3-3
二日後の昼頃。昨夜から降り続いた小雨が止み、空には雨雲が名残を留めながらもジメジメとした暑さはなく爽やかな晴天だった。
天気良好な空のもと、キルトは工房の空気を入れ替えようと出入り口を半ば開けた。
グエ、グエとぶ――
不意に聞き覚えのある声が地面の方から耳に入ってきた。
声の方向へ見下ろすと、理解しがたい光景が目に映る。
芝生の上に相変わらずの襤褸服を纏ったアイナが、顔を正面に向けた姿勢で張り付いていた。そんなアイナの顔の前には黄緑色の蛙がいる。
また理解の及ばない遊びをやってるんだろう。そっとしておこう。
面倒事を避けるようにキルトは無言で出入り口の戸を閉めようとしたが、微かな物音に気が付いたのかアイナの顔がキルトの方へ上向いた。
楽しそうな笑顔でアイナは口を開く。
「お兄さん。グエ」
「俺はグエじゃない」
傍から見れば阿保らしい問答を経てからキルトは出入り口の戸を閉めた。
修理作業に戻った直後、戸が開きアイナが上半身を覗かせる。
「お兄さん」
「なんだ?」
キルトはムネヒサから取り外した電子基盤を手に持ったところで振り向いた。
アイナの乞うような視線とかち合う。
「お兄さん遊ぶ」
「俺は遊ばないぞ。さっきみたいに一人で遊んでいればいいだろ」
「お兄さんもグエ」
「蛙と一緒にするな」
拒否の姿勢を貫くキルトにアイナが戸から身体を出して近付こうとする。
先を争うように蛙がアイナの足元をすり抜けて工房に入ってきた。
「蛙を入れていいとは言ってないぞ」
「お兄さんグエと喋ってる」
「俺はお前と話してるんだ」
キルトは厳しい顔つきを作って言ったが、アイナは笑顔のままだ。
蛙がキルトの方まで飛びながら接近してくる。蛙はキルトを見上げ、腹から出すような太い鳴き声を漏らした。
「グエ言ってる」
「部品に張り付かれると厄介だから外へ追い出してくれないか?」
キルトは言いつけると、アイナは蛙を真似たように手を床についてしゃがむ。
「グエ。グエ」
「蛙になったつもりなのか?」
「お兄さんも」
「俺はやらないぞ」
キルトは断固拒否して蛙へ歩み寄った。
屈んで蛙の胴を指先で摘まむ。
外へ追い出すために出入り口へ向かおうと思ったが、下から覗き込むアイナの視線を感じて気が咎めた。
アイナへ蛙を突き出す。
「手を出せ」
アイナが言われた通りに掌を出すと、その上に蛙を載せる。
「帰るまで手から逃がすなよ」
「……遊ぶ?」
新しい遊びが始まったとでも思ったのかアイナが期待の目で尋ねる。
キルトに遊びの意志はなかったが、アイナの興味を利用するつもりで頷いた。
途端にアイナの関心が蛙に向く。
「グエ。逃げるダメ」
「そうだ。そのままだぞ」
遊びに参加しているように見せかけてキルトは修理作業に戻った。
キルトは黙々と修理に没頭し、アイナはじっと掌の上の蛙を見続け、工房にはキルトの作業音以外の音がなくなった。
蛙は人懐こいのかアイナの手から逃げることなく、キルトが電子基盤を元の位置に取り付け直せるぐらいの時間が経過する。
自然発生的な静けさに包まれていた工房に、突然出入り口の戸を軽く叩く音が響いた。
ノックの音の後、入るわよと耳に覚えのある女性の声が外から聞こえ戸が開かれる。
「お邪魔……」
グエー、グエー!
