異世界にひとり。でも。
また夢を見た。
そして、これは“俺の記憶”なのだとすぐに気付いた。
俺にはかつて身体があった。俺自身の器とも呼べる身体を持っていた。誰だってそうだ。一人の魂には一人の身体があり、動かせる。そこには何のノイズが入りこむこともないし、違和感があるわけでもない。夢の中の俺も、まさに“それ”を持っている。
けれど、その身体は他と比べてほんの少しだけ不自由だった。
だから、俺は自由になりたかったのだ。
―――
夢の中では時が早回しで過ぎ去っていく。楽しいことも悲しいことも、大事なこともどうでもいいことも、人生のあらゆることは目を離した隙に後方へと飛んでいく。
時が経つにつれ、周囲はやがてはっきりとした色彩をもつようになる。しかしそんな未来に反比例して、俺の身体はまたゆっくりと動かなくなっていった。ナントカ病だとか言われた気もするがもう覚えちゃいない。一人に与えられる一つの身体。しかしそれは自由に選ぶことができない。確かに無理をさせすぎたのは事実だった(あるいは重なる不健康な生活と飲酒喫煙がそうさせたのか)かもしれないが、俺の身体はたまたま“不良品”だったようで、たったそれだけのことでガタがきた。
何故自分だけがこんな目にあうのか、何故他の人間はまだまだ元気に動いていられるのに、何故自分だけが――激しい頭痛と嘔吐感、沸き立つ理不尽と憎悪を押さえつけるように、俺は血を吐きながら目の前の仕事に没頭した。そんな状況になっても、否、そんな状況だからこそ、俺はただひたすら仕事をするしかなかったのだ。
俺にはやりたいことがある。成し遂げたいことがある。だが“やりたいこと”を自由にできる人間などいない。そこにはいくつもの障害がある。体調不良と社会と人間関係に揉まれ擦り切れ、身体と精神にはどんどん軋轢が生じていく。その場しのぎの対応策もすぐに通じなくなっていく。ああ、何故自分だけが。
やりたいことを自由にやれる。そんな世界を作ろうとした。それが小さい頃から夢だった。そのはずなのに、他でもない俺自身が一番不自由だった。
みんなも自由が欲しくないのかと俺は訴えた。俺でさえそうなのだから、みんな同じことを考えているのだろうと思っていた。そのために協力してほしかった。だがそれは違った。お前みたいに夢見ちゃいないのだと言った。自由なんて何をしていいか分からなくて面倒くさいだけなのだと。
悔しくて叫ぼうとしたが、声は出なかった。
代わりに、たくさんの血と泥が口から出てきた。
後ろを振り返る。置いてきたもの。見過ごしてしまったもの。大事だったはずのもの。それらすべてが遠く小さく見えた。どれか一つでもこの手にすくっていれば、あるいは別の人生があったかもしれない。それらが何だったのか、今はもう思い出すことすらできない。故に俺は前を向き直した。前だけを見ていたかった。俺にはもう前だけしかないのだから。
けれど前を向いても道は長く残っていなかった。身体と社会が俺の希望にノーを突きつけたのだ。お前はもう限界だ。お前のやっていることは駄目だ。お前の身体はもう動かない。お前の仕事はすべて無駄に終わった。医者と同僚はそう告げた。やがて俺の身体はろくに動かなくなった。やりたいこともできなくなった。
それでも、すぐに死ねるわけではなかった。それはまさに絶望の追い打ちであるとも言えた。このまま細く生き繋いでいるだけならすぐに死んだほうがマシかもしれない、とさえ思った。希望もないなら自ら死んでしまったほうがいい。そのほうが諦めもつく。嫌だ。まだ諦めたくない。こんなところで終わっていたくない。いや、諦めろ。どうせ死ねば何を考えなくても良くなる。死んでしまえば人生はそれっきりで、前も後ろも振り向かなくてよくなる。たったひとつの魂が足掻いたところで、変わるものも救われるものもない。
俺は葛藤した。俺は悩んだ。俺は叫んだ。俺は絶望した。
そして俺は。俺は。俺は。私は。俺は。
そして俺は――その後、どうしたのか?
