炭火の赤く永く輝くように
@yamakazura
第1話 雪降る故郷で再会を
その年の冬休み、僕は卒論の作成に追われていたけれど、陰気な下宿先で正月を迎えるのは耐えられそうになくて、10日間ほど実家に帰省することにした。
新幹線で3時間、それからローカル線で1時間。僕の実家は、街と呼べる地域と、田舎としか呼べない地域の、やや田舎寄りにある。
地元の冬は恐ろしく寒い。盆地であるためだろう、冷たい空気が滞り、いつまでも佇むのだ。
夜の車窓から見える風景は薄く積もった雪により白っぽい。電車はだんだんと僕の故郷へと近づいていく。
時刻は20時。休日のためか、それほど乗合人は多くない。駅に着いて扉が開かれるたびに、車内に流れこんでくる空気はだんだんと冷たくなっていく。セーターを着た上にダウンを羽織っていたけど、僕は、もう1,2枚着込むべきだったと後悔した。
*
実家の最寄駅に電車が到着した。僕は旅行かばんを手にしてホームに降りる。この駅で降りたのは僕だけのようだった。
ホームに積もった雪は靴底を埋める程度だった。見上げた空には灰色の雲が厚く広がり、鈍色の雪がまばらに空から漂い落ちていた。
電車が発車して遠ざかっていく様子をその場で見送る。
ホームから見渡す光景は僕が見て育った景色そのままで、あたりの空気は僕が嗅いで育った匂いそのままだった。半年に一度は帰省しているにも関わらず、やはりここは僕にとって特別な場所だった。
なんとなくため息をつく。口からはかれた息が白く立ち上り霧散した。
行くか。ダウンのポケットに突っ込んでいた切符を左手で取り出し、旅行かばんを持つ右腕に力を入れ、改札に向かう。
「改札」と言っても、いまだこの駅は無人である。この時代なのに自動改札すらない。だから切符を使わざるを得ないのだ。ド田舎め。
当然、立派な駅舎があるわけでもなく、数人が座れるばかりの小さな待合室があるだけだ。そして、その待合室の脇にかけてある小さな切符入れが改札代わりだ。ド田舎め。
*
ふと、件の待合室を見ると、こちらを眺めている人影に気付いた。向こうも僕の視線に気付いたようだ。
少女が僕の方に駆けてくる。
僕の前まで走ってきて、たんっと僕の前で止まる。
「たっくん、おかえりなさい!!」
この女の子は、風見 玲。
ずいぶん前から僕の家と付き合いのある母子家庭の一人娘だ。うちの母親と玲の母親は気安い仲で、僕と玲も昔から交流がある。
風見家がこの地域に越してきたのは7,8年ほど前だったか。
母に連れられてやってきて初めて会ったときの玲は、まだ4,5歳だったと思う。当時は高校生で一人っ子だった僕は、ずっと、弟か妹が欲しいと思っていた。そうして現れた玲を僕は妹のように慈しんだ。玲も、僕を兄のように見ていたと思う。
やや反抗期だった当時を考えると、実際に弟か妹が居れば、絶えずケンカしていただろう。だけど、10も歳が離れていて、別の家系の子であることもあり、僕らはいっさい仲違いすることなく、よく一緒に遊んだ。ただただ玲が愛おしかった。
僕は玲の頭をぽんぽんと叩いて答える。
「ただいま」
僕を見上げる、薄い桃色の頬をした少女。僕は、故郷に帰ってきたのだと心から実感する。
えへー、と僕を見上げる玲に尋ねる。
「寒くなかったか? だいぶ待ったんじゃない?」
「ん、さっき着いたところ」
僕は噴き出しそうになるのをこらえた。付き合い始めた彼氏とのデートみたいなことを言う。
しかし、玲が言うなら本当に「さっき着いたところ」なのだろう。僕の帰省の日程は、僕の母を通して、風見家に筒抜けに伝わる。
「玲と会えて嬉しい」
そう言って、玲の頭をぐりぐりと撫でてやる。
「やーめーろー」
ぐりぐりされるまま嬉しそうに玲は声を上げる。
しばらく地元を離れていると、久々に会った人とはわずかに壁を感じる。その壁は、数時間も顔を合わせていれば消えてしまうくらいの薄いものだが、たとえ両親を相手にしても現れる。
しかし、玲だけは唯一の例外だった。
いくら時間が空いても、この子と再会するときにはその壁は現れない。その姿を見た瞬間から、まるで昨日まで一緒に過ごしていたような親密さが帰ってくる。
「……10日間くらいしか居られないんだよね?」
ぐりぐりをやめると、玲が尋ねる。
「うん。大学で卒業論文というのを書かないといけないから、あまり長く居られない」
「そっか……。短いね……」
