償雨
七雨ゆう葉
前編
生い茂る深緑。螺旋のようにとぐろを巻き、
「今年はどうも、
雲一つない空、ひどく乾いた空気が頬を撫で、マヌヤは一人呟く。
深い密林の中にポツンと佇む石垣の家屋。マヌヤにとって、隠居をするに最適な環境ともいえるこのジャングルも、ここ最近様相が変化してきていた。先月頃から小川のせせらぎもピタリと止み、樹木もやせ細っているように感じられる。容赦なく大地を焦がすその灼熱の火球を見上げ、マヌヤは溜息と共に天を
パチンッ。
長年愛用してきた
ふう……。魔法は誰にでも使えるというわけではない。そして、魔法は生気、すなわち生命エネルギーを源とし発現される。本当なら使いたくはないが、止むを得まい。人間も魔法も、自然には逆らえないのだから――。
パチパチ、パチ。
はぁ、はぁ。
パチパチ、パチパチ。
はぁ、はぁ、はぁ……。
パチパチパチパチパチパチ……。
すると。猛獣にしては疑わしく、いかにも可愛らしい呼吸音を奏でながら、細い木の枝を無邪気に踏み鳴らす少年の足音が聞こえた。
「おはよう、マヌヤばあちゃん!」
刹那に生み出された小さな虹。その淡い七色のアーチをくぐり抜け、あどけない声音を
「あれま、デディよ。こんな早くからまた、元気なこって」
デディと名乗るその少年とは、出会ってからかれこれ何ヶ月が経過しただろう。彼はこの森を抜けた先、数十キロの平原を超えた場所にある集落「イラド村」に住む十歳にも満たない少年だった。
「また遊びに来ちゃった!」
「そんなこと言って、デディよ。どうせまた、稽古から逃げて来たんじゃろ」
「だってぇ~。全然楽しくないんだもん。それに痛いし」
稽古とは「剣技」のこと。以前デディから聞かされていた。男として「
「この虹、それと雨も。マヌヤばあちゃんがやったんでしょ! ボクにも教えて!」
「ダメじゃ」
そう言いながらマヌヤは、「ちょっとそこで待っとれ」と言い残し、一人家屋へと入っていった。そして中に入ると真っ直ぐ、レンガ造りのキッチンへと向かう。
パチンッ。
木製のカップを手の取ったマヌヤは、再び指を鳴らした。
ひたひたと揺れる
「ほれ、飲みな。暑い中、あんな遠い村からわざわざ来るなんて」
「そうだよ。わざわざ来てるんだよ、いつも。だからねマヌヤばあちゃん、魔法教えて!」
「前にも言ったが無理じゃ。デディにはまだ早い」
「またそれ。もぅ。なんで?」
手に持った木の枝をゆらゆらさせながら、不貞腐れたように頬を膨らませるデディ。
「いいかいデディ。魔法はな、ナイフや弓矢と同様に、時に人を傷つける兵器にも成り得るんじゃ。だから幼いデディには、ちょいと早すぎる」
「そんなん……。じゃあ剣のお稽古だって、良くないじゃん」
「そうじゃな。でもなデディ。魔法はもっと危ない。人間とは強欲で愚かな生き物。そんな人間は同じ生き物同士、常に骨肉の争いを続けてきた。そしてその度に、平和のありがたみを知る。デディはさっき、稽古は痛いと言ったが、痛みを知ることは大切なのじゃよ」
「たいせつ?」
「そうじゃ。強くなるのは大事じゃが、それだけじゃあない。痛みを知るからこそ、争いという、その悲惨さを知ることにもなる。魔法はな、デディ。その過程が無く危険なんじゃ。痛みも知らず、得ることなく思いのまま使ってしまえば、何をしてしまうかわからない。唱えるだけで、安易に命を
「ボクはしないよ! そんな事は絶対にしない!」
「ダメじゃ」
「うーん。マヌヤばあちゃんのいじわる」
「それにな、デディ。魔法は生気、すなわち生命エネルギーを源とし発現するんじゃ。今のデディの幼い身体じゃあ、到底その身が持たんよ」
「んー。じゃあ、いつになったら教えてくれるの?」