不意な音に驚いた蛙が今まで聞いたことないほど大きな声で鳴いた。
アイナが出入り口から入ってきた人物へ身体ごと振り返る。
「お姉さん」
「アイナちゃん。また会ったわね」
急な訪問者にキルトも遅ればせながら顔を向ける。
ヨーカ・ウルシダだった。今日は草色のフレアワンピースに身を包んでいる。
「修理の進捗に聞きに来たの」
「そうか。ちょっと待て」
とりあえず電子基盤の取り付け確認を行おうとした時、特に関連のない蛙がアイナの手から飛び上がった。
パニック状態なのかアイナさえ見たこともないほどの跳躍力で宙を飛び、ヨーカへ急迫した。
飛んでくる物体に気が付いてヨーカがびくりと身を竦める。
「きゃあっ」
「グエー」
ヨーカの短い悲鳴とアイナの蛙を追う声が重なる。
蛙がヨーカの胸の下に張り付き、蛙の後を追ったアイナの両手が蛙を包むようにして覆いかぶさった。
アイナが下から手を当てているせいで、偶然にもヨーカの胸を押し上げる形になる。
「きゃあ、ああ、蛙、蛙が」
「グエ。逃げるダメ」
「ア、 アイナちゃん。蛙、蛙逃がして!」
「逃げるダメ」
「手を退かして!」
「逃げるダメ」
「お願いアイナちゃん。手退かして蛙逃がしてぇ!」
「……」
「そこで無言にならないで!」
焦るヨーカと純粋に遊びのルールを守るアイナ。
キルトは律儀に電子基盤の取り付けを確認してから騒ぎに目を向ける。
数瞬の状況を理解する間を置いて、結局は理解できずに不可解を覚えた。
「何してるんだ?」
「蛙が、蛙がつい……」
「お兄さん。グエ逃げてない」
切れ切れで説明しようとするヨーカの声に被せてアイナが主張した。
訳がわからん。
キルトは腕を組んで二人を眺める。
とにもかくにも仕事の話が出来ないからアイナには離れてもらおう、とキルトは腕組みを解いた。
「アイナ。その手を退かせ」
「グエ。逃げる」
「一度手から逃げた時点でこの遊びは終わりだ」
「……わかった」
キルトが終了を告げると素直に手を退かした。
蛙が張り付いたままのヨーカがアイナへ縋る視線を向ける。
「アイナちゃん。蛙取って」
「遊び終わった」
それだけ返すと、完全に興味なくした様子でヨーカに見向きもしない。
ヨーカの視線はキルトに移る。
「蛙。取って」
「自分で取れないのか?」
「ぬるぬるしてそうで触りたくない」
「そこまで湿ってはいないが、まあいい取ってやる」
キルトは頼みを受けると、ヨーカへ歩み寄り胸の下に張りつく蛙に手を伸ばした。
若干に顔を赤くするヨーカを気にもせず、いささかの躊躇もなく蛙を摘まんでアイナへ差し出す。
「今度は逃がすなよ」
「遊び。続く?」
「そうだ」
キルトが頷くなりアイナは嬉しそうに両掌を上向けた。
蛙を掌に置くと左右の掌を狭めるように谷折りにする。
「取ってくれて助かったわ」
ヨーカがほっと胸を撫でおろしながら礼を言った。
すぐに眉を下げた情けない顔つきになる。
「私、蛙とか蛇とか可愛くない生き物全般ダメなの」
「そうか」
「とてもじゃないけど触れないわ」
「仕事は給食の配膳だったな。衛生上あまり触るべきではないな」
「今の仕事じゃなくても触れません」
「それで、修理の進捗を訊きに来たのだろう?」
キルトは会話を絶ち切って本題に移ろうとする。
ヨーカの目が詰まらなさそうに細められた。
「あなた。仕事以外の会話が嫌いなの?」
「いや。別に嫌いじゃないが」
「なら、ちょっとぐらい話を広げて」
「そう言われても。俺は蛙も蛇も苦手ではないしな」
「苦手じゃなくてもいいの。自分の苦手な物を言うとか、他に苦手な物があるかどうか訊くとか、あるじゃない」
「他に苦手な物はあるのか?」
「もういいわよ。ムネヒサの話をしましょ」
諦めた口ぶりで言った。
苦手な物を知ってどうしようと言うんだ?