長期休暇のあいだはだいたい1ヶ月ほど帰省している。できることならこの冬もそれくらいここに居たい。卒論いやだし。
「行こうか」
「……うん」
*
玲と並んで短いホームを歩く。切符入れに切符を落とし、駅を出る。
屋根のない駐輪場に、雪に埋もれた自転車が凍えていた。街灯のまばらな細道に積もった雪にはそれほど多くの足跡はない。雪に覆われた畑の向こうには家屋が並んでいる。なんとも、都市と田舎の中間の風景である。
「あれ」
見慣れた風景に、小さな違和感を覚える。
「あのアパートあったっけ?」
前回の帰省では確かに畑だった場所に、真新しい2階建てのアパートが立っていた。
「そういえば、夏休みが終わったころにできた」
「そっか。ここもちょっとずつ変わってるんだな」
「私の家の近くにも何件か建物できたよ」
「そっか」
畑と田んぼしかないこんな場所だけど、これから宅地が増えていくのだろう。すこし寂しい気がした。
「玲、手つなぐ?」
僕は空いている左手を玲に差し出す。
「あ! つなぐ!!」
玲は、右手につけていた手袋をいそいそと外す。そのままでいいのに。そうして僕の手を取る。玲の小さな手はとても暖かかった。
「あったかい」
「たっくんの手が冷たすぎる」
「こんな雪降ってると思わなくて薄着で来ちゃったよ。電車のなか寒かった」
「向こうはそんなに寒くないの?」
「寒いのは寒いんだけどね。なんかこう、寒さの質がこことは違うというか」
「ふん」
玲は、よくわからぬ、という顔を向ける。
「玲、そのコートいいね。暖かそう」
説明するのも難しいので話を変える。薄い桃色のトレンチコートというのかな? 玲の体より少し大きめだけど、よく似合っている。
パッと笑って玲が答える。
「いいでしょ! たっくんのお母さんと買い物したときに買ってもらった!」
相変わらず仲がいい。うちの母は娘が欲しかったらしく、その影響か、かわいらしい方向にやや趣味が振り切れているが、玲には似合っている。
「似合ってるよ。かわいい」
「ん」
「かわいいでしょー!」と続くと思ったけど、すこし手に力が入っただけで、玲は何も言わない。そらした顔の表情は伺えない。かわいいとか言われるのが恥ずかしくなってきた年頃か。
「かわいい、すごいかわいい」
そう言ってやると、玲は「あー」と小さくつぶやいて、つないだ手をぶんぶんと振った。
しばらく目を合わせてくれなくなったので、僕は玲に近況を伝えた。
書かないといけないものが上手く書けないこと、来年以降も研究を続けること、それから先のことはよくわからないこと、そんな話をした。
玲の相槌の数も増えてきて、そのうちいつもの空気が戻ってきた。
僕のことを伝えたあとは、玲の近況を聞いた。
修学旅行のお化け屋敷が怖かったこと、中学校に上がったら吹奏楽部に入りたいこと、中学校で習うことは小学校とは違うと聞いて恐れていること。
前の帰省に比べて、玲の話は具体性を増したように感じた。声も少し低くなった。背の高さはそれほど変わってないようだけど、なんとなく大人っぽくなってきている。
色んなことが少しずつ変わっていく。
*
駅から15分ほど歩いて、玲のアパートにたどり着いた。僕の実家はここから歩いて5分ほどだ。
チャイムを鳴らすと陽登美さんが扉を開ける。玲の母親だ。
「お久しぶりです、ひとみさん」
「やー、たっくん、夏以来だねえ。元気だった?」
「卒論で死にそうな以外は元気です」
ふふ、とひとみさんが笑う。
僕は、玲も好きだが、ひとみさんのことも好きだった。
開けっぴろげな人で、母には言えないが、ひとみさんには相談できた悩みがいくつもある。僕にとって、玲が妹なら、ひとみさんは2人目の母と言えた。
「玲を送ってくれてありがとう。玲ってば、どうしてもたっくんを迎えに行きたいって言って……」
「あー!!」
玲が叫んで、ひとみさんの言葉を遮る。
「違うし! たっくん1人で帰ってきて、その、寂しいだろうな……って思って……!」
かわいい反応するじゃないか。でも嬉しい。玲の頭をぐりぐりしてやる。
「わかったよ。玲にすぐ会えて嬉しかった。迎えに来てくれてありがとう」
玲は、ぷいと顔を背けたまま、ぐりぐりされていた。ひとみさんの方に顔を向けると、なんだこの人は、にまにましている。
「10日間ほどこっちに居るんだよね。今日はもう遅いからだめだけど、そのうちゆっくり話そう」
