第51話 選択(1)

 これは夢だ。いやこれから起こる過去の現実だ。


 紫苑女子大学中央図書館。数年がかりの改築が終わり、ようやく全ての準備が整った。

 開館を明日に控えた夕刻、誰もいない館内を巡り、地下の大ホールへと向かう。

 今日ここで最後の、いや最初の仕上げを始めるのだ。


「おつかれー」

 ホールの最前席から声が聞こえてくる。私と同じ高等部の制服を着た少女が手を振りながらこっちを見ている。

「……やはり、邪魔しにきたか」

 私は眉間に皺を寄せて苦々しく応える。こいつはいつも逃げ回ってるくせに、肝心な時には最高に最悪な方法で邪魔してくる。

「えー? そんなことしないよー。せっかくだから見とこうと思って」

 少女は両手をわざとらしく振って笑う。本当に調子が狂う。

「……私が作る世界なんて取るに足りないと?」

「いいや、良いと思うよ。魔法司書のための世界! 魔法司書委員会だっけ? ずっと言ってたやつ」

 そう、こいつは私が何度誘っても断り続けている。その才能を持て余しながら。

「だって私にできるのは人一人救うくらいだもん。それだって上手くやれたか自信ない」

「その結果、歪んだ世界が生まれ、魔法司書に目覚めた多くの子らが苦しむことになる。無責任だと思わないの?」

「可能な限りフォローはする――したはずだけど。あなただってこんな回りくどいやり方

せずに、神の目録を直接開くこともできたはず」

「……それは」

「そうするとあの子が無事では済まないからでしょ? そこは本当に感謝してるよ」

「……あなたがそこまであの子に拘る理由はなに? あの人の娘だから? 本当にそれだけなの?」

 こいつがあの人に異常に過保護なのは今に始まった事ではない。それは私達が目覚めてから特に顕著だった。

「それはあの子が――おっ、そろそろみたいよ」

 舞台の中央中空が光り出し、そこから青いエーテル粒子が溢れ出す。そして赤い本がゆっくりとその姿を朧げに映し出していく。


「本当に邪魔しないのね」

 私は舞台へ上がり、その本――相馬イツカになるはずだったものを手に取る。この世界にエーテルが、魔法司書が解き放たれた瞬間だ。

「言ったじゃん。それに私はもうどの世界にも存在しない。今日会ったこともすぐ忘れるよ」

 そう言うと相馬ケイは舞台から飛び降り、ホールの出口に向かって歩き出した。


「じゃあね七星アヌビス。あなたの作る世界を楽しみにしてる。でもあの子は手強いから覚悟しといてね!」

 そして振り返ると、満面の笑みを浮かべて手を振った。


 その揺れる手を見つめて瞬きした瞬間、私は自分の手に持った赤い本がわずかに光った気がして視線を落とす。

 そして見上げるとホールにはもう誰もいなかった。

 何か今気に入らない夢を見ていた気がするが、思い出すことはできなかった。


「さあ、ここから始めるわよ」

 私はようやく手にした世界を変える本――聖典を携え、魔法司書のための世界を作るまでの膨大な計画に胸を躍らせるのだった。



 十月の最終週の日曜日の朝、紫苑中高大合同の文化祭『紫苑祭』の二日目が始まろうとしていた。天気は昨日と同様曇天で、やや肌寒い。


「ほら、トワ。もう起きなさい。今日も早いんでしょ?」

 彩咲家のトワの部屋、エプロン姿のクオンがまだベッドで眠りこけている娘の肩を揺さぶる。

「ふぁい」

 トワは寝ぼけ眼で生返事をすると、むくりと起き上がり、着崩したパジャマのまま洗面所に向かう。

 父エイゴウが慌ただしく玄関から出勤していくのを見送りながら、トワは洗面所で顔を洗い、歯を磨きながらぼんやりと昨日のことを思い出していた。


 午前に二回、午後一回のエーテライズ教室、特に問題なくこなし、そして図書委員の二人と出た演奏会。今日はもっと上手くやろうと思うのだった。心残りなのはクラス展示をほとんど手伝えなかったことくらいか。

 魔法司書課程の特待生として中等部に飛び級編入したトワだったが、勉強の方は追いつくので精一杯なので、クラスメイトには大分迷惑をかけてしまっている。


 制服に着替え、朝食を終えるとトワは鞄を持って家を出た。

 マンションを出て、いつも通りに靖国通りを歩く。ここもこの十年で大分様変わりをした。古書店が並ぶのは変わらずだが、魔法司書の研修所や講習所が増えた。ここまで多いのは世界的にも珍しいらしい。

