第17話 シャッフルチェンジ

 誰もいない教室は、どこか切なさを帯びて、同時に妙な緊張感をもたらしていた。

 外から聞こえる体育の授業真っ只中の生徒の声が、無人の教室に忍び込む背徳感を強める。


 私は開いたままの教室の後ろのドアからこそこそと教室の中に侵入した。別に誰もいないのだからこそこそする必要もないかもしれないが、廊下を通りがかった教師に見つかるかもしれないし、念には念を。

 しゃがんだまま机に隠れながら移動する。途中、私の席——『桃山』と椅子の裏にシールが貼ってある——を通り過ぎ、目的の机を目指した。

 何故私が自分の教室で忍び紛いのことをしているのか。それには海よりも深い訳があるのだ。




 今日の体育の時間のことだ。

 今日は珍しく男女混合であり、種目はサッカーだった。


「へ〜い! 桃山! パス! パス! へぇ〜い!」


 慎ちゃんが一生懸命にボールを求めている。可愛い。

 でも、慎ちゃんごめんね。慎ちゃんがさっきからポジショニングしてるところ、全部絶妙に使えないコースだから。

 慎ちゃんは誰よりも激しく動き、息を荒げ、走り回っていたが、試合開始から、まだ一度もボールに触れていなかった。まるでサッカーをする人々の中で、一人だけマラソンをしているみたいだ。

 人一倍、一生懸命に声出ししている慎ちゃんは途轍もなく愛おしい。可愛い。好き。

 でも、そのコースもやはり使えない。私は千葉さんにパスを出した。

 千葉さんは慎ちゃんを可哀想に思ったのか、ボールを受け取ると、わざわざ慎ちゃんにドリブルで近づいていき、敵を上手くかわした上で、慎ちゃんにパスを出した。


 ゴール前の絶好の位置。オフサイドは……ない! 慎ちゃんの今日唯一にして最大の見せ場が訪れた!


「うぉぉぉおおおおおお!」と叫びながら慎ちゃんがボールに向かって駆ける。リアルで叫びながらサッカーやる人、初めて見た。

 でも、良かった! 慎ちゃんのマラソン記録はここで終わりを迎えるのだ。晴れてサッカーマンの仲間入りである。

 慎ちゃんはコロコロと転がるボールに追いつくと、大きく足を振りかぶった。


「いっけェェエエエ!」


 慎ちゃんの足が勢いよく下りてきて、そして——。




「あ。空振った」



 ほぼ止まっているボールの真横を慎ちゃんの足が通過していき、慎ちゃんのマラソン大会は継続された。

 直後、試合終了を知らせる笛が鳴った。

 慎ちゃんはしょんぼりしながら、グラウンドから校舎の方にトボトボ歩く。試合前に『ゴール決めた時の喜び方』の練習をしていただけに、痛ましさが尋常じゃない。

 あぁ、可愛い……じゃない、可哀想!

 未来の妻である私が慰めてあげなきゃ!

 私は慎ちゃんに近付いた。




 が、次の瞬間。

 グラリと視界がねじれるように歪んだ。同時に性欲がぐつぐつと煮えるように暴れ出し、私の奥底が急激に疼いた。

 

(な、何?! 何これ?! ヤバい! 慎ちゃんから……女の理性を破壊するフェロモンが出てる!)


 当然と言えば、当然だ。

 慎ちゃんは一人サッカーマラソンをしていたのだ! 慎ちゃんがかいた汗は人一倍多いはずだ。その汗の香りを吸引した私は慎ちゃん酔いしてしまったのだろう。

 慎ちゃんの周りの女子が次々にしゃがみ込む。慎ちゃん酔いした人は、視界が周る程の性欲の急上昇と共に、お股が疼き立っていられなくなる。自身の危うさに全く気付く様子のない慎ちゃんはエロスオーラを帯びて、周りの女子を発情させながら、教室に戻って行った。