「はい、ぜひぜひ」
「じゃあ玲、帰っておいで」
ぐりぐりを離してやると、僕の顔を見ることなく、玲は靴を脱いで室内に入っていった。
「……玲、やっぱりたっくんのこと大好きみたい」
「僕も玲のこと大好きです。ほんと、本物の妹みたいな感じです」
「そうかそうか、たっくんみたいなお兄さんが居てくれて、本当に助かってるよ」
「でも、玲もそろそろ中学生ですね。……次の帰省ではもう喋ってくれなくなるかな」
「いやー、そんなことはないんじゃないかな」
ひとみさんはどうにもさっきからにまにまし続けている。
「ともあれありがとう。またそのうちにね」
「はい、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
そう言って、ひとみさんは玄関の扉を閉じた。
……さて、僕も帰るか。
隣に玲が居なくなったことに寂しさを感じたが、ひとみさんの言うとおり、この帰省のあいだに何度か会うことができるだろう。
僕は、旅行かばんを持ち上げ、左手に残る玲の手の温かみを思い出しながら実家へ向かった。
*
僕の実家は一軒家だ。ご近所からは少し離れている。そう広くもない庭だが、少々ガーデニングの趣味を持つ母の手により、数々の園芸植物が植えられている。まあ冬なので今はほぼ土だが。
例の"壁"が心に浮かんできて、わずかに緊張する。
いや、実家に帰るのに緊張してどうする。かばんを持ち直し、玄関を開ける。鍵は掛かっていなかった。
「ただいまー、帰りましたよー」
リビングの方へ声をかける。ぱたぱたとスリッパの音が聞こえてきて、母が出てきた。
「おかえり。寒かったでしょ」
「ただいま。寒かった。ちょっと薄着すぎた」
「まあまあ、あがりなさい。お父さんも待ってるよ」
「はいよ」
母はぱたぱたしながらリビングへ戻っていった。僕は靴を脱ぎ、旅行かばんを持ったままリビングに入る。
「おっ! おかえり」
「ただいま帰りましたよ」
ビールを飲みながらテレビを見ていた父が僕に声をかける。
「卒研シーズンだよな? 卒論きついだろ」
「自分史上で一番きつい」
ふふっ、と父は笑う。
「風呂入ってこいよ。それからビール飲もう」
「望むところ」
僕は荷物を自室に運び、多少の整理をしたのち、風呂に入った。
下宿先ではだいたいシャワーで済ませて、湯船に浸かることはほとんどない。父たっての希望だったらしく、うちの風呂の湯船はけっこう広い。十分に足を延ばせる。やはり湯というのはいいものだな。ぼんやり天井を眺めているうちに、4時間の移動の疲れが抜けていくような感覚を覚える。
例の"壁"は、思いのほか、早くも薄まった気がした。考えてみると、ひとみさんともいつも通りに会話できた。
大学に入るために家を出るまでは、まさに僕は反抗期で、両親のすべての振舞いにいちいちイラだっていた。大学1年の最初の帰省ではそのイラだちを引きずっていた。なかば義務感から帰省していた。その後、そのイラだちは徐々に溶けていった。今回の帰省では、父と酒を飲めることを楽しみにしていたことに気付く。
僕も大人に近づいているということか。
僕も、玲も、この町も、少しずつ変化していく。
まあたぶん、それでいいんだろう。
*
風呂からあがると、母の手料理がテーブルに並べられていた。椅子についてそれらを食べつつ父とビールを飲んだ。
父も修士まで上がった人で、研究生活の困難さで盛り上がった。
「いや、俺もさ、修論ほんとにヤバくて、締め切り前に3徹とかした」
「そんなに」
「あれが俺の一番つらい記憶だな。でもあの研究生活があったから、そのあと会社でしんどいことがあっても、『クソが、あのときに比べたらよ』って思ってやってこれた」
「50こえた男の人が『クソが』とか言わないの」
洗い物を終えた母が椅子に座りながら言う。
「ごめんなさい」
父は母よりずっと年上だが、しかし母に弱い。
でも、「尻に敷かれている」というふうではなく、互いの信頼が奥に見える。そういう雰囲気も反抗期の僕にとっては苛立ちの元だったけど、今なら微笑ましく感じられる。こういう家庭を築くことができればいいなと思う。自分で考えて恥ずかしいな。
それから母も加わり、帰省1日目の夜は楽しく更けていった。
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