5話 依頼


 

 大阪浪速区

 大阪のシンボルともいえる通天閣を中心に据える繁華街の新世界や、サブカル文化を扱った店舗が多く立ち並ぶ日本橋が含まれている区だ。

 多くの人で賑わっている反面、地価が安く繁華街が近いせいか海外からの労働者や夜の仕事を生業にする人間が多く住んでおり、それを発端としたトラブルも多く治安が良いとは言い難い土地である。

 黒崎武虎はその区にある古いアパートに住んでいた。

 六畳一間、家賃は共益費込みで三万円もしない安い物件である。

 内装も値段相応といったところで壁紙が古いのかどこか色褪せており、申し訳程度にベランダはあるものの物干しざおをかけるくらいにしか使い道がない。

 夜になればどこからか酔っ払いの声や若者が騒ぐ声が時折聞こえて来る。

 快適とは言えない環境だが、武虎はこの雰囲気をどこか気に入っていた。

 吸血鬼という生き物の性質か太陽の光が苦手なこともあり、専ら夜型の生活をしているためか夜に生きる住人が多いこの町の空気が肌に合っている。

 ベランダに繋がる窓枠に腰かけ、夜風に当たりつつ先日の依頼の報酬である血液パックの中身を吸いながらそう思う。

 あの依頼からもう三日が経っていた。

 あれから特に何もない。

 夜道を襲われることも誰かに見張られてる気配も察することはなかった。

 飯を食い、独りで鍛錬を行い、誘う様に夜道を歩き、酒を少し入れ、帰って眠る。

 その繰り返しだ。

 今日も居酒屋で二杯程度酒を飲み、歩いた帰りである。

 だが今夜は不意に電話の着信音が響いた。

 仕事用に契約した格安のガラケーである。

 

 「もしもし。」

 『やぁ、ぼくの声が分かるかい黒崎武虎?』

 

 その声に武虎は聞き覚えがあった。

 

 「…紫藤たてはであってるか?」

 『正解だよ、この前は世話になったね。』

 「結構元気そうじゃねえか、リベンジマッチのお誘いなら喜んで引き受けるぜ。」

 『そうしたい気持ちはないこともないけどね、違うよ、仕事の依頼がしたいんだ。』

 

 穏やかな声で紫藤がそう言って来た。

 その声音が逆に少々不気味でもある。

 自分をぶちのめした相手にこのような声が出せるのかと、武虎は少し気味の悪さを感じていた。

 とはいえ仕事を断る理由もない、もし何か企みがあるなら上等だと武虎は電話越しに頷いた。

 

 「内容次第だが、あんた相手でも喜んで仕事は引き受けるぜ。」

 『オーケーありがとう。簡単に言えばANVATSの施設を一つ襲撃してもらいたいんだ。』

 「へえ…面白そうじゃねえか。」

 『細かい話はこちらから人を寄越して説明させるよ、待ち合わせの仕方は君が指定していいからね。』

 「面倒だからそっちで決めてくれ、まだ大阪に来て日が浅いからよ。」

 『…正気かい?待ち合わせ場所に来てみれば罠だった──なんて考えないの?』

 「そうなりゃ上等だ、百人で来られようが全員叩きのめしてやるよ。」

 『若いなぁ…分かった、十三にぼくが面倒を見てる店がある、明日の夜そこで頼むよ。場所は後でメールを送っとく。』

 

 呆れたように紫藤はそう言った。

 

 『…黒崎くん、君はぼくが恨み言の一つでも言わないのが不思議かい?』

 「そりゃね。」

 『それはね、ぼくが弱いからさ。』

 

 肯定する武虎に紫藤はあっさりとそう言ってのけた。

 謙遜しているような声色ではない、黒崎が浮かべているだろう懸念を解消するためにただ事実を伝えた、そのように聞こえた。

 

 「あんたが弱い…?」

 『ああ、ぼくは弱い。』

 「よくもまあそんなことを言えたもんだ。」

 

 三日前の戦いにおいて紫藤はたしかに無手の武虎に敗れている。

 しかしそれも紙一重、決着は玉砕覚悟の一撃によるものであった。

 顔をしかめる武虎に対し紫藤の可笑しそうなクスクスという笑い声が電話口から響く。

 

 『なんで勝った君が不機嫌そうな声を出すんだい?』

 「あれは…どっちが勝ってもおかしくなかったからだよ。」

 『それでも負けは負けさ、それに紙一重の勝負だったかもいれないけど、ぼくは十回やってもその紙一重が差が越えられないだろうね。』

 「けッ、そんな心構えならそうかもな。」

 

 武虎は一層不機嫌そうな声で紫藤を煽る。

 

 『だろうね。』

 

 自嘲を含んだ声で紫藤は肯定する。

 

 『だから君が少し羨ましくもあるんだ。』

 

 そう付け加えた紫藤の声は少しばかり弾んでいたように武虎は聞こえた。

 

 『ぼくもね、君のような時期があったんだ、自分が最強だと思っていた時期がさ。』

 