 そして、慎ちゃんは体育着から制服に着替え、エロスオーラ事件は終わった――






 ――かに、見えた。

 しかし、私の中のエロスは終わらなかった。

 うちなる私のエロスがお股の中心で愛を叫ぶ。


 もう一度嗅ぎたい! と。

 あわよくば、体育着の脇部分に顔を埋めて思いっきり吸引したい! と。


 その思いは刻一刻と強くなり、そして私はついに自分が抑えきれなくなって、犯行を決意した。

 放課後は慎ちゃんがカバンに体育着を収納してしまうので、ダメだ。放課後までに吸引しなくてはならない。

 そこで、私は教室移動のある5時間目の選択授業に目をつけた。選択授業は皆それぞれに選択した授業の教室に行っているため、この2-Dはもぬけの殻だ。

 慎ちゃんは確か音楽だ。私は美術。

 美術は先生が基本放任主義なので、多少抜け出してもバレることはない。




 そうして私はこの誰もいない教室で、こそこそと慎ちゃんの机を目指して、少しずつ進んでいたのだ。

 もう少し! もう少しで、あの机の横にかかっている体育着袋に——合法エロぶつに辿り着く!

 はぁはぁ、と荒ぶる自分の呼吸が聞こえる。肉を前にした腹ペコの肉食獣のように、じゅるりと垂れそうになったヨダレを手の甲で拭いとる。下の方もじんわり滲んで、既にパンツが冷たい。


 よし! もう届く!


 私は手を伸ばして体育着袋をこの手に掴み取った。伝説の秘宝。失われたアーセ。手にすれば、この世の全て(の女)を支配できる危険な代物。

 私はこのオーパーツを手に全能感に満たされた。

 では、早速吸引の方を、と体育着を引き寄せようとして、失敗する。机の反対側から、同じように体育着袋を引っ張る者がいたのだ。私と同じように屈んで隠れながらも、がっしりと体育着袋を掴むギャル。


「千葉さん?!」

「桃山さん?!」


 私と千葉さんの声が重なった。

 まさか! まさか私と同じことを考える者が他にもいたとは!


「ちょっと千葉さん? その手を離してもらえるかな?」


 私は体育着をぐいぐい引っ張りながら威嚇する。


「桃山さんこそ、離してよ。私は発情を抑えるのにコレが必要なの!」


 千葉さんは血走った目でそう言いながら、体育着袋を引っ張る。完全にヤク中である。


「私だってコレがないとお股の疼きと体の震えが止まらないんだから!」


 私も負けじと引っ張る。

 体育着袋にプリントされた厨二が好きそうな黒い龍の絵が横に伸びて、ツチノコみたいになっていた。


 それが起こったのは、私と千葉さんが必死の攻防を繰り広げている時だった。

 突如として、教卓の方から声が上がった。


「お前ら、僕の体育着袋で何やってんの……?」


 そこにいたのは、顔を引き攣らせて教壇に立っている須田 慎一その人であった!

 

「なんで慎ちゃんがここに!?」と私が震える声を上げる中、千葉さんは、「慎一くん! 今は選択授業の時間のはずでしょ!」と慎ちゃんを指差した。その手も震えていた。

「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」と慎ちゃんがこちらに歩いてきた。


 いち早く申し開きをしたのは千葉さんだった。

 おばか、おやめなさい! そう止める暇もなかった。


「違うの慎一くん! これは自病の発情を抑えるために必要なの! 下心はないの!」

「自病の発情ってなんだよ! 発情を発作みたいに言ってんじゃないよ!」


 案の定、千葉さんは慎ちゃんのツッコミの餌食えじきとなった。

 慎ちゃんがツッコミに集中して油断した一瞬に、私は慎ちゃんが後ろ手に何か隠していることに気がついた。


「慎ちゃん、何隠してるの?」

「え゛?! いやぁ? なんにも? 何にもないよ?」


 フヒュー、と下手くそな口笛を慎ちゃんが鳴らした。怪しすぎる。

 私は千葉さんに目だけで合図を送る。

 千葉さんは神妙に頷いてから、器用に半身だけ慎ちゃんの後ろにずいっと回り込み、そして、慎ちゃんが持っている物を取り上げた。


「……体育着?」


 慎ちゃんが隠していたのは、なんと私の体育着だった。

 重々しい沈黙が訪れた。

 一瞬遅れて思考が回り始める。


(え? なんで? え? 慎ちゃんがなんで私の体育着を——)


混乱しかけた頭が、全てを理解したら今度は、ぼっ、と火照りだした。


 ダメぇぇぇぇえええええええ!

