第20話 重なる世界(8)
「これは――」
「すごい……」
時計塔の中に入った二人は、まずその異様な光景に言葉を失った。
辺り一面青い光に包まれ、エーテルの粒子が長い川のように波打ち、塔の根元から中央の螺旋階段に吸い込まれるように上方に向かって流れていた。
「一体どこからこんな大量のエーテルが……」
「……これ、町の記憶だ」
エメリックの問いにトワがゆっくりと一つ一つ確認するように答える。その指がエーテルの波の中に触れている。
「大丈夫なんですか――? っつ!」
真似して指先で触れてみた瞬間、エメリックの頭の中に膨大な記憶が流れ込み、堪らず声を上げる。
「な、なるほど、町中からここに吸い集めてるのか――」
一瞬触れてみただけで、その流れの正体が嫌でもわかった。このエーテルは何かを分解したものではなく、おそらくオルラトルの町の中にある空気とも言うべきものが結晶化したもので、そこには膨大な時間と空間、人々の記憶が凝縮されていた。まさに町の歴史そのものと言っていい。
「これを集めて、神の目録の扉を開こうというわけですね。――そう、思い出した。あの時も同じだったんだ」
そして九年前の実験を思い出す。あの時もケイは図書館の書庫にあった古い大量の町の資料を使って神の目録を開こうとした。きっとそれが必要なのだ。
「……待ってる」
トワはエーテル渦巻く上層を見上げながら呟く。その瞳はエーテルの青い光に反射して酷く無機質なものに見えた。
「トワさん?」
エメリックはそこに違和感、先日リサの古書店で戦った時に彼女が見せた冷淡さを感じた。
そして螺旋階段を黙々と上り始めたトワの後を追いかけていく。
ゆっくりと回る歯車の重い音とエーテルの流れる澄んだ音が、上に行くにしたがって大きく、そして濃くなっていく。
「くっ……」
エメリックは堪らず立ち止まる。触れるエーテルから次々と町の記憶が頭の中に流れ込んでくるのだ。どうにかなってしまいそうだった。
そしてついに時計塔の最上階の踊り場に到着する。
「!」
トワに遅れて辿り着いたエメリックは目の前の光景に絶句する。
踊り場の中央の中空に一冊の赤い本が開いたまま浮かんでいる。イツカだ。
そしてその周りに階下から流れてくるエーテルの波が渦巻くように脈打ち、イツカの中に吸い込まれている。
「……」
その前に立っているトワは無言でイツカに手を伸ばそうとする。
「トワさんっ!」
エメリックは不意に呼び止める。何か嫌な予感がした。このまま彼女の好きにさせてはならないと直感した。
トワは手を止め振り返るが、その顔は無表情で、何の意思も感じられなかった。
「はやく、かえしてあげないと……」
そして淡々と、やはり何の感情も感じさせない声で呟いた。
「――かえす?」
「イツカくんをあっちへ……」
トワの言葉にエメリックは怖気を感じた。まるで何かに操られているかのようだった。
その言葉の意味、イツカを神の目録の向こうへ、ケイの元へ還すということなのだろうか。
「待ってください!」
だがエメリックは食い下がり、トワの肩に手をかける。何かがおかしいと感じた。このままやらせてはならないと本能が訴えかけた。
「じゃま……しないで」
「!」
しかしその手をトワは払いのけた。辺りのエーテルがまるで彼女を守るように流れ、エメリックを吹き飛ばした。
「つつっ……これは、まずいですね」
尻餅をついたエメリックはエーテルを払いのける。
トワは何者か――おそらくケイであろう――に操られている。このまま彼女にやらせてはいけない。自分もアリス同様試されている。そう感じた。
自分の言葉では彼女に届かない。では誰の言葉なら届く? 今の彼女に――
怪盗としての勘が、脳がフル回転を始める。いつもそうやって危機を乗り越えてきた。
「それでいいのかよ! トワちゃん!」
彼は呼びかけた。
「……」
トワは振り返り、その姿を見て、わずかに眉をしかめる。
「……キクヲおじいちゃん……?」
