第2話 吊り下がる女と検屍
お花は水茶屋の外観を見る。そこそこ広く、出会い茶屋としても機能しているのだろうなという感想を素直に持った。
玄関に既に居た水茶屋の女に案内されるようにして源三郎とお花は水茶屋の中に入っていく。現場には既におかっぴきの喜助が待っていた。
「お役目ご苦労さまです」
そう言葉を掛けてきた喜助に案内させるようにして、屍の元へたどり着く。まず部屋に上がって感じたのは糞尿の臭いと僅かな腐臭であった。源三郎はその臭いを嗅いで顔を露骨に顰めさせた。
「永井様、臭気が気になるのであればごま油を鼻に塗って、それでもつらい場合は生姜片を口の中へ入れてください」
「あ、いや大丈夫だ。この程度はまだ慣れている」
「そうですか」
源三郎は気丈に振る舞っているがそれでもきつそうなのが見て取れた。しかし無理にそれを勧めるわけにいかないので、お花はせわしなく動く喜助に訊いた。
「喜助さんがこの屍を自死ではないと思ったとか」
「へい、あっしは何件か自死をしている様を見ているもんですから、この屍はちょっとおかしいと思ったわけでして」
「そう思われましたか」
喜助の説明にお花は納得したかのように頷いた。
確かに自死を一度でも見て経験をしているものであれば、屍を見てなにかを感じるものがあるはずだろうとお花は思いながら屍の観察を始めた。
吊された屍は誰も下ろさずぶら下がったままであった。お花にとってこれはありがたかった。検屍の手段としてはまずは屍をそのままにしてある方が好ましい。
お花はぶら下がっている女。歳は25、6歳ぐらいの女の姿を見やる。中肉中背で生前はその魅力的な体で数々の男を魅了してきたことが見て取れた。顔は生きている頃であれば別段普通と言ったところだろう。いや惨状から見ると普通というのも語弊があるか。
顔面は巨人顔に(膨れて、目をむいたような、肥満した力士の様子)なりつつあった。
五月ほどに暖かくなると蠅などが発生してくる。そのためにおかっぴきの喜助が団扇を振って蠅を屍から追い払っていた。それでも目、口、鼻辺りには蠅が蛆を産み付けたらしく悪臭とともに地獄絵図を描いていた。これが果たして普通と言えるのだろうか。
お花は法医学の常識通り蛆の大きさを測るように見て死亡推定時刻の算出に役立てようとする。その後、お花は蠅や蛆にかまわず注意深く首周りを見やる。
「首回りの索条痕は自死のものではないですね。普通の首つりは体重が一気にかかるので、綺麗に縄が食い込むのですが、これはこの首の手前や横で二、三回ずれて痕がついています。誰かに吊されたように感じます。また絞殺の場合に出る顔に鬱血と目に溢血が浮かんでおりません。首つりの場合でも僅かな赤の点は出ますが。このことから絞殺でもなく自死でもございません」
「ということは死後にここに吊り下げられたということか?」
源三郎の質問にお花はそうでございますねと答えた後に、室内を見やる。ぶら下がった屍の下の敷居には黄土色の大便が落ちていて、その下は水のような物で濡れていた。お花はこの水のような物に鼻を近づけると小便の臭いがした。
そして死体から少し離れた中央付近にも水で濡れた場所がなぜか存在している。お花はそこに行くと水の臭いを嗅ぐ。
「これも小便のようですね」
「ということはここで殺害された後に、鴨居に吊されたということか?」
「現状を見るとそういうことなります」
「しかし、死斑は屍の足に集中しているように見えるが」
源三郎は不思議そうにしてそうお花に尋ねるが、お花は顎に手を置くと簡潔に答えを述べる。
「死後暫くの間は死斑の移動性は保たれていますので、たとえ仰向けの状態で死んでいたとしても、こうして吊されれば死斑は足に移動します」
源三郎は説明に納得したかのような表情を浮かべて顎に手を当てながらお花に言った。
「ふむ、屍の顔は特に唇が青黒くなっている様子もなく、唇から歯が現れている様子もなく、それに鬱血も目に溢血もなしということは死因はどうなのだ?」
「そうでございますね。まずは庭に屍を移動して調べて見ましょうか」
屍を調べるときには光の下でやるのが好ましい。暗い室内だと屍の些細な変化や異変を見逃してしまう可能性があるからだ。