 お願いやめてぇえ! 絶対臭いから! めっちゃ汗かいたからァ!

 慎ちゃんが私の体育着で発情してくれたのは嬉しい! 女として意識されているってことだもん。とっても嬉しいよ?

 でも、それとこれとは話が別! 私は慎ちゃんの匂いは嗅ぎたいけど、自分の臭いを嗅がれるのは、たとえ慎ちゃんであろうと嫌なの!

 女子の汗は臭いんだよ慎ちゃん!


「違う! 違うんだ! これは! これは自病の発情が!」とどこかで聞いたような言い訳を慎ちゃんが繰り出す。さっき自分でしたツッコミが見事なブーメランを決めていた。


 私は、慎ちゃんに軽蔑の眼差しを向けながら、私のハ◯ーキティの体育着袋を掴んで引っ張る。


「お前も僕のこと軽蔑する資格ないけどな!」


 ちょっと慎ちゃんが何言ってるのか分からない。

 私は左手で慎ちゃんの体育着袋を千葉さんと引っ張り合い、右手で私の体育着袋を慎ちゃんと引っ張り合う。

 場は膠着こうちゃくした。

 三すくみの膠着こうちゃく状態を解くきっかけを作ったのは慎ちゃんだった。


「分かった! 分かったよ! じゃあこうしよう!」


 そう言いながら慎ちゃんは空いている方の手で、隣の千葉さんの席の横フックから体育着を取る。

 そして、器用に片手で袋を開けて自分の机の上に千葉さんの体育着を出した。白い半袖シャツと紺のブルマだ。

 千葉さんは顔を赤らめて恥ずかしそうにしている。そりゃ汗まみれの体育着を机に広げられてはたまったもんじゃない。

 しかし、慎ちゃんはお構いなしだった。


「こうやって、全員の体育着を机に出し、ごちゃ混ぜにする。そして、一人ずつ目を瞑って一枚一枚引いていくんだ」

「いやトランプじゃないんだから」と慎ちゃんに半眼を送るが、無視された。都合の悪い言葉はスルー。慎ちゃんそういうとこ、あるよね。

「なるほど。完全にランダムだから恨みっこ無しってことだね」とまだ少し顔が赤い千葉さんが頷く。

「いや、『なるほど』じゃないけどね。納得できる要素皆無だけどね」

 

 千葉さんは慎ちゃんに顔を向けてジャッジを求め、慎ちゃんはそれに応じて無言でかぶりを振った。『相手にするな』とでも言うように。千葉さんは慎ちゃんに従い、私を無視した。

 私の意向はないものとして、体育着のシャッフルチェンジの開催が決定した。


(落ち着いて私。体育着は上下分かれているから、チャンスは2回。出来れば慎ちゃんのシャツが欲しいけど、ハーフズボンでもそれはそれで有り。理想は慎ちゃんの手に千葉さんの体育着が渡り、私が慎ちゃんの体育着を得る展開)


 全員分の体育着を机に出すと、誰から引くとも話していないのに、慎ちゃんが勝手に目を瞑って体育着を手探った。


「僕のターン……ドロー!」


 ♦︎


 結果は山分けであり、痛み分けであった。

 私は念願の慎ちゃんのシャツを手に入れ、自分のブルマが戻ってくる。

 千葉さんは慎ちゃんの半ズボンを手に入れ、自分のシャツが返ってくる。

 そして、慎ちゃんは私のシャツに、千葉さんのブルマを手に入れて、ホクホク顔であった。

 考えてみれば、慎ちゃんだけ、ハズレがない!

 私のでも千葉さんのでも性欲は満たされるし、もしも自分のが返ってきても、私たちに体育着を使われる心配がなくなるのである意味当たりだ。

 まんまとハメられた!

 でも、そんな姑息で卑怯なところも可愛い! 