「ああ、久しぶりじゃな」
キクヲ――に化けたエメリック――はゆっくりと近づきながら、トワの横に立ち、その手を握る。
「ちがう!」
だがその瞬間トワは繋いだ手を弾いて仰け反る。
「トワちゃんは何で魔法司書になろうと思った?」
エメリックは構わず続けた。
もちろん既に種も仕掛けも見破られているトリックが今更通用するとは思っていない。だが気を引くことにはまず成功した。
「……わたしは――」
トワは自身の手を、周りに漂うエーテルを、そしてイツカを見つめた。
「言ったじゃろ? あの雪の降った日に」
そして思い出させる。今朝彼女が話した魔法司書を目指すようになった理由を。
「く、や、し……かっ……た?」
もしかしたら彼女が魔法司書を目指すことになったのもケイによって仕組まれたことだったのかもしれない。だが、そのきっかけ、根源はもっと他愛のない対抗心だったはずだ。
「うっ……」
トワは頭を抱えてその場にうずくまり、ぎゅっと目を瞑りながら必死に思い出す。
辺りのエーテルがまるで彼女のその作業を邪魔するようにまとわりついてくるのも無視する。
その様をエメリックは黙って見つめていた。
やがてトワはゆっくりと立ち上がりながら、両手を胸に当てて、大きく深呼吸をして、その目を開きながらその言葉を叫んだ。
「く・や・し・い・か・ら!」
「よろしい」
エメリックは元の姿に戻りながら満足げに彼女の頭を撫でた。
二人は共に競い合ってこそなのだ。どちらかが欠けてもそれは成り立たない。ずっと一人で生きてきたエメリックにとってそれはこの上なく羨ましく感じられた。
「大丈夫ですか?」
「はい、すいませんでした。ちょっとエーテルに酔っちゃってたみたいで」
確認をするエメリックにトワは頭を掻きながら恥ずかしそうに応える。
エーテルに酔うとはどういうことなのかエメリックには意味がわからなかったが、どうやら正気を取り戻したようだった。
「それで――イツカ君をかえすとは?」
「うん、イツカくんをあっち、神の目録へかえすって、ケイさんはそうしたいみたい」
トワはイツカを見つめながら説明する。
イツカからは憎まれ口を叩くいつもの意識は感じられず、今はただ神の目録を開くための鍵としての役割を果たす本でしかなかった。
「このままだとイツカくんを使って神の目録が開かれてしまう。そうしたらたぶんイツカくんはもう帰ってこれなくなる」
エメリックはトワの説明に合点がいった。九年前も図書館の書庫の資料を使って神の目録は開かれ、そしてそれらの資料は消失した。その数はかなりのもので、オルラトルの町ができるよりも前の古い貴重な資料も含まれていた。
それらが持つ膨大な時間と空間の記憶が神の目録の扉を開くのに必要なのだ。そしてイツカはその身一冊で町からそれを集め、代替できるだけの存在であるということだ。
「しかし、どうやって――」
もう既に儀式は始まっている。それを止める手段など想像もつかなかった。下手に手を出せば時計塔に集まるエーテルがどうなるか――
「えいっ!」
トワはまるで飛び回る虫を叩き落とすかのように、開いたイツカを前のめりになりながら両手でばたんと閉じる。
「えっ?」
エメリックは呆気にとられて絶句する。
「イツカくん! 起きて!」
そして両手でイツカを強く握り締めると、顔を近づけて呼びかけ、そのままぎゅっと抱きしめた。
イツカへの流入を断たれたエーテルの渦が行き場を失い、時計塔の外へ漏れ出していく。
『……うっ』
やがて小さな呻き声がその本から聞こえてくる。
「イツカくん! イツカくん!」
トワはそれを確認すると何度も何度も呼びかける。その瞳はわずかに潤んでいた。
『あーうるせえ!』
そしていつものように悪態をつくイツカ。
「まったく、あなたたちは――」
エメリックはそんな二人を見て呆れ、そして安堵した。
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