快晴のアメフラシ
三ツ石
プロローグ・零日目
私は〝マーガレット・サッチャー〟だ。
たとえば、クラスでいきなりそう名乗ったら、私は鼻で笑われるか、冷たい一瞥の後、無視を決め込まれるのだと思う。
けれど、少なくとも、私は信じている。自らが現代に生きるマーガレット・サッチャーなのだと。
いつだったか、世界史の授業で彼の女史に関して取り上げられた日、その偉大さに感服した誰かが私のことを「鉄の女」と評していたのを偶然、聞いたことがある。だから、私がマーガレット・サッチャーであることはもはや公然の事実とさえ言えるかもしれない。きっと皆、心のなかでは私を認めているに違いないのだ。
そんなふうに大仰で自己暗示的な自信を胸の内に秘めつつ、今日もくすんだリノリウムが敷かれた学校の廊下を、私は威風堂々、だけど優美に闊歩する。
大きな窓から差し込む西日が眩しい。私の自慢の長い黒髪は、その橙の光をいっぱいに受けて、背中を艶やかに揺蕩っている。グレー地のスカートは私の膝あたりをひらひらと揺れている。それはまるで私の純然たる女性らしさを世界に向けてアピールしているみたいだった。つられるように自然と気分も上を向く。
誰よりも強くて賢くて美しい。──それこそ私の目指す理想の女性像だった。
だけど、少しでもその理想に近づくべく悠然と髪を靡かせながら歩いていると──ほら来た、下卑た薄汚い外道ども。世間で言うところの「男子」どもの不躾な視線が、すれ違いざまに私の肌を撫でさらっていくのだ。
服装からしてあれは応援団部だろうか。わざわざ真っ黒な学ランに金ぴかのボタンなんか主張させて、自らがいかがわしい獣であることを世に知らしめているみたいだ。せめて、その襟につけた白いカラーが首輪の役割を果たしてくれることを願うばかりである。
私は背筋をぞわぞわと震わせながら、彼らのおぞましさに膝を折ることがないよう、行く足にいっそう力を込めた。
幸いにも、この時間まで校舎に残っている人は多くない。せいぜい熱心な文化部か、あるいは大学受験を控えた三年生が居残って自習しているくらいのものだろう。窓の外に見える校庭でもサッカー部が練習の後片付けを始めている。
その横、校庭の脇に伸びる車路を広がって歩く女子テニス部の集団がふと目に入る。そしてつい反射的に私は顔を背けてしまう。
じくりと胸に棘が刺さるような痛みを感じた。その痛みを小さなため息に乗せて吐き出す。ため息を吐いてから、俯きかけていた顎を慌ててぐいっと持ち上げる。
何を落ち込むことがあるの。私は強い人間。ひとりだって生きていけるようなしなやかで逞しい女こそ、私の目指すべき姿だったはずよ。
自分を鼓舞するかのように思い直した私は、忘れ物を取りに返るべく、教室へと急いだ。
爽やかだけれど少し物寂しい晩秋の風が、わずかに開いた窓の隙間から吹き抜けてくる。
大きく傾いた太陽の光が廊下に寒々とした影を落として、私はその間を縫っていく。
びょうっと、ひと際大きい木枯らしが影の上をさらっていったとき、風音に混じって後ろから私を呼ぶ声がした。
「春木さんっ」
ふわりと弾むような軽やかな呼び声に誘われて振り返ると、そこには一人の〈少年、あるいは少女〉の姿があった。
「楯無、さん。何かしら?」
私は返事をする。いったい何の用だろうと訝しんでいると、私よりもいくらか背の低い〈彼、あるいは彼女〉は、柔らかく切り揃えられた前髪の分け目からくりんとした大きな瞳を覗かせつつ、不安げな表情で答えた。
「あの、飯田くんが、『教室で待ってるから来て欲しい』って」
飯田……。
その名前を聞いた私は口の中に広がった苦みに顔を歪める。またかという落胆にも似た腹立たしさが沸き起こる。いい加減、あの男の恋愛ごっこに付き合わされるのも懲り懲りだった。
そんな気さらさらない。はっきりそう伝えようと私は口を開きかけた。
けれど。
「じゃあ、あの、ボクはこれでいくね」
楯無さんは意味深な目配せとともに踵を返してしまった。
「ちょ、ちょっと」
私の抗議の声も届かず、〈彼、あるいは彼女〉は、男子にしては長い、しかし女子にしては短めの後ろ髪と、私と同じグレー地のスカートをひらめかせながら、階段の角へと去っていくのだった。
私は虚しく空を切った右手を下ろした。しばらく呆然と楯無さんが去っていた方を眺めていたけれど、やがて気持ちを切り替え、鉛のように重くなった足を引きずって、再び自分の教室の方へと歩き出す。
一瞬、教室には行かず、そのまま帰ってしまおうかとも考えたが、すぐに思い直す。
そういうわけにもいかない。私が机の引き出しに置き忘れたのは、二日後に控える修学旅行のしおりだ。明日、改めて取りに来るという手も無くはないけれど、わざわざ土曜日、しかも修学旅行前日にそれだけのためにはるばる電車に乗って学校に来るというのもいかがなものだろう。
よりにもよってこのタイミングなのね……。
私の間の悪さは昔から馴染み深いけれど、
平時なら、にべもなくお役所仕事的に交際を却下する。これは間違いない。けれど、今の私はちょっとした緊急事態だった。この世に生を受けて十数年、かつて揺らいだことのなかったアイデンティティが今、まさに危機を迎えている。
だから、飯田柊哉をすっきりきっぱり拒絶しきれる自信がなかった。
何故なら彼が男で、私が女で、例えそこに恋やら愛やらが芽生えたとて何ら不思議はないから。
人類、もっと言えば、生命が誕生してから気の遠くなるような歳月を経て現代に至る中で、幾度となく繰り返されてきた自然の摂理に裏付けられているように、私もゆくゆくは男と結婚して子どもを産むのだと、何の疑いもなく思い込んできたから。
だが今、その根底が揺るがされている。世界を支える柱に亀裂が入っている。
このままでは、女の私が男の彼の好意を拒むことに別の意味が生まれてしまう。それでは困る、と思う。
全く、誰も彼もどうして私に告白してくるのだろう。鼻からゆっくり息を吐き出して、鈍る足をどうにか前に押し出す。
いつの間にか太陽は遠くに聳えるマンションの影に隠れていて、廊下はほの暗く、冷たい空気に包まれている。
果たして私は、飯田柊哉を拒絶することができるのだろうか。
らしくもない恋愛的な苦悩に翻弄される自分に嫌気が差しつつも、こればかりは真剣に悩まざるを得ず、そのジレンマが私をがんじがらめにしていく。
はあ、と知らずため息が漏れた。そして思う。
明後日から修学旅行が始まるのだ、と。
人生で、最初で最後の高校の修学旅行。
もちろん楽しみではある。しかし同時に怖くもあった。何かが終わってしまうような、平穏が一変してしまうような恐ろしさがずっと心の隅に居ついている。
それは高校生活が一区切りつくことによる将来への不安なのか、もしくは子どもから大人へと変化していく前触れみたいなものなのか、それとも──。
三泊四日が終わったとき、私はどうなっていることだろう。
襲い来る不安と、嫌悪と、恐怖と、自分の中にわずかに生まれた理想から逃れるようにして、私は斜陽の中を突き進んだ。
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