 十年前、日本図書館協会の司書、七星アヌビスが提唱したエーテル理論が発表されるや否や、世界中からエーテライズ能力に目覚める者が現れ始める。

 初めは世界中が混乱したが、それも一年ほどで収束する。それも七星アヌビスが日本魔法司書協会を発足し、世界中の図書館、乱立する魔法司書組織をまとめ上げていった功績によるところが大きい。


 今では誰でも講習を受ければエーテライズ技術を身につけることが可能になったのだ。


 もちろん無差別にエーテライズが許可されているわけではなく、使用には資格が必要で、公共の場のほとんどではエーテルを抑制する機器が設置されているので、かつてのような混乱とは無縁の状態になっている。

 またエーテライズ技術は多様な分野への応用にも期待され、エネルギー問題に、ゴミ問題、地球温暖化にまで、様々な用途への活用がここ数年で始まりつつある。

 まさに世界はエーテルによって変わろうとしていた。


「さてと――」

 トワは一軒の古書店の軒先にある木の長椅子に座り、右手に力を込める。

 するとぽんっと軽い音が鳴り、赤い本が浮かび上がる。彼女のエーテルキャットだ。

「道草食ってて大丈夫か?」

 本を開き、今日のスケジュールを確認していると、後ろから声をかけられる。

「おはよう。キクヲおじいちゃん」

 トワは振り返ると、その老人に挨拶をした。この柳葉書店の店長だ。

「ああ、おはよう。今日も学園祭か?」

 開店準備をしながらキクヲは話しかける。

「うん。でも昨日とやることは同じだから。へいきへいき」

 キクヲとは母クオンが学生の頃からの付き合いで、トワもこの町で生まれた時からの馴染みだ。初めてエーテライズを見せた時には驚かせたものだった。

「ウララのことよろしくな」

「わたしなんかよりずっと上手だよ」

 キクヲの孫娘の柳葉ウララもまた、生まれて間もない頃よりエーテライズが使え、すぐに魔法司書協会の指導の下、資格をいち早く取得している。神社の手伝いもしており、御朱印式と呼ばれるあらかじめエーテライズ起動式を込めたお札を用いたエーテライズは、エーテライズ初心者にも重宝されている画期的な発明である。


「ハルちゃんもいるし」

 トワは大通りを挟んだ向かいの高層ビルに掲げられた看板を見上げる。

 そこにはファッション誌の表紙を飾る片桐ハルジオンが描かれていた。彼女もまた幼い頃よりエーテライズが使え、読者モデルをしながら魔法司書協会の広告塔の役割も担っている。その動画配信のハルチャンネルは特に小中学生女子から絶大な支持を得ており、魔法司書志望者の増加を大きく牽引している。


「あの子らもすっかり時の人だな」

「すごいよね」

 ハルとウララは共に紫苑女子中学に通っており、トワもそこで出会い、すぐに打ち解けた。図書委員の仕事だけでなく、魔法司書協会の手伝いもおこなっており、今回の紫苑祭でのエーテライズ教室もその一環だ。


「そろそろ行くね――あっ」

 トワは時計を見て立ち上がると、何かに気が付いて思わず声を出す。

「どうした?」

「今そこに猫いなかった?」

 トワは歩道の隅の電柱の影を指差す。

「いいや、ここらじゃ猫なんて見ないな。トワちゃん家の猫じゃないのか?」

「えっ? うちは猫なんて飼ってないよ?」

 キクヲは思い出したように尋ねるが、トワは不思議がって首を傾げる。

「ありゃ、そうだったっけか? 昔からいたような気がしたが。はて?」

「ウララちゃんのウカじゃない?」

 トワは言いながら自分もわずかに違和感を覚えた。猫を飼ったことはないが、とても身近な存在に思えた。


「猫に限らず、昔は東京でもたくさん鳥が飛んでたんだがな。今じゃ全く見なくなった」

 キクヲは空を見上げて何気なく呟く。

「そうなんだ」

 トワも釣られて空を見上げる。鳥なんて実物は見たことがなかった。

 世界がエーテルで沸き立つのと同じ頃から、世界中の鳥達が変死する事件が起こっている。エーテルとの因果関係は不明だが、今では多くの種が絶滅の危機にあった。

「なんか悪いことの前兆じゃなきゃあ、いいんだがな」

 キクヲのぼやきに、トワは何も答えられず黙って空を見上げていた。

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