また外の衆人環視のもとに検屍を行うのにはもう一つ訳がある。男が若い女の検屍を家の中で行うとあらぬ噂を立てられることもあるからだ。
今回の場合、源三郎が検屍を行うわけでなく、若い女ことお花が検屍を行うのでその心配はないと思うが。
源三郎は喜助達に屍を運び出すように命じ、喜助と手下は鴨居の近くで縄を切ってから屍を抱えて庭へ運んでいく。
屍を運んでいる最中に女将は恐る恐ると言った様子で尋ねてきた。顔面は蒼白だ。余程ショックが大きいのだろう。
長年水茶屋の女将をやってきた猛者でも、今回のようなケースは畏怖する対象でしかないのだと推測できた。
「その糞尿の臭いが凄いので掃除をしてもよろしいでしょうか?」
お花は少し考えた後に構いませんと言葉を返した。本来であれば現状維持が好ましいが、この江戸においては未来から来たお花の理屈は通用しない。
お花こと大石花蓮は元は現代の日本で法医学に携わる医者であった。しかし車で事故を起こし、次に目覚めた場所はこの江戸の街だった。体が十八という年齢に若返っていることに驚いたが、飛ばされた場所が江戸という環境を見て愕然としたものだ。
ちょうどお花という医者の娘の体に転移したのがこの世界で生きるためには幸運であった。それからお花は比類なき医術をふるってご公儀にも認められる医者となる。
そんな昔のことを思い出しながらお花は庭に敷かれた筵の上に喜助達が屍を置く様子を眺めていた。
お花は仰向けに寝かされた屍を見やる。源三郎は喜助達に命じて屍の着物や襦袢全てを取り除かせた。
お花は注意深く屍を観察していく。まずは頭部、頭頂、側頭部、後頭部を調べる。調べると熱した釘などは打ち込まれていない。また頭部の外傷もなさそうだった。ただ死後1-2日経っているのか下腹部が緑青色の変色が出現していた。その後一部は血管の走行に沿って(腐敗網)進み腐敗泡を形成しつつあった。
死後硬直を確認すると下腹部に緑青色が見られ、死後硬直は手指足指にまで及んでいて、死斑は足で固まっている。角膜を見ると二日程度の強濁を見せている。
「これを見るに死後二日といったところでしょうか?」
お花の言葉に源三郎はややびっくりしたかのような表情を浮かべた後に喜助に命令をする。
「鴨居に二日もぶら下がっていたというのか。喜助女将を呼んできてくれ」
「へい」
喜助は急ぎ足で水茶屋の中に入っていく。暫くして喜助は女将を伴って現れた。女将は不安のせいで顔色が優れない。そんな女将に源三郎は尋ねる。
「部屋にはこの女以外に誰がいた?」
「若い男人でございます」
「部屋からその男とこの女の動きがなくなって随分と時間が経過していたのではないか?」
「は、はい。確かにその通りでございます」
「ならばなぜ部屋の中を確認しなかったのだ。不審だとは思わなかったのか?」
源三郎の詰問に女将は眉を下げ困った表情を浮かべた。
「それが、男の方が大事な話をすることになるので、呼ばれるまで誰も来させないでくれと。まさか鴨居にぶら下がっているとは思わず。こんな悪夢のような状況になっているとは……」
「その大事な話とはなにかわかるか?」
「申し訳ございませんお侍様、それは私の知るところではございませんので……」
確かに水茶屋の女将が男と女の話を知っているとは思えないので、源三郎は頭を掻いた。どうみても女将が嘘を吐いているようには思えなかった。だからお花は遺体を観察しながら囁くようにして呟く。
「それにしても死因の特定はCTがあれば確実なんですが。無い物ねだりはいけませんね……」
「しーてぃーそ、それはなんだ?」
「い、、いえ忘れて下さいませ永井様……」
お花から出た謎の言葉に源三郎は聞き返したが、お花はばつの悪そうな表情を浮かべながら忘れてくださいとだけ返事をしてから屍を調べていく。
見た限りでは腹部にも異常はない。次に時間をかけてゆっくりと眼、鼻、舌、口を子細に調べていく。
「ここにも異常はない」
次に屍の股を開かせて陰道と陰裂を調べる。陰道と陰裂を調べると男の精液らしきものが見受けられた。ただ致命傷になるようなものは見つからない。
