異世界にひとり

黒周ダイスケ

俺は誰だ。

 森の中で目を覚ます。


―――


 うつ伏せたまま、土に埋まっていたらしい。痛み軋む身体を起こし、口に詰まった土を吐き出す。朦朧とする意識で、本能が求めたのは水だった。口を濯ぎたい。水分が欲しい。ひどい頭痛を堪えながら、現状認識もままならない脳ミソで歩く。ひたすら歩く。


 次に感じたのは肌寒さだった。どうも何も着ていないらしい。腕も脚も、乾いた泥が付着している以外は何も身に纏っていない。服だ。服などないか。寒い。いや、先に水だ。喉が渇いた。ここはどこだ。寒い。寒い。喉が渇く。ここはどこだ。水。みず。みず。みず。


―――


 歩いてからほどなく、目当てはすぐに見つかった。

 木々の先、陽光に照らされてきらきらと光る沢を見つけた時は、口の中に生唾が溢れてくるような心地さえした。覚束ない、バランスのとれない足取りで、吸い寄せられるように向かう。

 透明な小川の水も、実は雑菌だらけだという。生水は避けたほうがいい。さて俺はこんな知識をどこで覚えていたのだったか。極限状態の瀬戸際で、なぜそんな知識が出てきたのだろうか。飲めば体調を悪くする。それは分かる。分かっていても、本能にはあらがえない。沢の水を手ですくい、飲む。また飲む。一心不乱に飲む。その透明度に反して泥と生臭さの混じった水をただ飲む。口を濯ぎ、身体ごと川に飛び込み、全身についた土を洗い流す。


 その時点で、ようやく俺は“生き返った”ことを実感した。


―――


 さて。


 ここはどこだ。


 俺は誰だ。


―――


 目覚める前の記憶は不確かだ。毎日会社に行き(会社とは何だ?)ただひたすらに働き、家に帰る。翌日もまた働き――そうだ。だんだん思い出してきた。少なくともこんな森の中で土に埋まっているような暮らしではなかった。ここではない場所で日常を過ごしていた。

 そこから先の記憶は曖昧だ。思い出そうとしても脳ミソのどこかでロックがかかっている。思い出そうとするとまた頭痛がしてくる。水を飲み過ぎたのも原因だろう、その不快感をトリガーに猛烈な吐き気が襲ってきて、俺は小川の中に半身つかったまま嘔吐した。胃液と泥が混じった吐瀉物が透明な川の水を汚し、流れていく。そしてまた俺は口を濯ぐ。


 一つ、おかしな点がある。

 明らかに“これ”は俺の身体ではない。川の水で汚れを落とした裸体を、その手でくまなく触ってみる。俺の意識が動かしているから俺自身の身体であることは間違いないのだろうが――明らかに細い。細くて白い。脚や腕など、折れてしまいそうに細い。はっきり言ってしまえば、俺の身体は若い女になっていた。“こうなる前”の俺が何だったかは覚えていない。だが、少なくともこんな身体でなかったのは確かだ。


 ますます分からなくなっていく。

 目覚めてから数十分経ってもまだ分からない。

 ここはどこで、俺は誰だ。俺の身体は一体どうなってしまったのか。


 さらにもう一つ、おかしな点がある。

 左手の甲に埋め込まれた金属球がそうだ。それはピンポン玉くらいの大きさで、半球が身体に埋まっている。肉を巻き込んでいるから無理に取り外すことも出来なかったが、強く押したりしなければ痛みもない。これは何だ。“こうなる前”の俺の左手にこんなものは無かったはずだ。いや、本当にそうかはやはり断言できないのだが。


―――


 森を抜ければ人がいるはず。人がいれば衣服もあり、食料もあるはず。

 現状認識に飽きた俺はそう考え、歩き始めた。この“少なくとも俺のものではない身体”を動かすためのキャリブレーションを兼ねて、意識するように歩く。そうして動かしてみれば、この身体はだいぶ身軽だった。ほぼ衰弱状態にあっても肌の血色は良く、冷たい川の水を浴びてなお体温は暖かい。


 だが人里に出たとして、今の俺の身なりは裸の女だ。怪しいものではない、と言い切るのは難しいだろう。どう答えるか。森の中で土に埋まっていました、と素直に言うか。

 念のため発声練習をしてみる。口を開け、喉に力を込める。だが声は出なかった。ただ衰弱しているから、というわけではないだろう。シンプルに、声を出すことができない。無理やり発声しようとしても咳き込むだけだ。これ以上やるとまた吐くことになる。せいぜいできるのは、う、う、と唸ることくらいだ。その声は妙に柔らかく、高く――やはり俺自身の声ではないように思えた。


 声も出せない、裸の身なりで森に一人。まるで動物に生まれ変わってしまったかのようだ。


 ああ。そうか。

 俺は“生まれ変わった”。もしそうだとしたら?


 自分で思考しておいて、その言葉が引っかかった。こうなる前の記憶と参照しても、そう考えると腑に落ちる。俺のものではない身体になって、俺の知るところではない場所で目覚めた。つまりそれは“生まれ変わった”ということになる。


 しかし、何故?


