第55話 選択(5)
トワ達一行とアヌビスはエレベーターの中にいた。
アヌビスは打ち合わせを途中で切り上げ、一行についてくるよう誘った。トワは一刻も早くイツカの所在を問い詰めたいところだったが、周りに人がたくさんいる状況を顧み、九重が黙って頷くのを見て我慢していた。
「図書館の地下一階と二階は閉架書庫、地下三階が大ホール。そして――」
全員無言でエレベーターに入ると、アヌビスはタッチボタンの下にある小さな穴に指をかざす。するとわずかにエーテルの青い光が灯り、エレベーターの扉が閉まる。そして表示には存在しないさらなる地下へと降り始めた。
「うお、秘密基地か!」
「一体何が――」
「あながち間違いじゃないわね」
興奮するハルとウララをアヌビスは笑う。
「イツカくんはどこですか!」
ついにトワが我慢できずに声を荒らげる。
「……そう、全部思い出したのね」
アヌビスはそんなトワを冷たい目で見つめる。その顔からは何の感情も読み取れなかった。
「ああ、あっちの俺のエーテルキャットのおかげらしいな。あんたも全部覚えてるってのか?」
九重が皮肉混じりに言い放つ、その語気には怒りの感情が混じる。
「――ギリシャ神話では冥府にはたくさんの川が流れていて、人は死ぬとそこでレーテー川の水を飲み、全ての記憶を失くすと言われている」
「何を言ってる?」
突然語り出したアヌビスに九重は首を傾げる。
エレベーターはまだ止まらず下がり続けている。一面ガラス張りで、館内昇降中は各階の様子が見えるが、今は真っ暗な地下を降りているだけだった。
「逆にムネモシュネ川の水を飲むと全知を得ることができると言われている」
「……」
全知という言葉にトワはぴくりとする。それは神の目録のことであろうか。
「そう、あなたは神の目録でこの世界の根源たるエーテルの川を見たはず」
「……それが?」
トワは要領を得ないアヌビスの話にいらいらする。
「世界はその川の上に浮かぶ島のようなもので、幾度となく川の水で洗い流され、やり直されている。島の上に住む人々は記憶を失い、島はその形を変える」
アヌビスは構わず話を続ける。エレベーターはさらに下がり続け、耳鳴りがして一行は顔をしかめる。
「しかし川に蓄積された記憶は残り続ける。オリヒコのエーテルキャットがあなたの記憶を今世に運べたようにね」
「……あなたも何度も記憶を継承していると?」
トワはアヌビスを睨みつけて問う。以前話していた魔女の国だの神器だのは妄言ではないということだ。
「そう、私がかつていた世界では魔法司書は魔女と呼ばれていた。人と竜が長い間戦い続けている世界」
「竜……だと?」
九重は一体何の話だと怪訝な顔をする。ハルとウララも同様だ。
「ああ、この世界のあなた達には見せてなかったわね。わたしもこの世界に来て、いや前世の記憶を思い出して驚いた。人と竜の戦いはとうに終わっていたんだから。それでも空想上の生物として竜が描かれるのは忘れている記憶の、エーテルの残滓なのかもしれない」
一行がアヌビスの独り言のような呟きに困惑していると、エレベーターががくんと大きく揺れる。
「さあ、もう着くわ。あなた達にはこれを見てもらいたかった」
暗闇の地中から抜けるとそこは昼間のように明るい空間が広がっていた。
「これは……」
一行は絶句する。ガラス張りのエレベーターの周りには広大な書架が並んでいる。
「地下書庫……にしては広すぎる」
九重は何階層にも渡るその巨大書庫に驚きを隠せなかった。
「って、ウララ! あれ何!」
まだまだ降り続けるエレベーターの向かう先を見たハルが叫び声を上げる。
「えっ? うそ? ビル? いや、町?」
エレベーターを取り囲むように吹き抜けになっているそのさらに下には、ドーム状の巨大な空間が広がっており、その地上部にはいくつものビルが立ち並んでいた。
「ジオフロント? 地下都市? 一体何のためにこんなものを……」
九重は驚きを通り越して呆れ果てた。いくら建築技術の進んだこの時代においても、こんなものを作る意味が全くわからなかった。
「都市部はまだまだ工事中だけどね。上層図書館は八割方完成している。まあまだ本は入ってないけど」
アヌビスは一向の反応に喜びながら、説明を続ける。
「今日の講演会で発表するつもり。魔法司書のための学術地下都市ってとこかしら。何でこんなものを作ったかと言えば、まあ日本の土地の問題もあるけど、地下都市が抱える様々な問題をエーテルで解決できるというモデルケースを示したいというのもある」
「……戦争」
トワは眼下の都市を見下ろしながらぽつりと呟く。それは前世でイツカが危惧したことだ。魔法司書が増えれば非魔法司書との衝突は避けられない。それは今世においても全く問題になっていないわけではなかった。
「……そうね。もしそうなった時に魔法司書を保護する場所が欲しかった。というのは確かにある。けど、敵は人間だけとは限らない」
「……?」
トワの言葉に答えるアヌビスは先程とはうって変わって厳しい表情をしていた。
「それより、イツカさんのことでしょ?」
「!」
アヌビスの言葉にトワは目を見張る。やはりここにいるのかと。
「行きましょう。ここを作ったのはそのためでもある」
そしてエレベーターは図書館内の最下層で止まる。図書館は地下に広がる半球状の空間の天井部に張り付く形になっており、そこからまた別のエレベーターで都市部に降りるようになっていた。
「これは仮設エレベーターでいずれは外壁に螺旋列車を地上まで走らせたいんだけど、まだまだこれからね」
