第12話 忘れたレシピ(7)
薄暗い教会の中、いたるところにエーテルの残滓が埃のように宙を漂っている。
トワがエーテライズしかけた本達は既に元に戻って床に散乱しており、トワはそれを拾い集めていた。
「じゃあ本当にエメリックさんが――」
一部始終――神の目録やエメリックの特異体質については黙っていたが――を聞かされたリサは、改めてエメリックに尋ねた。
「はい。とは言え結局目的の本は見つかりませんでしたが」
エメリックはやや自暴自棄気味に言い放った。
「……本当に反省していますか?」
その様子にかちんときたリサがエメリックを上目遣いで睨みつける。
「ははは……」
迫られたエメリックは困った顔で乾いた笑いを浮かべる。
実際このまま警察に引き渡されてもいくらでも逃げる自信はあった。別の誰かに成り変わればすぐだ。今までもそうやって逃げてきた。自分はこの世界の誰にでもなれるし、何処にでも行ける。
――だがそれは自分自身になることと、帰る場所を失うことでもあった。
「まったく、こんな人だったなんて……」
リサは深くため息をつくと、とりあえず警察に連絡すべきかどうか迷い、電話のある入口のカウンターに目を向ける。すると――
「あら?」
カウンターの上に置いてある本がわずかに青白く光っていた。
「!」
本の片付けをおこなっていたトワがいち早くそれに反応する。
その本は昼間回収するはずだった図書館の図書、料理のレシピ本だった。
「――まさか、それが?」
エメリックも振り向きその本を見つめる。
さっきまでトワと二人の時には全く反応していなかった。リサが来ることがコード発現の条件だったのだ。
「リサさん、その本ちょっといいですか?」
「え、ええ――」
トワはその本を受け取るとページをめくっていく。
「あった!」
そして途中のフィスクスッペと呼ばれるサーモンのスープ料理のレシピの中に、コードが浮かび上がっているのを見つけた。
「あっ、それは――」
リサがそのページを見て声を上げる。
「もしかしてこれを――?」
お世話になったという先生に振舞おうとした料理なのだろう。見ればそのページからエーテライズによる修理がおこなわれていることがトワにはわかった。
「……イツカくん。この本をエーテライズするけど、いいかな?」
コードをイツカに移譲するにはエーテライズで一度解本する必要があった。カメラ等で撮影、筆写等しようとすると消えてしまうのだ。
『……』
「イツカくん?」
『えっ? ああ、わかった。やろう』
先程エメリックと話してからイツカには疑念が浮かび上がっていた。
それはトワとイツカの関係だ。
もちろん二人がこの九年間共に過ごして来たのは事実であり、それはお互いが一番よくわかっていることであった。だがイツカには引っかかることがあった。それは――
「じゃあ始めます」
教会の奥の祭壇前を片付け、その中心にトワが立つ。
リサは何をするのかよくわかっていなかったが、トワのエーテライズには興味津々のようで目を輝かせる。エメリックももはや手を出す様子はなく、座って見ていたが、店内の書棚の本達に注意を傾けていた。先に見せたような現象は起こっていなかった。
「書誌検索――」
トワはその場に身を屈め、左手をイツカに添え、目を瞑る。イツカから仄かに青い光が立ち上る。
「――これかな?」
『……ああ』
そして該当する情報を見つけ出すと、目を開け、立ち上がる。
「リサさん、本を――」
「はっ、はい!」
トワに促されてリサは両手で抱きかかえていた本を差し出すと、そのトワの姿に息を飲む。
真っ赤に燃える瞳はまるで別人のように見えた。エメリックもわずかに驚きを見せる。
本はリサの手を離れ、二人の間の中空に浮かび上がる。
「
トワは頭上の本に向かって右手を差し出し、エーテライズを開始する。
浮かんだ本が青く輝き、するすると崩れていく。抜け落ちたページは宙を舞い、エーテルに溶けて螺旋を描く。
「手を……」
そしてトワは右手を掲げたまま、左手をリサに向かって伸ばす。
「はいっ」
リサは一瞬戸惑いながらもその手を取り、強く握りしめる。
「
トワの紡ぐ言葉に反応して、エーテルの渦は一点に集中していく。
「
トワは握った左手の感触を確かめる。リサの記憶を引き出し本に定着させる。
「あっ!」
そこで思わず声を上げる。
「えっ? トワちゃん?」
驚くリサだったが、トワはリサを見つめ、そしてエメリックの方を向いて目を見張る。
