が。その笑顔が。今でも気持ち悪いくらい鮮明に目の前に浮かぶ。
「——ルエーデル!」
そうか。この子は俺とリーエを繋ぐ、最後の架け橋なのか。
もう全て、リーエとの思い出は無くしたと思ったけれど、こんな所に小さく輝いていたんだ。
「うっ……、ううっ……。」
自然と涙が頬を伝う。
今度こそ、離さないようにしよう。もう二度と、後悔しないように。
俺は汚い顔を必死に拭って、目の前にいる天使に笑いかけた。
「——今日から、俺達は家族だ。よろしくな。」
父親として、不十分な所もあるだろう。至らない部分も数え切れないくらいにあるはずだ。
それでも、めいいっぱいの愛情を注いで。
そしたらきっと、おっちょこちょいで優しくて。
誰からも愛されるような、そんな子になるんだろう。
——なあ、リーエ。俺、アンタの分まで頑張って、この子を愛するよ。
♢
「聖女様。そんな薄着では、お身体に障ります。」
王宮の一室。煌びやかなシャンデリアも、美しい内装も無く、その部屋は木目の貧相な部屋。
王子と婚約した者が使うような部屋とは想像出来ないが、それもそのはずだ。
ここは、彼女の部屋では無く彼女の女中の部屋なのだ。
部屋に入ってきたメイドは、窓をぼーっと眺めている聖女に声をかける。
魂が抜けたような虚ろな瞳で、聖女はメイドの方を振り返った。
「……アン。無事だったの?」
「はい。聖女様に言われた様に、あの赤ん坊を届けて参りました。」
メイドの報告を聞いて、また聖女は窓から外の景色を見る。
明るい太陽の日差しと、美しい木々達。
「私ね、お腹の中に赤ちゃんがいるって知った時、涙が出るくらい嬉しくて、そして怖かった。」
聖女と呼ばれた一人の娘は、誰に話すでもなく口を開ける。
「分かっていたの。これから先、聖女として生きる為に、お腹の中の子は下ろさなくちゃいけない。見殺しにしなくちゃいけないって。何度も何度も、そう決意して、でもやっぱり嫌で。そうやって躊躇してたら、いつの間にか赤ちゃんは泣いてた。」
聖女は、ふと自分の手を見つめる。
産声をあげた、我が子を抱き上げた時の感覚が、今も鮮明に目に焼き付いていた。
「あの子……目元が私にそっくりで……握った手を離さない所なんか……あの人みたい、で……。」
愛おしいと感じだ。愛したいと思った。
でも、それは叶わない事。この子が入れば、国は大混乱に見舞われるだろう。
それでも、もう聖女には赤子を殺すという選択肢は無かった。
ぽろぽろと、大粒の涙が太陽の日差しで宝石の様に輝く。
「……聖女様。私は聖女様の幸せを第一に考えています。ですから……どうか、お幸せになってください。」
少女の元に駆け寄ったメイドは、そっと彼女の手を握った。
その瞬間、彼女の指先に温度が無いことを悟る。
ああ、この方はもう、自分の望む未来を手に入れられないのね。
そう分かってしまった。
それでもメイドは、聖女に寄り添う。哀れで、美しいこの国の救世主に。
メイドは、軽い食事を持ってくると、部屋を出た。
残された聖女は、空に大きな翼を広げて羽ばたく白い鳥を見つける。
——私も。私らしく、あんな風に自由になれたなら。
突然この世界にやって来たとき、私の髪は魔法のように色を変えていた。
そして、白くなった髪と私を見て誰もが聖女だと言った。
元の場所にも帰れず、私はこの国で聖女として崇められる存在になった。
どこに行っても、『聖女様』『聖女様』って。
誰も私の名前を呼んでくれない。誰も私を見ようとはしない。
私の聖女としての力だけが、あの人たちの欲しい物。
——ねぇ、どうして?どうして私が、この国を救わなくちゃ行けないの?
推し量れない、莫大な期待に私の心は潰されそうだった。
だから私は、ひっそりとこの王宮を抜け出して街に行った。
この街の人がどんな風に生活をしているのか知りたかったから。
でも皆、やっぱり聖女の話をする。
『聖女とがいればこの国も安泰だ!』
『聖女の力があれば、何も恐れるものはないな!』
ああ。やっぱり誰も、私の事を見てはくれないのね。
そう諦めていた時、私は出会った。
——ルエーデルに。
彼だけは、聖女に期待を寄せなかった。
希望を抱かなかった。
彼だけが、本当の私を見ていてくれた。
彼だけが、私の生きる意味だった。
私が身ごもり、子供を産んだ事はきっとすぐにバレてしまう。
今はメイドのお陰でなんとか隠しているけれど、それもあとどれ位持つか……。
だからきっと、残された道はひとつだけ。
メイドの机の棚に入っているハサミ。時間もお金も無いから、いつもこれで整えていると教えてくれた。
——ごめんね、アン。こんな使い方をして。
後悔は数え切れないくらいにある。絶望は、幾多となくしてきた。
光のない世界で生きるには、私はもう疲れすぎてしまった。
「これが、私の贖い。罪への贖罪。だから……。」
ハサミを両手で持ち上げ、私は一直線に首元に突き刺す。
飛沫をあげて、赤黒い液体が飛び散る。
ああ、私に似て、なんて汚い。
ばたり。
音を立てて、崩れ落ちる私。もう力は入らない。
息をすると、ヒューヒューと、聞いた事の無い音が鳴る。
朧気な瞳の中、最後に見たのは幻影。
楽しそうに笑う私と、ルエーデルの横顔。
そして、私達に挟まれて、満面の笑みで走る可愛らしいピンク色の髪をした女の子。
三つの笑い声がこだまして、頭の中に響き渡る。
もしもあの子が、こんな風に笑って歩く日が来たら。
大輪の花のように、華やいだ笑顔をする日が来たら。
蕾の中に眠るこの罪だけは、どうか知らないままでいて。
「……あ、いじ、……でる……る、えー……で、る——」
これが私の最後の望み。
どうかあの子が、幸せになりますように。聖女としての力が目覚めませんように。そして。
——好きな人と巡り会えますように。
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