選ばれなかった僕たちは

柿月籠野(カキヅキコモノ)

美崎家の七人兄弟

優しいお向かいさん

第1話 愛しい兄弟たち

 戻りますか?


  はい  →いいえ



    * * * * * * *



 春。

 美崎みさき家の一日で最も忙しい時間は、もちろん、朝と夕方であるが、昼もまた忙しい。

 この家に暮らす七人兄弟の次男じなん二都にとは、誰よりも早く起きて朝食と弁当を作り、洗濯をし、兄弟たちのうちの寝坊助ねぼすけな者を叩き起こして、全員を安全に送り出し、洗濯物を干して掃除をし、庭の家庭菜園の世話をして、弟たちの学校の書類を確認し、海外赴任中ふにんちゅうの両親に連絡をして、洗濯を取り込む――するともう、夕方だ。

「ただいま」

 最初に帰ってきたのは、一番下の弟、七男しちなん七那ななだ。

「おかえり」

 二都は、保育園の先生を思わせる笑顔と、包容力のある体にまとったねこちゃん模様のエプロンという姿で洗濯物を畳みながら、七那を迎える。

「お弁当箱、出しといてね」

「ん」

 七那は口を閉じたまま返事をして、シンクにからの弁当箱を置き、黙って二階へ上がっていく。

 部屋では、ゲームをするのか、音楽を聴くのか、インコのぽにちゃんと遊ぶのか。二都には分からないが、いずれにせよ、七那の大切な時間である。

「ありがとね、ナナ」

 二都はキッチンへ入ると、人知ひとしれずつぶやく。

 七那の弁当箱はいつも空だが、どうしても食べられずに残した野菜を、兄を傷付けぬよう、学校のゴミ箱にこっそり捨ててきていることを二都は知っている。七那は、高校に入ったばかりとは言え、部活も委員会もアルバイトもやらず、友達もいないようだ。しかし、七那が誰にも負けない優しい心の持ち主であることは、兄たちみなが知っている。

「ただいまぁ」

 次に帰ってきたのは、六男ろくなん弥六みろくである。七那とは違う学校だが、弥六も高校生だ。

「おかえりぃ」

 弥六ののんびりとした口調につられ、夕食作りに取り掛かっている二都も、のんびり喋りになってしまう。

「ミロク、お弁当箱出しといてね」

「はぁい」

 弥六は返事をすると、スクールバッグに手を突っ込み、可憐かれんな少女が花畑で歌うような――ものでは決してない、謎の平和な歌を歌いながら、何やらがさごそとやっている。

「ニトにいちゃん、見てぇ」

 弥六が取り出したのは、弁当箱ではなく、お座りをした仔犬こいぬのぬいぐるみだ。

 両手に収まるほどの大きさのそれは、ふんわりとしたボア生地きじでできており、丸っこくも均整きんせいの取れた体と、整って可愛かわいらしい顔を見ると、単なる手芸部の高校二年生が作ったものとは思えなかった。

「わあ、上手。かわいいね」

「ありがとぉー」

 弥六の手につかまれた仔犬は、お座りをしたまま、胸を中心に頭と足を左右に激しく振り動かす。仔犬から生み出された、見えないほどに小さなほこりたちが、勝手口かってぐちの窓から差し込む夕日を反射し、俺たち埃ブラザーズ! と口をそろえて叫びながら、作りかけの夕食に飛び込んでいく。

「ニト兄ちゃんにあげるー」

 弥六は埃を生み出すのをやめ、仔犬のぬいぐるみを二都に差し出すが、二都の両手は野菜を切っているために塞がっていることに気が付いたので、二都の背後に回ってズボンのウエストを引っ張り、背中とズボンの間にできた隙間にぬいぐるみを押し込む。

「ありがとう。嬉しいな」

 弥六のお陰で、七人兄弟の部屋は全て、可愛かわいいぬいぐるみだらけだ。

「んふふー」

 弥六は、細縁ほそぶち丸眼鏡まるめがねの奥で嬉しそうに笑うと、また謎の平和な歌を歌いながら、二階へと上がっていった。

 ズボンの後ろで、仔犬が、きゅ、と鳴いたような気がして、二都は弥六が弁当箱を出していないことを思い出す。

「ただいまーっ!」

 次に帰ってきたのは、弥六と双子の五男ごなん健五けんごだ。弥六は地元のケーキ屋のアルバイト、健五はコンビニのアルバイトをしているが、二人とも今日はシフトが無いので、部活のあと、すぐに帰ってきたのであった。