都市部の地上までエレベーターで降りた一行が、まだ真新しい道路を歩きながら、アヌビスが説明を続ける。
都市は至る所で工事の音が響き、まだ建造中の建物が多数あった。作業員が行き交い、アヌビスを見つけた者は軽く会釈していく。
「あと五年以内には人が住めるようにしたいけど、正直厳しいわね。エーテル発電の実用化は間に合う。けど空調が……ただ空気を外界と循環させるだけなら難しくはないけど、それだけでいいものか……未曾有の災害に備えるのは難しい」
ぶつぶつ言いながら先頭を歩くアヌビスに、後に続く一行は建設中の町の様子に驚くばかりだった。
「ここよ」
しばらく歩いた後到着した先には巨大な研究所のような建物があった。周りの建設中の建物と違い、既に工事は終わっているようで、入口に守衛所まであり、制服を着た警備員が厳重に配置されていた。
「……いる。でも……」
トワはその建物の中から確かにイツカの気配を感じ取っていた。
「ええ、十年前、上の図書館の大ホールでわたしは相馬イツカ、いや聖典を手に入れた。しかしこちらの世界ではまだ受け入れる体制が整っておらず、因果を止め続ける結界を用意できなかった」
「どういうこと?」
一行は中に入る。中は病院のような様相で、一面真っ白な壁が続いていた。何十ものセキュリティドアを抜けると、やがて建物の中心部となるフロアに行き着いた。
「なに……あれ……」
「エーテルの……渦?」
ハルとウララがそれを見上げて絶句する。
建物の天井まで吹き抜けとなっているそのフロアの中央中空には、巨大なエーテルの渦が大量のエーテルを振り撒きながら渦巻いていた。
「これは……まさか!」
渦を取り囲むように鉄骨で組まれた階段を登り近づくと、九重がその正体に思い至り、声を荒らげる。
「そう、聖典よ。十年前、この世界に現れてから、ずっと神の目録が開きっぱなしになっている。今はわたしのエーテルキャット、ネフティスを全て使い抑え込んでいる。もう前世で作った結界と同じものでは止めることができないから」
「……イツカくん?……いや……いない?」
トワはそれを見上げてぽつりと呟く。イツカの気配は感じる。だがその意志のようなものを感じることができなかった。
「聖典の本体は今も結界の中で静止しているはず。だからイツカさんの意志が動いているかはわからない。もしかしたらこの世界には存在していないかもしれない」
「……」
トワは見上げたまま黙って聞いていた。イツカ本体の赤い本から神の目録の扉が開きかけ、そこから因果の奔流が溢れ出そうとしているのをネフティスが抑え込んでいる。そう見えた。
「トワさん、あなたならこれを閉じることができるはず」
「!」
アヌビスはトワを見つめて言い放った。トワは信じられないといった顔で目を見開く。
「おい、彩咲に何をさせる気だ」
その様子が尋常ではないことに気が付いた九重が口を開く。
「或いは、全て解放することも」
そしてアヌビスは続けた。イツカと因果が繋がっているトワにならどちらも可能だった。
「すると、どうなるの?」
何やら深刻な話が進んでいるようで、剣呑な空気が漂い始めたのを察したハルが問いかける。
「さあわからないわね。世界が吹き飛ぶかも」
アヌビスは悪戯っぽい笑みを浮かべてそれに答える。
「トワちゃん! もう帰ろう!」
ウララが渦を見上げたまま硬直しているトワの肩に手をかける。その瞳が真っ赤に燃えているのを見て、何か良からぬことが起きる予感がしたからだ。
「『前に』言ったわよね。嫌でも選ぶことになると。だから私が作る魔法司書の認められた世界を見てもらった。九年間この世界を生きてみてどうだった? その上でこの世界を残すか壊すか選んでほしい。私は何もしない」
アヌビスはトワに問いかけた。その顔は真剣で本心であると、その場にいる誰もが信じられた。
「……」
だがトワはそんなアヌビスの言葉をどこか冷めた気持ちで聞いていた。元はと言えば彼女が勝手に始めたことだ。知ったことではない。自分はただイツカを取り戻すだけだ。
トワは躊躇なく右手を渦に向けて伸ばそうとするが――
「トワッチ!」
「トワちゃん!」
「彩咲!」
三人が一斉に呼びかける声を聞いて。その手をぴたりと止める。
「……っ」
三人の顔を見てトワは苦悶の声を漏らす。九年間この世界で生きてきた経験と関係が一気に頭の中を駆け抜けた。それは手を止めるには十分すぎる重さだった。
ここまで見越して九年間もこの状態を維持しながら魔法司書のための世界作りに尽力したというのなら、七星アヌビスは正真正銘の大悪党だ。
「……少し、考えさせてくださ――」
トワが苦悩の末、断腸の思いで答えを保留にしようとし、アヌビスが勝利を確信したように不敵な笑みを浮かべた瞬間、一行の足元を何かが駆け抜けた。
「にゃー!」
その猫――デューイはトワの肩に飛び乗ると、そこからエーテルの渦に向かって迷うことなく飛び込み、その姿を消した。
「デューイ!」
トワは腕を引かれるように渦に向かって手を伸ばし、鉄骨から身を乗り出した。
一行が呼びかけるよりも早く、トワの身体はエーテライズされたように青白く光り、そして霧散して渦の中に吸い込まれていった。
「そんな……うそっしょ……」
「トワちゃん……」
「彩咲……」
呆然とその場に崩れ落ちる三人とは対照的に、アヌビスは苦虫を噛み潰したような顔で、変わりなく渦巻く聖典を見上げた。
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