第69話 恋戦恋勝(4)

 1ヶ月前の雨の準決勝戦

 まさが最後の最後でPKペナルティキックを外して敗北した。

 すずは、あの日の雅の涙を忘れてはいない。

 あんな顔の雅を二度と見たくはない。


 だからと言って、このPKを譲るというわけにはいかない。

 もちろん、PKは蹴る雅の方が圧倒的に有利だ。

 雅がどこに蹴るのか、それを分かっていたとしても、ボールを止められるか分からない。もし雅を止められなければ、雅はハットトリックを達成し、この試合は雅一人に負けてしまうようなものになる。

 たかが、ハーフの練習試合。

 されど、絶対に負けたくない相手との試合だ。


 雅はどこに蹴る?


 雅はボールの前に立って、ボールとゴールを交互に見ている。その表情が少し堅いように見えるのは、雅が、あの日のPKを思い出しているからだろう。

 雅は、あの日のPKを絶対に忘れてはいないし、過ぎ去ったこととも思ってはいない筈だ。


 涼はいつものルーティーンで、両手をパンっとたたき合わせると、大きく横に広げ、軽く上下させる。

 腰を少し落として体を揺らし、息をふーっと長く吐いて、筋肉の緊張を緩める。

 雅の大きな目を見た。




 春、バスの中で出会って、

 好きになって、

 告白した。

 誘われてサッカー部に入って、

 一緒に試合に出た。

 両思いになって、

 キスをした。



 ああ、わたし、やっぱり雅が好きだなあ。



 不意に幸せな気持ちが襲ってきて、涼の頬が緩む。


 その涼の顔を見て、雅もそれに応えるように、目をそばめた。


 ごく、ごく僅かな二人だけの時間

 



 次の瞬間、画面が切り替わったように雅は助走する。


 一歩

 二歩


 涼はヒュッと息を吸い込む。



 三歩


 雅の左足がボールの横に届く。


 後ろに右足を振り上げる。

 いつものきれいなフォームだった。



 涼は、身長が高く、ハイジャンプが武器で、高いボールに強い。

 一方で、足が長く、腰が高い位置にあることもあって、どちらかと言えば低いボールが苦手だ。


 低めのボールを足元か、右か左の横に、鋭く素早く転がしてくるだろうと予測する。

 右か、左か



 違う



 雅は涼に負けるとも劣らない負けず嫌いだ。



 あの雨の日のPK戦。

 数cmのずれで、ボールはゴールポストに当たって外れた。


 雅が狙ったのは左上


 雅は、あの日の失敗を取り返しに来る。



 ばんっ


 音を立てて雅がボールを蹴る。


 だんっ


 ほぼ同時に涼は右上に高くジャンプする。

 雅の左上は涼の右上だ。


 毎日、雅の居残り練習に付き合っていた涼は、雅がゴールの隅を正確に狙ってくることを知っていた。


 雅がいつも狙っているポイントに右手を精一杯伸ばしながら、空に飛び出す勢いで跳躍した。



 涼の思ったとおり、雅は速いボールをゴールの左上に叩き込もうとしていた。

 気付いていたとはいえ、涼の手がボールに届くのかは、ぎりぎりのタイミングだった。


 伸ばせ!


 腕を

 手を


 指を




 雅のキックは正確にゴールネットの左隅に向かって、確実に飛んでいく。


 涼の中指と薬指がそのボールに触れる。


 指がボールを掠めて、ほんの少し、軌道を変えた。


 その少しの変化が、雅の狙いをずらす。



 ガン



 あの雨の日のPK


 それと同じように、ボールは雅の狙いから僅かにずれ、ゴールポストに当たった。


 そして、


 たんっと跳ね返ったボールは雅の前でワンバウンドする。



 雅は、そのボールを、そのままボレーシュートで、もう1度、ゴールネットの中に戻そうとする。


 ばん


 と雅の右足にボールが当たる。


 雅の右足から飛び出すようにボールがゴールへと向かった。






 ゴールの右側に高く跳んだ後、着いた右足首をねじり、右の膝をバネにするように、涼はすぐに左側、逆側に跳んでゴール中央に戻っていた。


 雅のシュートしたボールは、今度は、涼の胸に飛び込んだ。


 どん


 胸に当たってボールは涼から逃げようとする。

 しかし、涼は、そのボールを、他の誰にも渡さないというようにしっかりと抱き締めて、横っ跳びのまま、地面に倒れた。


 ボールがこぼれないように、すぐにうつ伏せになって、抱え込む。



 これは、わたしの、ボールだ。

 雅にも誰にも渡さない。


 渡さない!