 私は慎ちゃんの手に私のシャツが渡るのはすごく嫌だったが、ルールはルール。諦めるしかなかった。

 初めの取り決めの通り、放課後までは各々体育着をレンタルすることとし、その場はお開きとなった。





 しかし、5時間目が終了し、教室に皆が戻った時に、予期せぬ事態が起こる。



 体育の角野先生が2-Dにやってきて、大声で伝達する。


「体育の創作ダンスの進みが遅れてるから、今日の6時間目は急遽体育とすることになった。体育着に着替えたら、女子は体育館、男子は武道場に集合だ」



 まさかもう一度体育着を使うことになるなんて、予想だにしていなかった。

 普通に考えたら、体育着のレンタルを中止して、それぞれの持ち主に返すのが、一番良い選択だ。

 慎ちゃんもそう思ったのだろう。何か言いたげにこちらに目で訴えてかけていた。

 私は慎ちゃんに、にこっ、と微笑みかけ——











 ——ダッシュで逃走した。



 だってだってだって!

 慎ちゃんの体育着を手放すなんてとんでもない!

 国宝級の体育着は一度手に入れたら、離すことなどできないのだ!

 私はコレ着て創作ダンスするも〜ん❤︎

 『須田』の名札が縫い付けてあるので、『彼氏のシャツ借りちゃった❤︎』と皆にアピールすることもできて、一石二鳥!

 後ろを振り返ると千葉さんもとんずらダッシュを決めていた。

 そして、その向こう側には、膝をついて俯き、哀愁を漂わせている慎ちゃんが見えた。



 ♦︎



「須田。お前なんでブルマなんだ?」


 角野先生は良い先生だ。

 頭ごなしに叱りつけないで、まず理由を聞いてくれる。

 この時もそうだった。

 やや顔を引き攣らせながらも、慎重に僕に問う。武道場でクラスメイトの男子全員の注目が僕——いやブルマに注がれた。


「先生。僕は目立つのが嫌いなんです」

「須田。お前目立ってるぞ。お前、というか、そのブルマ」

 ちっちっち、と指を振る。「だから先生は角野止まりなんです」

「須田。先生の名前を悪口みたく言うな」


 僕は立ち上がり、両手を広げて語る。「先生、目立たないためには、どうすれば良いか。ご存知ですか?」

「まずブルマを履かないことじゃないか?」と先生が呆れ顔で言った。

 僕は先生の訳の分からない指摘を聞き流し、続けた。「木を隠すには森の中。では、女子だらけの世界で隠れるなら、どうするか。…………これがその答えです」

「須田。大変言いづらいが、全然隠れられていないぞ。女装する前にまず、そのをどうにかしろ須田」


 未成年の主張みたく言わないでほしい。

『学校でイこう』ってことか?

 僕の下半身所属軍人ジョニーがブルマに顔を押し付けて、まるで牢獄に幽閉されたかのように『ここから出せぇぇええ!』と主張するのも致し方ないのだ。



 だって、これ桃山のシャツだもの。

 ヤバすぎる! 桃山の汗をふんだんに染み込ませ、少し湿ってひんやりしている。そして濃厚な桃山の匂いに、常時包み込まれ、まるで裸の桃山に布団の中で抱きつかれているかのような感覚!

 ブルマはブルマで千葉の汗で湿っていてエロい。

 股間部に千葉の汗が染み込んでいると思うと、興奮を禁じ得ない。


 そんな代物を装備しているのだ。

 軍人ジョニーが聳え立つのも道理。

 僕は一向に進まない授業に業を煮やし、居ても立っても居られず、先生の横に立ち、下半身にテントを張った状態で、クラスメイト達に振り返った。




「さぁ、ダンスの時間だ!」




 


「勝手に進行しないでくれるか……?」と角野先生が疲れた声を漏らしていたが、無視した。


 僕は踊った。猛烈に踊った。

 とつのついたブルマ姿でキレッキレのソロダンスを披露した。

 ダンスが終わった時、僕は1人ではなかった。後ろを振り返るといつの間に付いたのか、数人の男子がバックダンサーを務めていた。

 彼らはダンスが終わると、互いに微笑み合い、「やりきったな」「良いビート刻んでたぜ」と僕にハイタッチを求めてきた。


 僕は思った。























 何やってんだコイツら。バカか。


 余韻に浸るバックダンサーを置いて、僕は更衣室に戻った。

 後に僕は『変態ブルマダンサー』と呼ばれるようになり、翌日の学校新聞では当たり前のように一面をかっさらった。


 見出しにはこう書かれていた。








『慎ちゃんのブルマダンスがヤバい!』







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