第37話 七星アヌビス(3)
「今日この後、大丈夫?」
校舎を出て靖国通りに向かう途中、ウララがハルとトワに尋ねる。
「おごってくれるならー」
「はいっ、だいじょうぶです」
「はいはい後でね。ちょっと御茶ノ水まで行ってベースの弦を買いたいんだけど」
たかる気満々のハルをあしらいながらウララは提案する。
「あーそろそろ替えた方がいいかもねー。アタシも買おっと」
「楽器屋!」
納得至極のハルと、興奮して目を輝かせるトワ。
「そんな行きたい?」
「はいっ!」
想像以上の食いつきにウララはちょっと驚いた。
『そういや行ったことなかったな。こんな近いのに』
イツカもトワがそんなに興味を持っていたことにちょっと意外に感じた。御茶ノ水は神保町から歩いていける距離だが、行ったことはなかった。
「この前、ハルチャンネルでやってたお店行ってみたいです!」
「おっ、なるほどなるほどあそこかー。おけおけ行ってみようか!」
「ああ……あの放送事故回か……」
ノリノリのハルに、苦渋の表情を浮かべるウララ。
「あの時のカメラ回してたのウララだよ」
「えー! じゃあたまに名前出てくるウーさんって!」
「そうそうこいつー」
「こらっ! それ秘密でしょ! いいっ? 彩咲さん! 絶対秘密だからねっ!」
「えーどうしよっかなー。普通にいっしょにやればいいんじゃ――」
「だめよ! あんな恥ずかしい番組!」
「どうせ文化祭でバラすつもりだけどね」
「ちょっと!」
かしまし三人娘、靖国通りを渡り、明大通りをお茶の水に向かって歩きながら、乱痴気の花を咲かせるのであった。
東京神田の御茶ノ水といえば、国内最大の楽器店街として有名である。
元々大学が立ち並ぶ学生街で、そこに目をつけた当時浅草で創業した谷口楽器店が一九四一年に明治大学横に移転、また戦後に進駐軍が払い下げた楽器を下倉楽器店が取り扱ったことが発端と言われている。
その後六〇年代のエレキブーム、七〇年代のフォークブームと徐々に店数が増えていき、九〇年代のヴィジュアル系バンドブームで一気に増えたという。
「楽器店が多いと言っても、みんな専門分野を住み分けることで共存してるのよね。そこは神保町の古書店街に近いかも」
「初心者も安心の総合店もあれば、チョー高いヴィンテージ扱う店もあるってわけ」
「なるほど」
三人は店を梯子しながら見て回る。トワにとってはどこも新鮮な驚きで満ちていた。
壁にかけられて並んでいるギターはどれも大きく見え、お値段も数万円のものもあれば、奥には目玉が飛び出るほど高いものもあった。
「楽器は中古で逆に高くなったりするからねー」
「まあ今日は弦買うだけだからどこでもいいんだけどね」
ハルとウララは興奮して店の中をうろうろするトワを見て笑う。
「さわってみますか?」
そこへ若い女性店員が慣れた様子でトワに忍び寄り、不敵な笑みで悪魔の囁きをする。
「はっ、はい! おねがいします」
トワは棚にかけてあったそこそこのお値段のアコースティックギターを手に取り、足を乗せるフットレストのついた演奏用の椅子に腰掛ける。
「おっ、お客さん意外といける口ですか?」
「いいえっ! ぜんぜん初心者ですっ!」
そんなやりとりを見てハルとウララはにやにやとほくそ笑む。
実は朝活でトワも少しギターの練習を始めているので、全くの初心者ではない。ギターの演奏は指の力加減で音を変化させる。それはエーテライズでエーテルを操作する感覚に近い。というのが指導するハルの所感である。
「いきます」
そしてトワもそれには同意で、音楽はエーテルの波と言ってもよく、それが楽器に染み込むことで美しい記憶を残すのだ。このギターも触れれば触れるほど指先からこれまで使ってきた人々の記憶やら弾いた曲やら聴いた人々の喝采やらが頭の中に流れてくるのがとても気持ち良く病みつきになるほどで――
「彩咲さん!」
「トワッチ! はなぢ! はなぢ!」
「え?」
気がつくとトワはギターを抱えたまま忘我で呆けていた。そして鼻から血がつうと流れていた。
「お客さん!」
店員が慌ててトワを横にして一同が駆け寄る。
幸いお高いギターに鼻血は落ちなくて全員安堵するのだった。
駅前から少し外れた路地裏、人通りは少なく閑散としていた。
薬局の前がちょっとした広場になっており、垣根の横に並ぶベンチに、トワはウララに膝枕されて横たわっていた。
「ハルが今飲み物買いに行ってるから」
「ふぁい、すびばせん」
鼻にティッシュを詰めたトワが鼻声で応える。
あの後店を出た一行はトワを横にすべく、こうして休んでいた。
「こういうことはよくあるの?」
ウララは呆れたような、しかしどこか楽しそうにトワの腰のイツカに話しかける。