 ホイッスルが鳴った。



 わっとAチームの選手たちが涼に飛び付く。

「「ハセガーっ!!」」

「うぉあっ」

 仲間たちに囲まれて、もみくちゃにされながら、涼の目は雅を探した。


 すぐに、呆然と立っている雅を見付けた。



 目が合った。


 雅の大きな目が見開かれたままになっている。

 それから


 眉を下げて、口を曲げるように、

 悔しそうに、でも、笑った。


 涼も、その笑顔を見て、笑った。


 

 涼は立ち上がり、頑張った右足の爪先をトントンと地面に当てて、調子を見る。ふくらはぎが張っていて、少し重いけど大丈夫そうだ。

 選手たちがそれぞれのポジションに散って戻っていく。

 涼は、守り切ったボールをゴールキックしようと、丁寧に置く。

 雅と原先輩の位置を確認して、ゴールキックをまた奪われないように注意する。

 どこに蹴るか、悟られないように気をつけながら、ボールを思い切り蹴る。



 青く広がった夏空にボールが高く上がった。



 そして、鳴る、長い長いホイッスル。

 タイムアップの笛だった。





 4回目のハーフは2対2の同点で終わった。



 右膝がカクンと抜けて、涼は、ぺちゃんと座り込んだ。

 ピッチを走るみんなほど走ってはいないから、体力的にはまだまだ余裕はあるが、集中しすぎて、なんだか視界がぼんやりするような気がした。


「すず…!」


 誰よりも早く涼に駆け寄ったのは雅だった。

 雅は、涼の手首を持って引っ張り上げて、立たせる。

 立ち上がると、見上げていた雅の顔が少し下になって、雅がいつものように涼を見上げていた。


 雅は、立ち上がったばかりの涼の腰にきゅっとしがみつく。


「ひどいよ、涼。最後のPK、決めさせてほしかった」

「やだよ、絶対にやだ」

「…なんで、あそこに蹴るって分かったん?」

「分かるよ、雅のことなら」


 ちょっと見栄を張って言った涼の背中で、雅の指に力が入った。


「涼、カッコ良かったよ。すごく」


 そう言ってから、雅は涼からそっと離れ、原先輩やいつもの仲間のところへ戻って行った

 その雅の鼻の頭が赤くなっていたのを涼は見逃さなかった。



 試合の後だけは、涼と雅が人前で抱き合っても、みんな何も思わない。

 お互いの健闘を讃え合っている

 そんな風に周りからは見えるだろう。


 二人だけは違うことを知っている。

 抱擁に込められている思いは恋情だ。



 涼は、雅のいなくなった腕の中の空間にちょっとだけ寂しさを覚えながら、走り出した。


 一週間限定のチームメイトたちの待っている場所に向かって。





 U17県代表チームGKゴールキーパー

 キャプテン長谷川涼

 明日、合宿が終わり、

 その肩書きも消える。



______



 合宿所の最後の夜。

 食堂で打ち上げと称して、みんなで、滅茶苦茶食べた。

 消灯時間まで、みんなで騒いだ。

 また別々の高校に戻ってしまうのは少しだけ名残惜しかった。



 試合の後、後藤は珍しく落ち込んでいて、食堂でも大人しかった。「ニシザーに叶わなかった。ニシザーより点を獲れないんじゃFW失格じゃんか。それに、あんなところでファール取られて、PKだなんて、全然ダメすぎるじゃん……」

 後藤は、食堂でコーラを飲みながらブツブツと呟いて、隣に座っていた涼の肩に頭を預けた。涼は後藤の肩に手を回して、肩を引き寄せた。

 そんな悔しさを後藤はどんな風に自分の中で消化するんだろうか。明日になったら、またステップを踏んで踊るのだろうか。

「わたしも雅に勝てたとは思えないよ」

 涼は慰めるでもなくそう呟いた。すんっと後藤が鼻を鳴らして笑った。

「絶対ニシザーより巧くなって、バカバカ点を獲ってやるんだ……」

 そんなことを言う後藤と、一緒に打倒西澤雅を誓って、涼はコーラで乾杯した。



 もうすぐ日の変わる時間になる。

 涼は、目が冴えて眠れなかった。


 後藤はもう隣のベッドですーすー寝息を立てている。

 今日もよく走り回った後藤は疲れ切っているに違いない。

 この合宿が終われば、こうして後藤と同じ部屋で寝るのも今日が最後だ。


 選抜合宿は中学校時代に何度も経験して、色んな選手と同じ部屋で過ごしてきた涼だが、親しくなったのは後藤が初めてなように思う。

 そうなれたのが、サッカーのせいなのか、後藤だからなのか、涼が少し成長したからなのか、涼には分からない。



 そして、涼は、スマホを手に取った。

 ディスプレイの明かりが涼の顔を照らす。

 涼の指が動いて、メッセージが送信された。



『あいたいよ』



 しばらくしてディスプレイは暗くなり、スマホを持ったまま涼は眠りに落ちた。




 眠っている涼の手でスマホのディスプレイがほの明るくなる。


『あいにいくよ』


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