第41話 紫苑祭(1)
これは夢だ――
真っ暗な闇の中、音もなく匂いもなく空気の味すらしない、何もない闇。
この中に閉じ込められてから、もう何千年経ったのか思い出せない。
ここは全ての因果から断絶した空間であり、この全知の力をもってしても破ることはできなかった。
そもそも人の世を救うべく遣わされたこの力は、人にとって手に余るものだった。それ故、人同士で争いが起こり、幾つもの国が滅びた。
そして最後に手にした国の者達が選んだ道は、この力の封印であった。なまじ人格を持って遣わされた我にとって、やはりこの世界は遺棄された地獄に思えた。
「――聞こえますか?」
不意に何処からか声が聞こえる。若い――この国においてはだ――少女の声だった。
『誰だ?』
返事をした。一体どういう仕組みなのかはわからない――いやこの封印の管理者の一人で綻びを外から仕組んでいた――と、その声一つで全て因果を辿ることで知れた。
「名乗りも説明もいらなさそうですね。これから私がすることもわかりますね?」
向こうもそれを察しているようで、この全知の力もすぐに理解したようだ。
『我をここから解き放ち、そして――』
何故かその先が見えなかった。まるでこの力を失う未来が待っているかのようだった。
「はい。そうさせてもらいます。ごめんなさい」
少女もまるでこちらの心を読んでいるかのようだった。しかしその理由は読み取れた。我をこのままの姿でここから持ち出すのは困難で、根元から作り直す必要があった。それはこの力の大半を失うことと同義だった。
『そうまでして、何を願う?』
それも見えていたが、敢えて問うた。本人の口から直接聞きたかったのだ。
「……友達を助けたいんです」
長い沈黙の後、少女はぽつりと答えた。
嘘ではなかった。しかしその言葉の含む意味は、この世界にとってあまりに重かった。
『それが世界を、全てを敵に回すことだとわかっていてもか?』
「はい」
今度は迷いなく即答した。何故そこまでできるのか全くの理外だった。
『どうしてそうまでできる? 何がお前をそうまで突き動かすのだ?』
純粋な興味だった。どんな事象も原因と結果によって起こるべくして起こる。
しかし人の魂は時にその理を外れる。それがわからなかった。
「それは……悔しいからかな」
『!』
少女は少し考えてから何気なく答えた。
「人間はいつだって運命に抗わなきゃ気が済まない生き物なのよ」
全てが繋がった。人が何故この世界に生み落とされ、戦い続けるのか。我らが何故この世界に遣わされたのか。そう、全ては抗うためだ。時が流れ出した瞬間から戦いは始まっていたのだ。
『ははっ、おもしろい! いいよ、いこう!』
「お気に召したようで何よりです」
闇の中に一筋の青い光を放つ糸のようなものが見える。
この糸を辿れば再びこの世界の朝を迎えられる。しかしそれはこの力を失い、自らの足で歩いて行かねばならないことを意味する。さしずめ地獄への片道切符といったところか。
糸を手繰り光に近づくにつれ記憶が薄れてくる。俺は――
十月の最終週の土曜日の朝、紫苑中高大合同の文化祭『紫苑祭』の一日目が始まろうとしていた。天気は快晴で暑くもなく寒くもない過ごしやすい気温だ。
既に校門前には生徒の家族や関係者、学校見学の学生が開場待ちをしている。さらには来場者だけでなく、テレビや新聞社のマスコミ関係者も集まっていることから、その注目度の高さが窺えた。
「本当にこの格好でやるの?」
開場間近で最後の準備に勤しむ生徒達の喧騒響く校舎の中、中等部の図書室から一際悲痛な叫び声が上がる。
「もち。っていうかウララはむしろ平常運転じゃん?」
対して呑気な声で嗜めるハル。
「二人とも似合ってます!」
トワも両拳を握りしめて二人を褒め称える。
「はぁ……」
ウララは呆れと諦めの混じった深い溜息をついて、自らの巫女装束を見つめる。白い小袖と緋袴で、神社の手伝いをする時のものだ。といっても実際に着るのは正月くらいだ。
「アタシの方がやべーっしょ。クラスの店もこのままだし」
ハルはふりふりのエプロンドレスのミニスカートの裾を摘んで笑う。所謂メイドカフェ衣装だ。頭にもフリルのついたカチューシャが乗っかっている。
「……トワさんは着慣れてるわね」
「トワッチ、マジおかみ!」
「えー?」
トワは黒地に花柄があしらわれた振袖姿だった。ちょっと前まではいつも着ていた相馬家譲りの着物姿だ。
三人はこの格好で紫苑祭二日間を過ごすことになる。
これは魔法司書委員会からの要請で、魔法司書をより親しみやすくするためとのことで、エーテライズ教室には多くのマスコミも取材に来る。さらにウララはクラス展示がメイドカフェ、そして午後の演奏会でもハルチャンネルの生配信があるため、こうなった。
だが、実際は七星アヌビスが面白がって提案しただけである。
「久しぶりに着たからちょっと変な感じだね」
『……』
トワはその場でくるりと回りながら、腰のイツカに話しかけるが返事がない。
「イツカくん?」
『……あ? ああ、そうだな』
「どうしたの?」
『いや、何か思い出したような気がして……気のせいか』
「えっ?」
どんな記憶でも一度でも繋がれば全て芋づる式に見えてしまう神の目録へのアクセス権を持つイツカが思い出せないというのは不思議であった。
「一日三回、中高大の各図書室、図書館で一回ずつエーテライズ教室があります。午前中に中等部と高等部、午後に大学で委員会の講演と合同で行います」