―――


 考えながら歩いていたら、森の中に一件の家を見つけた。木で出来た小さく粗末な平屋で、最初は林業などで使うただの倉庫かと思ったが、近づいていくにつれ、それは住居として建てられたものであったと分かった。

 人気はない。住人と鉢合わせないよう身を隠す。うっかり合ったとしても声も出なければ言い訳もできない。通報されるか、さもなくば撃ち殺されるか。ほとんど害獣にでもなったかのような気分でゆっくりと忍び寄る。

 果たして人は住んでいなかった。正面玄関から入って、真っ先に“電気は付いていないのか”と考えてしまった(壁にスイッチなどあるはずもないのに)。それどころか、しばらく住人が帰ってきていないようだった。


 だが、廃屋、と断定するには、そこは妙に小ぎれいだ。まるで――ある日突然、住人が消えてしまったかのように。


 人に会えなかった、という事実よりも……ほっとした、というのが正直な気分だ。不法侵入や窃盗であることは間違いないのだろうが、残っていた衣服を漁らせてもらった。埃まみれ、虫食いだらけの粗末な服。服というよりも、布きれを裁断して服っぽく作った何か、と言ったほうが正しい。無いよりはマシ、程度の布きれの埃を落とし、着る(というより、巻き付けた)。

 そこでようやく、俺の脳ミソは再び現状認識を再開する。


 残っていた家具。台所と食器。何かのメモ。寝台。家の造り。

 少しばかりの“家捜し”の結果、俺が出した結論はこうだ。


 ――“ここは俺の知る世界ではない”のかもしれない、と。


―――


 とはいえ、森の中の小屋だけを見て出した結論としては性急すぎだ。あの家の住人だけがあんな“自然派”な生活をしているだけかもしれない。

 だからこそ、まずは人里を探す必要がある。布きれとはいえ胸と局部を隠した身なりなら、少なくとも知能を持った生き物とは見做され、初っ端から害獣扱いされることもないだろう。今の俺は“空き巣を行って衣服を窃盗する程度には知能のある、女の見た目をした、獣のような人”くらいになった。


 加えて、早く人里を探さなければならない切実な理由はもう一つある。それが食事だ。途中で実っていた謎の果実をかじった(腐ってはいなかったが、無味で、スポンジ状のリンゴのような食感だった)だけで、腹を満たせたわけではない。いくら“まだ動く”と言っても、この身体が少なくともきちんとした生命体である以上、食事と水分の摂取は不可欠だろう。そこらへんの草を食って消化できるかどうかは試してはいないが、出来るならまずは人間の食物を摂取しておきたい。


 状況は認識できていない。

 だが俺はこうして“生き返った”。

 だから次の目標は“生き延びる”ことに変わった。


 俺は誰だ。ここはどこだ。それを知るために。


―――


 チュートリアルが終了しました。


―――


 ……。


 ……。


 ……。


 左手の甲に埋め込まれた金属球が、奇妙な鳴動をはじめる。

 後回しにしていた謎の一つが、自らを主張しはじめた。そう、この金属球は一体何なのか、ということだ。鳴動はいよいよ手の骨にまで伝わるほどに大きくなる。さらには痺れまで感じるようになってきた。微弱な電気でも流れ出しているのだろうか。

 おそるおそる、右手の指で球に触れてみる。


 銀色の球が“赤く”発光する。


『主目標が更新されました:生き延びろ』


 突然、脳ミソにメッセージが流れた。ひくっ、と反射的に身体が飛び上がる。もし声が出ていたら悲鳴を上げていただろう。右掌で、さらに球を包み込むように触れる。指の間から漏れ出す赤い光はさらに強くなっていく。触れる面積に比例して、頭の中に情報が流れ込んでくる。大量の情報が――俺の脳ミソを、食い破るように。


『■■■■』


『day:1』


『筋■:5』

『感性:6』

『■体:3』

『■■:1』

『知■:4』

『敏■:2』

『■:2』


 その情報は何だ?

 これは俺の情報か?

 これはまるで――。


『サーバーに接続できません』

『サーバーに接続できません』


『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』『サーバーに接続できません』


 衰弱状態の身体に一気に流し込まれたメッセージ(警告文、なのか?)に、俺は再び猛烈な目眩と不快感を催す。その場にへたり込み、もう一度嘔吐する。う、う、と声にならない声を上げながら、先ほど摂取した果実も水分も、全て胃液と共にぶちまける。


『後日実装予定です』


 朦朧とする意識の中、次々と、ノイズだらけの情報が容赦なく注がれていく。この金属球から手を離せば止まるのだろうが――俺の本能はそれを拒否している。不快感に抗いながら、それでも“現状認識”を止めてはいけない、と言わんばかりに。だがそのどれもが、まるで意味不明だ。高熱を出した時の悪夢のように、グチャグチャの断片が脳ミソのあちこちにバラ撒かれていく。


『詳細は■■■■をご覧下さい』


『実行します』


 そして最後――情報の洪水が過ぎ去った後。まるで“とってつけた”かのように――ノイズまじりの中で、かろうじて認識できる一文があった。


 ……。


『実績が解除されました』


『P■RK:Un■yi■g』


―――


『あなたは       76    番目』


―――


 本日の探索結果:発見済住人、なし。

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