第17話 学校

 一週間ぶりの高校。

 そのまま辞めたかったけれど、サヤ兄が練習に行くんだから――。

 七那は重い足取りで、高校の最寄もより駅から乗ってきた自転車を押し、随分ずいぶん久しぶりに見える駐輪場に置く。

 近くに立っているポールの上の時計を見ると、時刻は、四限目がもうすぐ終わる頃。

 ――サヤ兄が、今日はゆっくりの時間で行ったんだから。

 急ぐ気力も湧かず、だらだらと歩いて、いつものように職員室で遅刻届を提出し、教室に向かう。

「あ、美崎みさき君。おはよう。大丈夫?」

 そう言うのは、先生だけだ。

 といっても先生たちだって、出欠の確認をしているだけで、他の生徒たちと同じように、七那の遅刻や欠席には慣れっこなのだ。

 一応先生には頭を下げて、七那のことなど見えていない生徒たちの間を通り抜け、一人で座るための席に着く。

 ――おれもケンゴ兄とミロク兄みたいに、サヤ兄と双子だったら良かったのに。そしたら、もっとずっと一緒にいられるのに。

 教科書も開かずに座っていると、すぐにかねが鳴って、昼休みになる。

 おなかいていなかったが、二都に弁当を持たされたので、食べるしかない。

 コーンの炊き込みご飯、鶏肉のカレー風味いため、甘めの卵焼き、南瓜かぼちゃのおやき、ポテトサラダ、手作りのオレンジゼリー。

 ――七那の好きなものばかりだ。

 一つだけミニトマトも入っていて、いつもなら最後まで考えあぐねて、結局紙に包んで教室のゴミ箱に捨てるのだが、今日は目をつぶって、最初に食べた。

 サヤ兄が、まだあざだらけなのに、練習頑張ってるんだから。

 五限目からは教科書とノートを開いて、授業を受けた。

 おれが一人で宿題ができれば、サヤ兄に、もっと寝る時間ができるんだから。

 六限目が終わると、七那はすぐさま鞄を持って教室を出る。早く帰っても三夜はまだ家にいないが、放課後にやることなど何一つ無いし、のんびりする理由も無いし、ぽにちゃんに早く会いたいし、何より、じっとしていられなかった。

 さっき通ったばかりの道を歩き、さっき自転車を置いたばかりの駐輪場に入って――。

 がしゃ、がしゃっ。

 七那の自転車がある所の一つ奥の列から、三夜の音楽が何よりも好きな七那にとっては、とても耳障みみざわりな音がしている。

 七那はまず不快感に、ポケットから自転車の鍵を取り出そうとしていた動きを止める。

 しかし耳が慣れても、七那は動きを止めたままだった。

 いつもなら、見えないふりをして通り過ぎるはずなのに。

 七那は鍵をポケットに戻し、緊張で冷たくなった息を、暑く湿った外気の中にいた。

 それから七那は、何キロも走った後であるかのように震える足を踏み出す。

 七那には、見ず知らずの女子生徒に声を掛けることなどできなかった。

 だから黙って、二十台ほどがドミノ倒しになっている、その一番上の自転車を、彼女と一緒に起こし始めた。

 それは重い、所謂いわゆるママチャリで、そのうえハンドルが下の自転車の網籠あみかごに刺さっており、どんな力持ちでも、一人で解決するには難しい問題だった。

「あっ、ありがとうございます」

 それを二人でどうにかして起こすと、女子生徒は息を切らしながら礼を言うが、七那は何も答えられずに、次の自転車に手を伸ばした。

 彼女も同時に、手を伸ばしていた。

 そうして二人でまた、二台目の自転車を起こした。

 次に、三台目の自転車を起こした。

 四台目。

 五台目。

 彼女の自転車がどこにあるのかは分からなかったが、彼女がやめなかったので、七那もやめなかった。

 それに。

 七那は、三夜に何もしてあげることができなかった。

 三夜にはいつも、沢山のことをしてもらっているのに、七那は三夜に、何もしてあげることができない。

 七那は意味も無いのに、それを、倒れた自転車を起こす作業にぶつけた。

 やがて、およそ二十台の自転車は全て立ち、元のように整然と並んで――。

「あっ、待って」

 逃げるように走り去ろうとした七那を、女子生徒の慌てた声がめる。

 七那の震える足は、それだけで動かなくなってしまう。

「ありがとう。あの……私も、一年生」

 七那の前に走ってきた女子生徒は、はにかんで笑い、黒い機械油によごれたシャツの胸のところを両手でまんで、校章を見せる。

 その校章の色は、七那のシャツの胸に付いているものと同じだった。

「二組です。織川おりかわなつき、っていいます」

 彼女はぽっと顔を赤くして、ボブカットのショートヘアを揺らす。

 七那は硬直して、彼女の赤い顔を凝視する。

 油と砂で汚れきった二人を、砂糖細工のようにもろく、未加工のダイヤモンドのように硬くれがたい空気が包んで飲み込む。

「あ、すっ、すみません……」

 耐えかねた彼女はさらに顔を赤くして、うつむく。

 まばたきもしない七那の視線は、美崎みさきの兄たちでなければ、確実に「怒っている」と感じるものであった。

 しかし七那はただ、困惑しているだけなのである。

 なので彼はえず、彼女と同じことを言ってみることにした。

「三組。美崎七那」

「あっ、さん、三組……」

 彼女は心底ほっとして息をき、小さな笑い声を漏らす。

「おっ、お隣、だったんだ。よろしくね、ナナ、くん」

 彼女は、自分も部活に入っていなくて帰りが早く、なかなか友達ができないのだということも言いたかったのだが、何だかそれどころではなく、後々のちのちああ言えば良かった、こう言えば良かったと、頭を抱えることになるのであった。

「よろしく、なつきちゃん」

 七那は彼女と同じことを言ったつもりだったのだが、彼女は噴火しそうなほどに顔を赤くして、そっぽを向いてしまう。

「あああああのぉ、私、その、自転車、ここじゃないの。だから、その、ごめんね、ありがとう、うん、ほんとに、ごめんね、ありがとう」

 彼女はそっぽを向いたまま走り出し、一人で喋りながら、二列奥へと消えていった。

 七那は、あぁ、彼女の自転車もここに無かったんだ、とだけしか考えることができず、一人残されたコンクリートの上できびすを返し、自分の自転車を取りに向かった。

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