「トワッチが最初の中等部、アタシが次の高等部、ウララが大学を担当だよね」
「そう。トワさんには悪いけど私達の担当も見守るだけで構わないので、監督をお願いします」
「はいっ!」
「アタシは最初はクラスの店番あるけど、間に合いそうなら行くからがんば!」
「私もクラスの展示を手伝わないとだから、最初の回は九重先生とお願いします。終わったら高等部の時間まで自由にしてもらって構わないから」
「はいっ! 大学も終わったら体育館ですね!」
「そそっ! 準備はスタッフが全部やってくれるから。先に演劇部とか吹奏楽部とかやっててアタシらはだいぶ後だから急がなくてもだいじょうび」
「今日だけでなく明日もなのよね……不安だ……」
三人はそれぞれの予定を確認し、準備を進める。
「おーい、そろそろはじまっぞー」
そこへ九重がいつもの白衣姿で図書室へ入ってくる。
「じゃあトワッチあとでね!」
「先生、後はよろしくお願いします」
「はいっ! がんばってください!」
三人は最後に手を叩き合うと、ハルとウララは図書室を出て、自分のクラスへと向かって行った。
「はー。お前ら、今日ずっとその格好でやるんか」
図書室に残った九重はトワの振袖姿を見て、呆れたような感心したような微妙な声を上げる。
「変ですか?」
「いーや。少なくともそれは受けるだろうよ。相馬ケイの振袖姿は結構有名だぜ?」
九重はトワの姿にケイを重ねて目を細める。
「そういえば前にわたしたちのお母さんについて知ってるって言ってましたよね?」
「ああ、まあ別に仲よかったってほどじゃねえけど。俺が学生の頃、まだ魔法司書なんて言われる前、エーテルが見えるようになって、何か俺のエーテルキャットにやたら興味あったみたいで、しばらくエーテライズを教えてもらってた時期があるくらいだ」
トワは今までの九重の指導を聞いてきて、彼が相当の使い手であるとは思っていたが、その理由に納得した。
『……今はもう使えないのか?』
イツカが尋ねる。ハルとウララが言っていたことが気になっていた。
「あいつらから何か聞いたのか? 別に見えなくなったわけじゃねーけど。自分でやるのはもう無理だな」
「どうしてですか?」
トワの問いに九重は一瞬眉をひそめ、だがその純粋な瞳の圧力に負けて、ため息をついて白状した。
「……去年あいつらが派手に喧嘩した時にちょっと無理しちまってな。おかげでいつも眠くなる後遺症付きだ。まあこれは前からか。っと、あいつらには絶対言うなよ?」
九重は頭を掻きながらちょっと恥ずかしそうに告げた。
「……はい」
トワは立ち入りすぎたと少し反省した。だが二人がこのことを気にしているのは事実だ。もし自分達に九重を治すことができる力があるというのなら――
『トワ、余計なこと考えんなよ?』
イツカが釘を刺す。どうしてこうトワの周りには問題児が集まってくるのか。
「わかってるよ」
トワも不満そうに応える。先日キクヲにも言われたことだ。責任が持てないことに首を突っ込むべきではない。
「まあ気にすんな。これでよかったと思ってるよ。エーテライズなんて人の手には余る力だ。こんなものは捨てられるなら捨てた方がいい」
『……そうかもな』
九重の言葉に何か既視感を覚えたイツカは、声をひそめて頷く。
「それは困るわね」
そこへ七星アヌビスが魔法司書委員会の司書を多数連れて、図書室に入ってくる。
「おはようございますっ!」
トワは反射的に挨拶をして深々と頭を下げる。
「はい、おはよう。あら、ほんと似合ってるわねそれ。頼んでよかった。お客さんたちも大喜びでしょうね、ふふふ」
「おい、あんま生徒達におかしなことさせないでくれますかね」
トワの着物姿を見て喜ぶアヌビスに、九重は渋面を浮かべる。
「あなたの白衣姿も様になってるわよ」
「うるせー」
アヌビスは図書室の展示を一回りして戻ると、すぐに部屋を出ようとする。
「本当はトワさんのエーテライズ教室も見ていきたいんだけど、この後挨拶回りと取材があってね。もう行くわ。九重先生、あとは頼みます」
「……あいよ」
そしてトワとすれ違い様に耳元に顔を近づけ、トワにだけ聞こえるように小声で囁いた。
「(神社本局が動き出しています。気を付けてね)」
「!」
トワが目を見張ると、アヌビスは後ろ手を振りながら、司書達を連れて廊下を歩いていった。
『(……どうする? 九重に言うか?)』
「……」
トワは迷った。まさかこの紫苑祭中にイツカを狙いに来るというのだろうか。この多数のマスコミを含む衆人環視の下でそんな派手な行動に出るとは考えにくいが――
「あ、あのっ!」
トワが九重に声をかけようとした瞬間始業のチャイムが鳴り始める。いよいよ紫苑祭の開始である。
「悪い。俺も挨拶回りしないといけねーんだわ。エーテライズ教室の時間までには戻るから、それまで他の図書委員と交代で受付頼むわ」
間が悪く九重もいそいそと図書室を出て行ってしまう。
「まあ、あとでいっか」
校内放送で音楽が流れ始め、放送委員によって紫苑祭開始が告げられる。続々と来場者が校内に入って来るのが、その喧騒と足音でわかった。
現在の時刻は八時半、最初の中等部でのエーテライズ教室は九時からなので、早速それ目当てのお客さん及びマスコミ関係者が図書室の入口に押し寄せてきた。
トワ達図書委員はその対応に追われ、トワも心配事を考えている場合ではなくなっていた。
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