―――
ふと、暖かい手のひらが額を撫でる感覚があった。
病院のベッドにいた時の記憶だ。冷たい水で肌荒れでもしたのか、手のひらはところどころが乾燥していた。それでも俺にとっては優しく、暖かった。
少しだけ自由のきかない身体で生まれてきた俺を――あの人はどう思っていたのか。謝られたような気もする。泣かれたような気もする。恨んではいないかと言われたような気もする。
俺は、なんて返したんだっけな。
―――
『day:46』
夢から醒めると、そこにはまた夢が広がっていた。
目の前には俺がいた。確か小鬼どもを倒してからすぐに気絶してしまったはずだが、気付くとすっかり夜になっていて、どこかの廃屋の中にいた。無意識のまま一人でここまで来られたのか――ともかくそれは不思議な光景だった。夜の暗闇の中、寝ている俺を“俺の身体”が膝枕していたのだ。悪夢を見て唸っていたらしい俺の頭を、俺(の身体)は母親が子供にするような手つきで撫でていた。片っぽだけの右手で、ずっとそうしていた。
俺が、俺を見ている。こんなことは前にもあったな、と思い出す。これが初めてではない。あの時は高熱でうなされていたせいだったか。目の前にいるのは俺であって俺ではない。俺の中に潜む少女の、赤い髪の……“彼女”の魂と身体だ。おそらく俺の意識が強く飛ぶとそうなるのだろう。どういう原理かは知らないが、一種の幽体離脱か分離現象のようなものだ。
そして以前、俺は彼女に睨まれた。お前みたいな亡霊がどうして自分の中に入っているのだと。無言のまま訴えられた。だが今回は違った。赤い髪の少女は俺の額をゆっくりと撫でている。相変わらずの無表情だがそこに嫌悪の色はない。さらによく見れば、その頬には涙のあとがあった。
彼女が俺から何を感じ取っていたのかはすぐに分かった(彼女は彼女であると同時に俺自身でもあるからだ)。だからきっと、こうしてくれたのだろう。自分自身の身体に慈しまれるなんてずいぶんおかしなことだと思ったが、悪夢から醒めた後の目覚めにはいくらか有り難かった。そうして俺はしばらく撫でられ続けていた。思えば、こんな安息の時を過ごすのはいつくらいぶりだろうか。
目の前にいる彼女は傷だらけで、左片腕は義手ごと踏み砕かれた付け根に包帯を巻いていた。あちこちに乾いた血がこびりついていて、吐く息も辛そうだ。あの戦闘で負った痛手は浅いものではない。自分自身の身体なのにひどく痛々しく見えて、俺は罪悪感すら覚えた。そんな身体だというのに、彼女は俺を抱き、眠るでもなく、静かにゆっくりと息をしている。
ああ、たぶん、ひとまず……彼女は、とりあえず俺のことを許してくれたのかもしれない。彼女の顔を見ながら、俺はそんな風に思った。
そう安堵したら再び眠気が来た。今度は抗いようのない睡魔だった。
(いったい、俺は誰なんだ?)
ぼやける意識の中で、最後に、絞り出すように俺は問う。
前に同じ質問をした時は答えが返ってこなかったけれど、それも今回は違った。
――俺は俺で、私は私。
そんな答えが返ってきた。決して答えにはなっていない。それでも言いたいことは分かる。俺はひとりで、私もひとり。俺たちは異世界でひとり。でも一人ではない。
思えばこの異世界に来てどれくらいの日数が過ぎたのか、バカなこともやったし、迂闊な行動もしたし、痛い思いも面倒な思いもした。でもそれ以上に“楽しかった”のだと彼女は言う。それを聞いて俺もどこか救われた。自由をのぞむ魂ひとつがこの状況を少しでも楽しんでくれたのだというなら、きっと俺にとっても良かったことなのだろう。俺の自由は、私の自由なのだから。
これでいい? と言わんばかりに、彼女はゆっくりと瞼を閉じる。
同時に、俺も意識を失った。
―――
『day:48』
翌々日。戦闘で負った傷も癒え、なんとか動けるまでに快復した俺は旅を再開することにした。まだ全身の……特に折れた肋骨あたりに痛みが残るが、内臓まではやられていないらしい。踏み砕かれた左腕は何故かそこだけが異常な再生力で元通りになったものの、もちろん左手までは再生しないままだ。どこかでまた義手を作り直す必要があるだろう。
武器はだいたい使ってしまった。鉈ももう使い物にならない。まあ、積極的に戦闘さえしようとしなければ、またどこかで拾えるだろう。そう、“どこかで何かが拾える”。それがこの世界の、いつも通りの日常。
最低限残った持ち物を確認し、缶詰の食事を取り、廃屋から出る。
さて、どこに行こうか。他に何か目的はないのか、と俺は自分自身に尋ねた。
それとも“俺”は何かやりたいことはないのか?
そんな質問が返ってきた。
(どうしたらいいと思う?)
再び彼女にそう問う。
今度は、答えがなかった。
―――
本日の探索結果:発見済住人、なし(世界も、俺も……こうしている限り、いつまでもこのままで終わらない。けれど、いつまでもこのままではいられない)
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