野良吸血鬼、大阪で拳を振るう。
いおりん
序章
なあお姉さん、こんな都市伝説を知ってるかい?
煌びやかな夜の歓楽街──ここ大阪じゃあ梅田や道頓堀を支配してるのは人間じゃないって話だ。
吸血鬼。
陽の光を嫌い闇を好む奴らが人知れず暗躍してるんだとよ。
しかもそいつらを束ねているのは男じゃなくて女、女の吸血鬼がボスだって言われてんだから驚きだ。
意味が分からねえだろう?でもよこんな噂も最近出回ってるんだ、たしか…そうだ
十三で海外から密輸した銃を売りさばこうとしてた奴らが全員叩きのめされたって話だ。
しかも、その叩きのめしたってのがどうやら一人の女らしい。
勿論相手も抵抗したさ、なんてったって相手は一見ただの女だ。
最初は素手で、次は辺りにあったモノで、最後は大事な商品である銃まで使って。
それでも歯が立たずに大事な商品はごっそりとその女が奪っていったんだとさ。
ありえねえ話だ、よしんば本当だとしても精々映画の撮影を見て勘違いしちまったとかそんなオチなんだろう。
でもさっきの都市伝説のこと考えると中々面白い話だろう?
なんつうかロマンがあるというか、夢がある話でさ。
「っと、もう行っちまうのかいお姉さん?」
レトロなアイリッシュパブのカウンター席。
くたびれたスーツ姿の男がカクテルグラスを片手に、隣の席に座っている女を見ながら言った。
そのグラスは血を連想させる赤色の液体で満たされていた。
ブラッディマリー、ウォッカをベースにトマトジュースとレモン果汁を入れ好みのスパイスを少々加えて出来上がるカクテルである。
きっと男はそんなカクテルを飲んでいたから、先ほどの都市伝説を思い出したのだろう。
そしてたまたま隣に座っていた女に話を振った、そんなところだ。
「悪いな兄さん、仕事前の景気づけに一杯だけと決めてたんだ。」
女は男にそう言いながら、空になったロックグラスを置いて席を立つ。
立った女を見上げる男の顔が、グイと大きく傾いた。
女の背丈が思ったよりも高かったせいだ。
平均的な女性どころか男性よりも頭半分以上高い──百八十センチ半もあるだろう長身であった。
その身に纏っているものは黒い革のロング・コート、しかも肌着を身に着けず素肌の上に直接身に着け、腰元にあるベルトだけで固定しているため首筋からヘソのあたりまでが大きく露出している。
しかしその身体が古代ギリシアの彫刻のように綺麗に引き締まっているせいだろうか、不思議と下品な印象は抱かず美しさとほんのりとした色香を感じる程度にとどまっている。
肌が石膏のように白いこともその美しさを演出していた。
女はコートの裾を翻し、出入り口のドアの取っ手に手をかける。
そして不意に男の方を振り向いた。
「兄さん、その話あまりしない方がいいかもな。」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、女は言った。
同時に男が息を呑む。
女の顔立ちが美しく整っていたからだというのもある。
白い肌と対照的に黒く短い髪と切れ長の瞳にどこかゾッとするモノを感じさせる、磨き上げられた刃物のような美しい顔立ち。
だが男が息を呑んだ一番の原因は女が笑みを見せた際にちらりと見えた白い歯。
そのうちの二本が大きく鋭く発達しているように見えたからだ。
まるで人の首筋に喰らいつき生き血をすする吸血鬼のように──
男が何かを言う間もなく、女は出入り口から颯爽と店を去っていった。
男はしばらくの間呆然と誰もいなくなった出入り口を眺めていたが、やがてゆっくりと前を向き、まだ中身の残っているグラスを一気に煽った。
トマトとレモンの心地よい酸味にウォッカの熟成された苦味が合わさり、味に深みを与えながら喉を一気に通り過ぎると舌に残るコショウの刺激が味の余韻を引き立てる。
そして空になったグラスをコースターの上に置き、サッと酒棚を一瞥すると一本の緑の瓶を見つけ財布から千円札を二枚取り出しカウンターに置いた。
「マスター、ジェムソンをストレートで…あと、良かったら一杯飲んで。」
カウンターでグラスを拭いていたマスターが無言で頷き、緑の瓶を手に取る。
ジェムソンとは代表的なアイリッシュウィスキー、つまりアイルランドで醸造されたウィスキーだ。
この酒を注文したのは吸血鬼という存在を一躍世に知らしめた小説"吸血鬼ドラキュラ"の作者であるブラム・ストーカーがアイルランドの出身だという雑学を思い出したからであった。
そんなことを考えているうちに琥珀色の液体が注がれたロックグラスがそっと男の前に置かれた。
マスターもその手にロックグラスを持っている。
互いに軽くグラスを掲げ、一気に中身を飲みほした。
まるで今見た出来事を、そっと腹の中にしまい込むように。
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