 懐かしむように紫藤が続ける。

 見た目は少女の様であった紫藤であったが、どうやら武虎よりも長く生きているようだ。

 月夜と同じく吸血鬼に見た目の年齢というのは当てにならない様である。

 

 『だけど二度──いや、君を含めて三度かな、徹底的に負けたことがあってね。残りの二度はうちのボスと、幹部の女吸血鬼さ。』

 「ボス──赤兎馬会のトップか?」

 『その通りさ、屈辱だったよ、負けたことも初めてだったからね。』

 「もう一人は?」

 『ぼくより後にボスが連れて来た子でね、序列を分からせておこうと思ったら、分からせられたのはぼくの方になった。』

 「あんたが…!?」

 『ボスに負けたときはいつか下克上をと思ってたんだけどね、その子に負けて、ぼくは自分が弱いということを受け入れたよ。』

 「…。」

 『…少し話し過ぎたね、じゃあ仕事の件頼んだよ。』

 

 そう言い残し、通話が切れた。

 武虎は乱暴にガラケーを畳むと部屋の隅に乱雑に押しやられている布団の上に放り投げ、色褪せた畳の上に寝転がる。

 そうしてしばらくぼんやりと電灯を眺め、やがて何かに堪えきれなくなったように立ち上がりコートを脱ぎ捨てた。

 芸術品のような肉体が露わになった。

 逞しく筋肉が発達しているが太いというより分厚いという印象を受けるのは極端に二の腕や太ももが肥大化していないからであろうか。

 ボディビルダーが美しさを求めて長い年月をかけて追及する筋肉とはまた違う、戦うために作られた機能美を感じさせる筋肉だ。

 腰は大きくくびれているように見えるが、発達した広背筋が造り出すシルエットがそう錯覚させているだけでしっかりと筋肉が乗っている。

 武虎は部屋干ししている色褪せた黒いトレーナーを引っ掴んで袖を通し、素足のままで外に出た。

 冷やりと心地よいアスファルトを踏み、駆け出す。

 駆け、駆け、駆け、人気のない深夜の公園を見つけると夜空が微かに白んでくるまでひたすらに空手の型を繰り返した。

 そうして武虎は自宅で倒れる様に眠りについた。



 

 

 二日後 

 

 大阪 堺

 大規模な工業地帯があるこの土地を黒崎武虎は訪れていた。

 夜景の美しさでも有名な地帯であるが既に時刻は深夜になっており、流石に光が灯っている工場の数も少ない。

 武虎はまばらに光っている電灯をワンボックスカーの後部座席から眺めていた。

 道路上は時折大型のトラックとすれ違う程度で閑散としている。

 

 「そろそろ目的の施設に着くっス、最後に今回の仕事の確認しとくっスよ。」

 

 助手席から肥満気味の男──ポンが武虎に声を掛けて来た。

 車を運転しているのは痩身の男、カンである。

 紫藤が仕事に関する説明に寄越したのがこの二人であり、仕事先への送迎も担当しているのだ。

 

 「ANVATSの研究施設の襲撃、だったよな。」

 「そうっス、ただ施設を破壊したりとかそういう必要はないっスよ、暴れてもらって奴らの目を引きつけてもらえればOKっス。」

 「あたしが暴れてる間にあんたらは何かしら仕事をする、そういう話だったな?」

 

 武虎に与えられた仕事、それはANVATSの研究施設の襲撃であった。

 ANVATSは単なる戦闘集団ではなく、吸血鬼という人外の存在に対抗するべくその特殊な生態に関する研究や効果的な兵器開発も行っている。

 本来であれば極秘裏の施設ではあるが、どうやら赤兎馬会はその施設の在処を掴んでいるようである。

 武虎はそこで警備部隊を相手に暴れて人目を引きつけ、その間に赤兎馬会は施設で行われている研究の情報を掴むのだとか。

 

 「いぐざくとりー!その通りっス!仕事が終わればこっちから連絡するんでそこで撤退って感じっス。」

 「分かった、適当に遊んでくるよ。相手はキッチリ武装してるんだろうな?」

 「ご安心を、表向きは普通の警備員みたいな連中っスけど、俺らみたいなのに備えて裏じゃあごっついライフルを持ってるらしいっスよ!」

 「上等、ま、つまんねえ仕事だったらまたお前ら二人と遊ばせてもらうぜ、あれは中々楽しめたからな。」

 「か、勘弁してくれっスよぉ~!死ぬかと思ったんスからね!あんたに首折られて!」

 「……俺もしばらく飯が喰えなかった、勘弁してくれ。」

 「チッ、分かったよ、そんときゃ紫藤にでも頼むさ。」

 「はぁ~人間が強くあってくれだなんて思ったの、今日が初めてっスよ…。」

 「…そろそろ着く、便利屋、後は頼んだ。」

 

 カンの声と共にワンボックスカーが路上で停車する。

 黒崎は車から降りるとポケットの中に両手を突っ込んだ。

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