 健五は、弥六と見た目はよく似ているはずなのだが、眼鏡が無いせいか、あまりにも雰囲気が違うせいか、言われなければ双子とは分からない。

「おかえり。ケンゴ、お弁当箱ね」

「うん! あのねニト兄ちゃん! テニス部の一年生がね! みんなすごくてね!」

 二都は、元気よくしゃべりながらキッチンに走ってくる健五を、はらはらしながら見守る――。

「あとね! 保健委員の集まりでね! 椎野しいの先生がね! あー!」

 やっぱり。

 健五が漫画よりも美しく転倒し、弥六とそろいのスクールバッグから取り出しかけていた弁当箱と箸が宙を舞う。

「ケンゴ! ちょっと、大丈夫!?」

 健五のおっちょこちょいは毎日――いや毎時間――いや毎分、毎秒のことであるが、二都はいつも、心配なのだ。

「だいじょぶ。えへへー」

 二都に助け起こされた健五は、どうやら怪我は無いようで、幼さの残る顔で照れ笑いをして、頭をく。

「あ、そうだ、ニト兄ちゃん」

 健五は、二都にわれて弁当箱と箸を拾い、キッチンへ向かう間に、何かを思い出したらしい。

「今日のお弁当、上の段も下の段も、どっちもおかずだったよ」

「え! ごめんね!」

 バタバタしていて間違えたのだろうかと、二都は慌てて朝の様子を思い返す。

 健五と弥六の弁当箱は、二人の希望でおそろいだが、色は違うものにしてもらったし、上下段は大きさと形が少し違うから、間違うはずが――いや、もしかしたら、間違えないだろうとたかをくくり、適当な位置に置いて、挙句あげく間違えたか――。

「でさ、ミロクがご飯だけになってるでしょ。それで、おかず片方かたほう持ってミロクの教室に行ったらさ、ミロク、気付かないで白ご飯だけ美味おいしそうに食べてたの。もう、僕の分も、半分食べちゃっててさー」

 健五(と二都)のおっちょこちょいもそうだが、弥六の天然――と言うべきかは分からない何かも、相当なものである。

「んじゃ、シャワー浴びてくる!」

 二都が言葉も出ないでいると、弁当箱と箸を置いた健五は手を振って、風呂場へと走っていった。

「ただいま!」

 次に帰って来たのは、四男よんなん四磨しまだ。

「おかえり」

「ニト兄ちゃん、今日も一日ありがと!」

 四磨は、全人類の悩みを吹き飛ばす笑顔で言うと、きたげられた体で飛ぶようにして、キッチンに走ってくる。それから自分の弁当箱をシンクに置くと、二階へ駆け上がって「ミロク! 弁当箱!」と叫び、弥六の弁当箱を持って戻ると、迷わず四人分の弁当箱を洗い始める。

「あれ、いいのに。学校の課題とか、あるでしょ」

「今日も楽しかったなー!」

 四磨は二都の言葉を無視して、今日あったことを楽しげに喋り始める。

「教授が授業わすれててさ、十五分っても来ないから、俺が呼びにいったら、呼びにくるのが遅いって、もごもご言い訳されて!」

 四磨は、あははは! と大声を上げて笑う。

 彼の将来の夢は、幼稚園の体育の先生。その夢のために、昨年度から体育大学に通い、体育教育学部で保育士資格の取得を目指しながら、体操部で活動し、学童保育がくどうほいくのアルバイトもしている。

「あとさ、学童保育の三年生の女の子がさ、おやつ配るの、手伝ってくれたんだ! お姉さんになったなー!」

 二都は、そんな四磨の話を聞くのが、とても好きだった。

「ただいまー」

 次に帰ってきたのは、長男ちょうなん蛍一けいいちだ。

「おかえり」

「ケーイチ兄ちゃんおかえり! 弁当箱ちょうだい! ついで!」

 四磨は泡だらけの手を伸ばして、蛍一から弁当箱を受け取る。

「ありがとう、シマ。――ねえ、ニト」

 蛍一は、スーツのジャケットを着た上半身でキッチンのカウンターに寄り掛かり、全人類の怪我と病気を治癒ちゆさせる笑顔で言う。

「今日のりんご、うさぎさん」

 蛍一は笑ったまま首をかしげ、少し長い髪――美容室に行く時間とお金をケチっているために伸びている髪――を揺らす。

「そう。うさぎさんにしたよ」

 二都は人参にんじんを星形に抜きながら、兄にこたえる。

「ありがと、ニト」

 蛍一はどうしてか、弁当のりんごがうさぎさんになっていると、嬉しいのであった。

「どういたしまして」

 ――しかし、そろそろ蛍一の髪はなんとかしなければ。三夜さやに何とか言ってもらうか、もう、三夜に切ってもらうかと、二都はひそかに計画する。

「お風呂がったよー! あっ、ケーイチ兄ちゃんシマ兄ちゃんおかえり! シマ兄ちゃんお風呂入る? あ、ケーイチ兄ちゃん先にする? 分かった! じゃあケーイチ兄ちゃん!」

 風呂場から走り出てきた健五は、一人で嵐のごとく喋り、蛍一の両腕をつかんで通勤鞄つうきんかばんごと風呂場へ連れていくと、すぐさま戻ってくる。

「ニト兄ちゃん、お手伝いする!」

 健五の、仔犬のようにうるんだ瞳が、二都を見上げている。

 しかし、二都の脳内にはもちろん、さっきの美しい大転倒だいてんとうの映像が再生されている――。

「お手伝い!」

 健五の、仔犬のように潤んだ瞳が、二都を見上げている。

「あ、いや、その……」

「だめ……?」

 健五の、仔犬のように潤んだ瞳が、二都を見上げている。

「ええと……」

「おてつだい……」

 健五の、仔犬のように潤んだ瞳が、二都を見上げている。

「お、お願いします……」

「任せあー!」

 食器棚に向かって大転倒しそうになった健五を、四磨が、体操部で鍛えた体幹をかし、あぶなげなくめる。

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