第72話 ハンド

 練習試合の後、試合の興奮がずっと続いていて、体が火照って眠れなかった。雨の準決勝で失敗したPKペナルティーキックと、今日の試合のPKと、連続して試合でPKを外した。でも、今日のPKの悔しさは前と違う。自分のミスじゃなくて、ただすずに実力で負けたからだ。自分の負けを当然のものとして納得できる。


 それに、悔しいから、体が熱いんじゃないのも分かってる。

 涼に会いたくて、好きすぎて、熱い。

 涼がとても好きだけど、一番好きな涼は、試合の時のゴールを守ってる時の涼なんだと、今日、実感した。

 試合という形で、本気の涼と対峙したことへの興奮が止まんない。


 眠れないでいて、ふと気付くとスマホに涼からメッセージが届いているのに気付いた。ぼーっとしてたから、気付くの遅くなって届いてから少し時間が経っちゃてた。もう涼は寝ちゃっただろうか。

 5文字。

『あいたいよ』

 涼も同じ気持ちなんかな。明日、涼が合宿から帰ってきたら、涼の家に行っていいのかな。

『あいにいくよ』

 6文字を、送り返した。




 ______




 よく寝てる。


 もう家に帰ってるだろう時間になっても何の連絡もないし、こっちの電話にも出てくれない。どうしたんかな、と思って、直接涼んちに行ったら、涼のお母さんが出てきて、「ぐっすり寝てるから起こしてあげて」と言われた。

 勝手に部屋に上がっていいんだか、と思いつつ、涼の部屋に行ったら、本当に寝てた。寝返りもほとんどうたない。爆睡中だ。

 起こすのは可哀想だから待つことにして、ちょうど読んでみたかった昔のバスケ漫画が本棚に並んでたから、それを勝手に読ませてもらうことにした。




 漫画がインターハイ神奈川県予選が始まったところまできて、涼が目を覚ました。山に近い涼の家は日が暮れるのが早いから、ちょっと暗くなってきて、そろそろ漫画を読むために灯りを点けようかと思い始めたところだった。


