第4話 真相(終)
源三郎は黒子屋に入ると伝助に言った。
「伝助」
源三郎は炭と紙を番頭に用意させると伝助に言った。
「手のひらに炭を塗って紙に手を押し当ててくれぬか」
「私がなぜそのようなことをしなければならないのですか」
そう言うと伝助は上半身をやや後ろに持って行く。拒絶とフリーズ。身を守ろうとしたときに人間はフリーズする、それが行動心理学では常識的なことと言えた。
「できぬのか?」
源三郎は少し強めの口調で言うと伝助は震える手で炭に手を持っていき紙に押し当てた。
「どこかでみたような手のひらだな伝助」
「へ?」
「お富の肩にあった手のひらとそっくりだと思ってな」
「そ、そんな。どこにでもある手形ではございませぬか」
なかなかにしぶといそう源三郎は思うと、圧の掛かった声音で言った。
「もう一度聞く、お主が酒を一人で飲んでいたと証明できる者はいるのか?」
「ぐっ……」
「できぬのならまた別のところで話を聞かねばならんな」
「……」
「どうした?」
そこで伝助は肩を落として足の歩幅を小さくさせた。降参合図だろうとお花は思った。
「確かにあなた方の言うとおり私がお富を殺しました。しかしまたお富も悪なのでございます」
伝助の言葉に源三郎は怪訝な顔で聞き返す。
「悪?」
「そうでございやす。なにせお富はお読を押して早馬に飛び込ませたのだから」
「見たのか?」
「私は見ました。白い着物を来た女が押すところを」
「他の白い着物を着た女だったのではないか?」
「仮にそうだったとしてその何者かはお読を押す得がどこにあるんでしょうか?」
その話をしている最中お花は女の店員の様子を見ていた。眉間に皺を作り首筋を触る。明らかななだめ行動だ。
(どういうことなのだろう伝助の口からは共犯者の存在の欠片も出てこないそれなのになぜこの女はこうも不審な動きをする)
伝助が捕まればこの黒子屋はきっと潰れることだろう。やるならいましかない。
そうお花は心に決めると女店員のところへ言った。
「お読さんとは仲がよかったですか?」
それを言った瞬間舌が口内へ巻き込まれるようにして消えた。
「仲がよくなかったですか?」
「さっきからなんなんですか? 旦那様が人を殺した、それがなぜ私のところにまで話が及んできているのです」
確かにこれ以上突き詰めようとしても逃げられるかもしれない。お花は初めて焦りを覚えた。
「伝助さんの事は好きでしたか?」
「店員と旦那の関係であれば」
一瞬だけ首を縦に振って横にする。思考を司る大脳新皮質、大脳辺縁系の関係だが大脳辺縁系の反射は大脳新皮質には認識できない。大脳辺縁系の反射に、大脳新皮質はけっして追いつけない。その五分の一秒の間に表れる本心が、マイクロジェスチャーという。これが否定と頷きのからくりだ。
「あなたはなにかを隠している」
「なにをですか」
額から大粒の汗が流れ、ごくりと喉を鳴らす。これもなだめ行動だ。
「例えばそうですね。お読さんが嫌いだったとか」
そこで逃避、フリーズ、ファイトのFのノンバーバルコミュニケーションが一つ逃避が現れる。
「……き、嫌いも好きもありません」
「嘘です」
「私はこれで帰ります。失礼な話ばかり聞かされたくないので」
逃げられる。今日この女と会えるのは最後だ。明日には雲隠れするだろう。その心配もなく源三郎が女を逃がさないが焦っているお花にはそれが気がつかない。そんなお花がぐっと手を握って次の手を考えていた瞬間、別の同心が入ってきた。
「拙者、南町奉行所の長岡紀三郎という、お龍という女はいるか?」
「私でございます」
「見慣れた顔だ、おまえだなお読を早馬に飛び込ませたのは」
「な、何のことでございましょうか?」
「しらばってくれるでない目撃者の証言からお前ということはもう分かっているのだ」
お花はこの女が隠していたことがここで全て分かった。この女伝助が好きでお読を早馬で殺害したのだと。ノンバーバルコミュニケーションというがやはり足で歩く捜査の執念には勝てないものがある。
源三郎は伝助に向かって同情するような表情で言った。
「だそだ。お富は誰も殺しておらずお主によって殺められたのだ」
その言葉に伝助は地面に蹲る。そして大粒の涙を流した。
「っぞ、ぞんな、ぞんな……じゃあ私はなんのために」
「伊左衛門は守る物があると言って復讐は諦めたそうだ。お主も守る物があったのではないか。父、母、兄弟なんにしてものだ」
「……」
伊左衛門の言うとおり復讐など考える物ではないということだろう。この後伝助とお龍は捕縛され連れて行かれた。
「逃げられるところだった……ありがとうございます長岡様」
もうこの場にはいない長岡にお花は感謝する。源三郎はお花の肩に手をやると慰めるようにして言った。
「お花、お主はよくやった」
「いえ、やはり長岡様が行った地取りの執念にはまだまだ勝てません。人殺しを逃がすところでした」
「今日の事はもう忘れてお花、美弥の料理で一杯飲もう。そうすれば少し忘れられるはずだ」
「……はい」
そんなお花の瞳からは悔しさなのか悲しさなのか分からないが一滴の涙がぽろりと落ちるのだった。
美弥に前に言われたことを思い出す。全てが終わっていた事件なのだと、お花は神ではないだからこういうことにもなるのだと。
こうしてなにもしていない女が殺された事件は終わりを告げるのだった。
夜になってお花は美弥の煮物に手をつけていた。この事件と違って甘い。お花が一杯飲むと美弥が汲みに来る。
「いつもありがとうございます美弥さん」
「あらあら私とお花さんの仲ではありませんか」
美弥の温かい言葉にお花の心の中が軽くなる。そんなお花に美弥は言った。
「お花さん」
「はい」
「お花さんはよく頑張りました。最後の犯人まで追い詰めようとしていた」
「それでも私は逃がしそうになりました。全ては長岡様の執念でございます」
「確かに長岡様の執念は凄かったのかもしれません。でも私はお花様も頑張ったと思います」
「以前美弥さんに言った心理術は使えるが、肝心なところで痒いところに手が届かないというか」
「それでもお花様は色々な下手人を捕まえて来ています。そこは誇るところではないでしょうか」
「そんなものですかね」
「はい」
美弥にもう一杯お酌をして貰ってから源三郎は言った。
「実を言うとなお花の術は幕政にも届いているようでな、大奥とかでも話題になっているそうだ」
「……幕政、大奥……」
現在の御台所は天璋院篤姫だ。そして幕政と言えば大老井伊直弼。自分は近いうちになにかに巻き込まれるのではないかとお花はぎくりとした。
「なに深く考えるまでもない、あくまで噂なのだから」
そこでお花は障子窓が開かれているその隙間から空を見る。それを見ながら言った。
「そうであればいいんですけどねえ」
こうして江戸城内とお花の行動がリンクしていくことになるとはこの時はお花は想像だにしていなかった。
余談であるが、お読の父、伊左衛門がお花が犯人検挙に尽力してくれたからといって鍛冶道具を作ってくれるようになったのは後日の話だ。
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