肛門も調べたが、釘を打たれたような死因に関連する要素は見つからない。
お花は丁寧に丁寧にゆっくりと観察をしていく。屍に蠅や蛆などが湧いているというのにまるで生きている人間を相手にしているようだと源三郎は感心する。
「お主の調べ方はこう、まるで生きた人間を調べるようだな」
源三郎の不思議そうな言葉にお花は率直に思っていることを話す。
「この人がどんな人かも私にはわかりません。でも私たちに見つけられるまでは独りぼっちだったわけじゃないですか、そんな死人の声を聞くのが私たち検屍官の仕事だと私は思っています」
「いや、声なき屍にそう言えるお花は見事なものだと私は思うよ」
死人の声を聞く、検屍いや法医学とはそういうものだと思っているお花に向かって、再度唸るように感心した後に源三郎は腕を組んだ。
そんな源三郎をお花はちらりと見た後に屍に視線を戻しながら言った。
「一応ここまで調べて見つからないと言うことは薬を使うしかないですね」
「そうだな」
源三郎はお花の意見を聞くと、御用箱から数種類の薬を取り出す。薬をお花は受け取ると薬を煎じたり混ぜたりしてから屍のもとへ戻ってくる。
「まずは腹部ですね」
屍の上半身に白梅、葱白、塩、山椒を塗り、その上を糟酢で覆う。それから暫く待ち薬の効能が現れてくるのを待つ。
充分時間が経ったところで屍の腹から糟酢を取って明るい日差しの中で様々な角度で見ていく。
そうすると、女の肩付近には強く押された後と腹部には二カ所殴られた後がしっかりと浮かんでいた。
「やっと、でましたね」
「おおっ、でたな」
お花のほっとしたかのような言葉に源三郎は安心したかのように同時に相づちを打った。
念のために再度口を調べ銀の簪を喉元へ差し込み、毒の臭いも嗅いでみたが、銀の簪に異常が出ることもなく、毒の臭いもしなかった。
「念には念を入れて細かい毒の検査をしますか永井様?」
「いや屍を見ている範囲では毒殺という線は薄そうだ」
それはお花も遺体所見でそう思っていたので、この腹部の二撃が死因であると断定した。
「本当は開ければ確実なんですが」
「それはいかんぞ」
「西洋では開くことが主流になっています」
「たとえどんな理由でも駄目な物は駄目だ」
「残念ですね」
そう言ってからお花は水茶屋に戻り女将と水くみ女に話を聞いていく。この女の名前はわからないそうだが、陰道と陰裂を調べた通り女は男と確かに居て情事に浸ってようだった。女中は男の顔を覚えていたのでお花は学生時代に鍛えた似顔絵作成で顔を作成していく。
お花は短くため息を吐いた後に源三郎に似顔絵を渡す。渡された男と女の似顔絵を源三郎は見るとまるで生きているようだとお花を褒めた。
お花は源三郎と似顔絵を交互に見た後に柔らかく微笑むと、源三郎にいつものごとくの決まり台詞を言った。
「とりあえず現在私ができるのはここまでです。後はこの男と女の素性が見つかったらまた私に言ってください。協力はしますので」
「その後は心の理、心理術を使うのだな」
ノンバーバルコミュニケーション「行動心理学」や深層心理学やプロファイルなどと言うと混乱のもとになるのでお花は源三郎にこれらをまとめて心の理、つまり心理術と説明をしていた。お花は現代日本に居るときに法医学を学ぶ、いや殺人者と戦う上でどうして殺人者が犯罪を犯すのかということに興味を持った。その結果これらを勉強することにしたお花。その学問がこの江戸の犯罪に生かされていることはお花にとってはとても嬉しいことだった。
「はい、下手人を捕縛するまであらゆることはしますので」
「いつもすまんな。苦労をかける」
源三郎は武士は食わねど高楊枝の逆を行くような実直な言葉をお花に掛けると、お花は逆に頭を下げた後に言った。
「それは言わない約束ですよ」
「うむ。そうであったな」
お花は源三郎の頷きを見てから、屍に合掌した後に医院へと戻る準備をする。医院も次郎一人ではてんてこ舞いになっているのだろうと考える。お花は源三郎と喜助達に頭を下げた後に水茶屋の前で待たせてある籠に乗り込むのであった。
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