「…起きた? まだ寝ててもいいよ」

「ま、さ…?」

 涼が掠れた声で私の名前を口にした。

「起こしてくれていいのに」

 涼が上半身を起こして、欠伸をしながら髪の乱れを直す。

「合宿終わったばっかで疲れてるだろうなって思ったから。あと、寝顔可愛いから見てたん」

「変なこと言わないで」と涼は恥ずかしそうに唇を尖らせる。そんな寝起きの涼をからかっていたら、涼がタオルケットを畳もうとして、足を出した。

 右足がぐるぐるに包帯で巻かれてるのを見て、胸が痛くなるくらい驚いて、それから愕然とする。



 最悪の想像がバーっと頭の中を駆け巡って、鼻がツンとした。



「あ、ごめん。びっくりさせたよね。膝と足首の炎症、ふくらはぎの軽い肉離れ。1週間くらい大人しくして、それから2週間くらいは軽運動のみ、だって」


 ちゃんと治る、それを確認してもなお、不安が消えない。

 でも、痒いと言って包帯の隙間に指を突っ込む涼は笑ってる。

 大丈夫、なんだ。

 そう思いながらも、涼に抱きついていた。


「もう、サッカーできないって言われなくて、良かった…」



 私の背中をぽんぽんと涼がタップする。

「まだサッカーは絶対やめないよ。合宿も昨日の試合も楽しかったもん。ね、わたし、上手になったでしょ?」


 上手になったでしょ


 昨日の試合での涼の活躍は、上手なんて言葉で説明できるような、そんなレベルじゃなかったんだけど、涼にとっては、小さな子供が自慢できるようなものなんだろうか。

 頭の中で、チビっ子になった涼が、わたし上手でしょ、って自慢する姿が見えた。

 そう思ったら、ぷっと吹き出していた。


「え、なんで笑うの?わたし上手になってない?」


 涼が本気で焦ってる。上達しただろうと思って自信満々で言ったら私に鼻で笑われた、そんな風に思ったんだろう。

 なんて面白がってたら、両肩を掴んで、私の顔をひき離すと、じっと目を覗き込んでくる。涼の目は本気だ。ちゃんと褒めてあげないと納得してくれない。


「うん、練習試合の時、凄いと思った。巧くなったし、背番号1だけじゃなくて、キャプテンマークまで付けちゃってるし」

「あ、気付いてたんだ」

 涼がニコッと笑い、私の肩に掛かっていた手の力が抜けた。

「気付くよ、昨日はずっと涼のこと見てたよ。知ってるしょ?」

「…試合中にまさにガン飛ばされた」

 涼の両足の間に跪いていたけれど、涼の右足をまたぐように自分の膝の位置を変える。

「え、それは涼っしょ?凄い怖い顔で睨んでくるから、びびったん」

「それは、こっちのセリフだよ。めちゃ怖い目して見てきたじゃん。てか、全然びびってなかったじゃん!」

 膝を前に進めて、距離を詰める。両肩をつかんでいる涼の腕の肘が深く曲がるくらいに。

「ビビってる。本気以上に本気でやらないと、涼から点獲れないんだもん。涼は、怖いよ」

「嘘つき、わたしから2点も獲ったくせに」

 これ以上は膝を進められないところまで来たので、腰を折って顔を近付ける。

「一番欲しかった3点目は獲らせてくれなかった。そういうとこが憎たらしいん」

 涼は、それに応えず、両手を私の肩から腕の後ろを撫でるようにして下げて、両肘を後ろから包むように掴む。もう下がらせてくれないつもりらしい。

 鼻と鼻が付くくらいの距離で、私は少しだけ顔を傾けた。


「すず」


 名前を呼ぶと、2回、唇が唇に当たるくらい接触スレスレに顔が接近している。これもキスとしてカウントできる?

 部屋が薄暗い。

 私は両手で涼の頬を包むようにして、ぐっと引き寄せた。

 涼の腕も私の肘から首の後ろに上がって、私の頭をホールドする。


 離れられなくなる

 頭に血が上ってくらくらする

 平衡感覚が壊れたみたいに


 左手は涼の髪の毛ごと、うなじにしがみついた。

 右手は涼の背中を旅し始めるように動く。


 旅をするには涼のTシャツが邪魔だと感じてしまう。何の邪魔なんだか、自分でもよく分からない。涼の腰の辺りで右手がシャツの裾をたぐると、指が肌に触れて、そのまま裾から入り込んで、また旅をする。


 初めてじかに触れる涼の背中の熱と

感触を確かめることに夢中になってると、時々その背中がピクっと震えるのを感じて、もっと触りたくなる。

 背中の真ん中辺りで指がピッタリした布地に触れる。それが、何か気付くと、もう背中だけじゃ満足できなくて、もっと柔らかいところに行きたくなった。

 そこに手をを潜り込ませて、それから、涼の体の前の方に手をゆっくりとずらしていく。



 ここ、さわっていいのかな

 ていうか

 なんでさわりたいのかな


 そう思ったけど手が止まらなかった。

 中指と親指は形を確かめるように

 人差し指は柔らかさを確かめるように


 指を動かすと聞いたことないような涼の声が響いた。

 その声で背中がぞくぞくする。


 次の瞬間、私の腕の中から飛び出すように涼が離れた。

 畳が擦れて摩擦熱が出るような勢いで、ざざざって音を立てて、後ろ向きに下がって離れて行ってしまった。

 壁が背中に当たって止まると、胸を隠したかったのか、両手両足を縮めようとして、でも。包帯を巻き付けた右足は曲げられず、「いだだだだ!」と叫んで右足を抱え込んだ。

 もう結構暗くなってはいたけれど、涼の顔がめちゃくちゃ顔が赤くなってるのが分かった。微かに息が上がってもいる。


 私は中腰から、ペタンと腰を落として座り込んだ。宙に浮いた両手が畳の上に落下する。そして、我に返って、自分の右手をじっと見ながら、自分が涼に何をしようとしていたのか、何を触っていたのか、改めてちょっと考えた。

 何って。



「……えっと、あの、ごめん、ね?」

 とりあえず、涼の方を向き直って正座して、両手を腿の上に置いて頭を下げた。謝るべき、だよね。

「いい!謝らなくていい、いいから、忘れて」

「忘れるって、何を?」

「声、今のわたしの変な声!やだ、あんな声」


 そこ?自分の声が嫌なん?

 私のしたことが、嫌なんじゃないん??

 そう思うとちょっとホッとした。そしてもちろん、声どころか感触も何もかも忘れることなんてできない。

 今、私がしたことを。 


 それにしても、私、どうなっちゃったんだろう。

 涼にあんなことをしたなんて。

 したくて仕方がなかったなんて。



 ああもう、今年の夏は忘れらないことばかりだ。




すると、変になった空気を壊すように内線電話の呼び出し音が鳴って、夕食を食べに来いと呼ばれていることが分かった。

「涼、ちゃんと歩けるん?」

「……うん、大丈夫。行こ」



 涼の手を引いて納屋の急な階段を降りる。涼の右足が痛まないように、二人でゆっくりダイニングを目指していく。


「ねえ、出会った時の逆みたいだね」

 くすりと笑って、涼が呟いた。


 春、足首に包帯を巻いて、松葉杖を着いてたのは、私だ。


「ああ、そういえば、そうだった」

 けが人なのに、痛めてない方の片足でぴょんぴょんと移動してたっけ。

「4ヶ月しか経ってないよ」

 涼がふふっと微笑むのを見て、この人はやっぱり私よりオトナっぽくてカッコいいなって思う。

 追い付きたい?


 んー、肩を並べていたい 

 ずっと一緒にいたい。



「慌てないで、ゆっくり、行こっか」


 自分でそう言いながら、それが階段のことなのか、サッカーのことなのか、……さっきの、みたいなことなのか、自分でも分からなかった。


 でも、涼は、そうだね、と笑って答えてくれた。












_____


『ハンド』 

 手や腕を使って、意図的にボールに触れる反則。

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