『……そんなことないけど、最近はちょっと過敏かな』
イツカはほんのり言葉を濁して言った。トワも神の目録に直接触れて以後、少し反応が過剰になっているのは事実だった。トワの身体は元々イツカの身体でもあったため、繋がりが切れていない感覚は常にあった。
「……まあ実は私も昔から結構見える方でね。こういうことあったかな」
「えっ」
ウララはトワの髪を優しく撫でながら話し始めた。
「もちろんまだそれがエーテルとか魔法司書とか全然知らなかったころ。周りの子や大人達には見えてなかったから、幽霊とか妖精的なものなのかなと子供ながらに思ってた」
「……神社のお手伝いってのも」
「そう、何か役に立つかなって。まあ全然関係なかったんだけど。見えますって言ったって誰も信じないじゃない? だから私も結構変な子と思われてて、それでもう色々面倒臭くなっちゃって。そんな時、ある人から言われたことがあって――」
「……」
トワは自分のことを顧みた。自分も昔からエーテルは見えていた。だが周りの大人達には理解があった。これがどんなに幸せなことなのか改めて思い知らされた。
「これはエーテルと言って、これが見える子は特別な力を持った子。だから誇りに思っていい。これからどんどんこの力を持つ子は増えていく、その子らがあなたと同じように周りから虐げられることがあったら、あなたも助けてあげてって」
ウララは話しながら自分に言い聞かせるようにその言葉を噛み締めていた。トワはそれを黙って聞いてた。
「そしてこの学校を勧められた。きっと同じ仲間が見つかるって。それでハルと九重先生と出会ったってわけ。彩咲さんがエーテライズでお父さんの日記帳を直したってお爺ちゃんから聞いたのも、私が魔法司書を目指すと決めてから」
「そうだったんだ……」
トワは聞きながら色々な人が魔法司書によって生き方を変えてきたことを実感した。オルラトルで出会った人達もこの学校で出会った人達も、そしてこれから出会う人達もきっと――
「だからずっと彩咲さんにお礼をしたかったんだけど。何がいいかな?」
「えっ?」
ウララは顔を下に向けてじっとトワを見つめる。トワは突然のことで面食らうが、すぐにずっと気になっていたことを口にした。
「じゃあ、まずその彩咲さんってのをやめて、トワって呼んでください!」
「えっ」
今度はウララの方が面食らって目をぱちくりさせる。
「えっと、そんなことで――いいの?」
「はいっ、ウララさん!」
トワは満面の笑みで応える。それがあまりに無邪気だったのでウララは逆に恥ずかしくなる。
「じゃ、じゃあ……トワ…………さん」
「はいっ!」
顔を真っ赤にして消えそうな声で呼びかけるウララに、トワは真っ直ぐに応えた。それがあまりにも眩しくてウララはついに恥ずかしさで両手で自らの顔を覆う。
『あー、お邪魔して悪いんだけど、その話に出てきたある人って誰か教えてもらえる?』
硬直するウララと、にこにこしているトワで、何とも言えないお花畑な空気が流れ出したところで、イツカが居た堪れなくなって声をかけた。
「へえっ? ああ! それ! その人ね! えっとそれが今度――」
「ああー! 勝手に仲良くなってる! ウララずるい! ずるい!」
そこへどう見ても飲み物以外も色々詰め込んだ派手なマイエコバックを抱えたハルが、大声を上げて駆け寄ってくる。
「べ、別にふつうよ! ふつう!」
「いいや! ラブのオーラを感じたね! アタシというものがありながらキー!」
ハルは負けじとウララの膝上からトワを奪い取り抱き締める。
「もうだいじょうぶ? トワッチ!」
「は、はいっ」
トワは鼻に詰めたティッシュを抜くと、もう血は止まっていることを確認する。
「はあ……もういいわ。じゃあどうする? 弦は買ったし、今日は帰る?」
ウララは立ち上がるとやれやれと溜息をつく。
「ええー? まだ奢ってもらってないんだけど?」
ハルはトワに顔をすりすり擦り付けながら不満げな声を上げる。
「ええっと、わたしもまだだいじょうぶです!」
トワも醜態を晒した汚名を返上すべく拳を握りしめる。
「くっ! わかったわよ。ラーメンでいいわよね」
その健気な姿に再びよろめくウララは、観念して二人を連れ出す。
「ウララはいつもラーメンばっかだよ。神田と言ったらカレーなのにね」
「そうなんだ」
「はあ? ラーメンだって有名店多いんだから、これからいくとこも坦々麺が美味しくてね――」
トワを挟んでハルとウララは言い合いながら、三人は再び御茶ノ水の雑踏の中へと進んでいくのであった。
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