「まあ……そうじゃな。少なくともあと一年。一年経ったら、水魔法の基礎くらいなら教えてやってもええかもな」
「ホント!?」
「あぁ」
「一年は、長いけど……うんわかった! なら約束だよ! 絶対だよ!」
機嫌を直したデディは、満面の笑みでカップの水をゴクリと飲み干す。
「ほれ。わかったら今日はもう稽古に戻りな」
「うん! 大好き、マヌヤばあちゃん」
「じゃあまた来るね!」
木漏れ日に輝く破顔。
そう言うとデディは嬉しそうにスキップをし、森を去って行った。
◆
それからはしばらく。デディは森へとやって来ては、これまでみたく駄々をこねることも無く、家屋に貯蔵していた数冊の魔導書を読み
「へえ。魔法を使えば、水さえも
「そうじゃ。でもそれは水魔法でも上級魔法。習ったとて、デディにはまだまだ先の話じゃよ」
「ふん、いいもん。ボク、いっぱい魔法覚えて、努力して、すぐに覚えてやるんだから」
野性味と少年味溢れる言葉に、本当なら懸念を示すべきところ。けれどマヌヤは、その実直且つ素直な姿勢に自然と頬が
「ボク、マヌヤばあちゃんに魔法を教わったらさ。村じゅうに大きな虹を作って、みんなを驚かせたいんだ!」
「ほう。雨を降らそうと?」
「うん! みんな絶対喜ぶから!」
「デディよ。そういえばここんとこずっと雨が降ってないが、村の水源は大丈夫なのかい?」
「うーん。どうだろ。一応まだ井戸からは、水は
で……あるなら。
「止むを得まい」
マヌヤはそう言うと、デディの頭を優しく撫でる。
「デディよ。気が変わった」
「魔法じゃが……すぐに教えてやる」
「えっ?」
きらめく虹彩。拍子抜けになるも一瞬で、歓喜の熱を発するデディ。
「ホントに!? いいの?」
「ああ。ひとまず水魔法を重点的に教えてやろう」
「やったあああ!!」
「じゃが、もうすぐで夜も更けるから。今日はもう帰りなさい。次来た時から教えてやるでの」
「うん! わかった! ありがと、マヌヤばあちゃん! 大好き!」
我慢できず、嬉しさのあまりマヌヤに抱きつくデディ。村の未来を案じたマヌヤは、こうしてデディにとって念願の約束を交わした。
じつは……初めて。この子が初めての弟子となろう。なら愛弟子として、この先の未来を託す英雄として、愛情を持って育てよう。そう決心し、マヌヤはデディの艶やかな髪を何度も撫でる。
「あ、そうだ。マヌヤばあちゃん」
「おぉ?」
「
「ほう。そうかい」
「はじめてだよこんなの! いいでしょ! すごいでしょ! だからマヌヤばあちゃんも良かったら、村まで遊びに来ない?」
マヌヤがデディの誕生日は知ったのは、この日が初だった。とはいえイラド村は今、干ばつで困窮しているであろうに……。そんな中でありながら、お祝いじゃと? しかもはじめてだという。
……ほう。マヌヤは少々疑問に思いつつも、イラド村の人々はじつに慈悲深い村民だなと感心した。
「すまないがデディ。大勢の場は好かんのでな。わたしゃ遠慮しておくよ」
「フフフ。そう言うと思った。でも大丈夫! だって、ボクがこうやってまた遊びに来ればいいだけだし。ねっ!」
申し訳なく思いつつも、デディは終始笑顔だった。
森を出るつもりはない。無いが、とはいえデディにとって、年に一度の記念日。
そうじゃな……。
次来た時に、デディ用の杖でも進呈しようか――。
そう思いながらマヌヤは、静かにデディを見送った。
茜色の落陽に溶けていく、小さな影。
マヌヤは久しぶりに心から笑みを零した。
◆
だが、それ以降。
マヌヤの元に、デディが姿を現すことはなかった。
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