「?」
エメリックもその意図がわからず怪訝な表情を浮かべる。
「そっか……」
トワは全て得心がいったという風でわずかに微笑む。
そして再び本を見上げると、仕上げに入る。
「
トワの手から伸びた青い糸がエーテルを収束し、本の形に紡いでいく。
そして最後にぽんっと軽い音を鳴らして完成すると、トワの右手にゆっくりと落ちる。
直後、まだ頭上に残っていたエーテルの中から、白く光る帯が吸い込まれるようにイツカの中に流れていった。
「ねえ、リサさん」
まだエーテライズの余韻の残る中、再構成した本をリサに手渡しながらトワが尋ねる。
「うん?」
「この料理を作ってあげた先生のことまだ覚えてる?」
「えっ? ええと……大学の先生で、家庭教師をやってくれて、背が高くて、お髭が濃くて、ちょっと怖くて、でも目は垂れ目で、いつも生徒に悪戯されるの愚痴ってて、あっ、名前はね――」
次々とその先生のことを話し出すリサは楽しそうだった。
トワが見たのも同じだった。彼女の中にその思い出はちゃんと残っていた。
もしエメリックが言ったようにケイが世界を書き換え、人の記憶すらも消すことができるのなら、それはありえないはずだった。
「そんな――ばかな」
そしてそれは当人が一番驚いていた。
「まさか、君は――いや、しかし――」
エメリックは立ち上がると驚愕の表情で両手を前に彷徨わせながら、リサの元にゆっくりと近づいていく。
「エメリック――さん?」
リサは怪訝な表情で目の前のエメリックを見上げる。
「!」
エメリックは突然リサを抱きしめた。
「えっ! あ、あのっ?」
リサは顔を真っ赤にして驚くが、すぐに耳元で聞こえる声にはっとなる。
彼は泣いていた。
「……覚えている人がいた。僕は、ちゃんとこの世界に生きていたんだ……」
エメリックは嗚咽交じりにリサを抱きしめたままその場に膝を落とす。リサも事情は飲み込めなかったが、彼が『先生』と浅からぬ関係であったことだけは理解できた。
「はい、ちゃんと覚えてますよ」
そして彼の背を優しく撫でた。
トワはそれを黙って見つめていた。
そして理解した。ケイはきっとこの二人を巡り会わせたかったのだ。
残ったエーテルが一粒ゆっくりと地面に落ちて、消えた。
「……トワさん、いいですか?」
ひとしきり泣き尽くし、ようやく落ち着いたエメリックがトワに話しかける。
リサは恥ずかしかったのか離れて慌ただしく散らばる本を片付けていた。
「だいじょうぶですか?」
「ええ、すいません取り乱して。それよりコードの方は――」
心配するトワにエメリックも頭を掻いて応える。
「はい、イツカくん、何かわかった?」
そんな様子がおかしくてトワは笑いながらイツカに小声で尋ねる。
だが返事はなかった。
「イツカくん?」
『……そうか、そういうことなのか。この本こそが神の目録を開くために母さんが作った鍵、あの日、世界は重なり――みんなの願いが――まて、俺は――?』
「イツカくん!」
全く感情を感じさせない声で機械的に呟き続けるイツカに恐怖を感じたトワが叫ぶ。
「まさか、あの日何があったのか思い出したのか?」
エメリックもその言葉の端々からイツカが核心に迫っていることを予感する。
「……見つけた」
直後、教会のステンドグラスが一斉に砕け、降り注ぐ。
「きゃああ!」
リサの悲鳴が二人を我に返らせる。
砕け散ったガラスがエーテルの粒子に変わりながらゆっくりと落下する。
その青く煌めく雨の中、一人の少女が舞い降りる。
エメラルド色の長い髪と瞳、白衣のような白いコートを羽織り、Tシャツにハーフパンツの下は黒いブーツ。昼間時計塔で会ったアカーシャだった。
「あっ」
という間も無くアカーシャが放った黒い鳩、ラジエルがトワの腰のイツカを奪い取る。
トワはすかさず手を伸ばすが空を切る。
ラジエルはアカーシャにイツカを渡すと、その腕を掴み、翼を広げ飛び上がる。
「待って!」
トワの叫びに上空のアカーシャは視線を落とすと、物憂げな瞳をトワに向けて一言呟いた。
「……あの場所で待ってる」
ラジエルはひときわ大きく羽根を羽ばたかせ、アカーシャと共に砕けた窓から飛び去っていった。
まだ降り注ぎ続けるエーテルの青い雪の中、トワは膝を崩してアカーシャが飛び去った空を見上げていた。
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