疑問を覚えながらもキルトは本題を切り出す。
「ムネヒサの修理状況についてだが、今はまだ動かせる状態にはない。劣化の激しい一部分を型から作った木製に変えたが、命令読み取りから出力までの試験をまだ行ってないうえに配線にも少々直すところがある。時間はまだ掛かりそうだな」
「あとどれぐらい必要かしら?」
「予定通りには済ませるつもりでいる。だが、木製に換えたことによる影響の見通しが完全には立ってない。想像もしていない不具合が起こるかもしれないから、その時は完了予定が伸びるかもしれないが承知してくれ」
「そう。それは仕方ない事かも知れないわね」
「間に合うようには尽力する」
「出来るだけ早くお願いね。ムネヒサがいないと寂しいの」
「修理が終わり次第所在地まで届けてもいいが、可能ならば予定の日にここまで来てくれ。ムネヒサの状態を依頼者本人の目で確かめてもらいたい」
「わかったわ。予定日は明後日よね?」
「ああ。悪いな」
二日後に工房で会う事を口約束すると、途端に沈黙が降りた。
しばらくしてヨーカがムッとした顔でキルトを見据える。
「こうなるから話を広げてほしいの」
「アイナ。何かあるか?」
キルトは場を繋げるためにアイナに水を向けた。
しかしアイナは掌の蛙に意識を注いでおり何も答えない。
ヨーカがアイナを不思議そうに見つめ、キルトに向き直った。
「アイナちゃんってどこの子なの?」
「なんだ唐突に」
不意な質問にキルトは面食らった。
ヨーカはアイナを横目に見ながら質問を続ける。
「あんまり見ない髪色をしてるからどこから来た子なんだろう、と思って。あなたは知らないの?」
「本人からは聞いてないな。森で出会ったからその近辺の集落にでも住んでるんだろう」
「どこの森なの?」
「この近くにある所だ。塗装をするのに染料を作らないといけないからその調達のために時々行くんだ」
「その森でアイナちゃんと出会ったのね。それであなたは何かしたの?」
「つきまとわれるから遊び相手になっただけだ」
「アイナちゃん、その森で何してたのかしら?」
「一人で遊んでいたんだろう。俺と出会った時も一人だった」
「一人だったのね」
キルトの答えを確認するように反芻してから、ヨーカは気掛かりそうにアイナへ顔を向けた。
アイナが視線を感じたのかヨーカを見返す。
ヨーカはアイナの視線から逃げるようにキルトの方へ顔を戻す。
「親は心配してないのかしら。森の中に子どもを一人にするなんてとても危ない気がするんだけど」
「アイナの口ぶりだと、あんまり大切にされてる感じじゃなさそうだった。なんて言ってたかな?」
キルトは森の中でのアイナとの会話を思い返す。
――親は、心配されないか?
――いつも同じ。お兄さんの方がいつも違うから面白い。
いつも同じ。
「確か、いつも同じって言ってたな」
「いつも同じ。どういうこと、それ?」
「いてもいなくても気にされないってことじゃないか。家ではいないも同然の扱いを受けているんだろう」
憶測を口に出すと、改めてアイナを不思議な存在に感じる。
アイナは今までどういう生活を送ってきたのだろうか?
考えようとしたが、他人の家庭の事だ。関係ない、とキルトは思考を振り払った。
「俺が知ってるのはそれぐらいだ。詳しい事が知りたいならアイナ本人に訊いてくれ」
「答えてくれるかしら?」
「どうだろうな。アイナの考えてることはわからないからな」
言って肩を竦めた。
ヨーカが手を口に当てておかしそうに微笑をもらす。
「あなたも意外とアイナちゃんのこと知らないのね」
「人様の事情には首を突っ込むべきではないだろう?」
「それもそうね。私も関係ない人にいろいろ訊かれるのは嫌だもの」
互いに納得し合い、話題に一区切りがついた。
アイナは二人の話を聞いているのかいないのか、両掌の中で動き回る蛙を飽きもせずに眺めている。
ヨーカが毛布の上でうつ伏せに寝転ぶムネヒサへ穏やかな目を向けた。
「もうしばらくムネヒサの事、お願いするわね」
「ああ。任せろ」
「それじゃ、二日後にまた」
ヨーカは微笑を浮かべたまま告げて出入り口へ踵を返した。
工房からヨーカが去ると、キルトはアイナに注意を移す。
「アイナ?」
「なに。お兄さん」
アイナは蛙に意識を集中したまま返事をする。
「面白いか?」
「面白い」
「そうか。ならいいんだ」
本人が楽しいなら干渉しないでおくか。
キルトは蛙で遊ぶアイナを尻目にムネヒサの修理作業を再開した。
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