飛び降りてください

中野半袖

昼も終わりの夕方

「このマンションに引っ越したいのですが」


吉田が選んだのは完成以来ワイドショーを賑わせている物件で、世界一の超高層マンションとして有名になっていた。


特に最上階までの10フロアにいたっては庶民が住めるような家賃ではなく、仮に入居が決まったら扱いは有名人にも引けを取らなかった。入居が決まるたびに、その人物の人となりがニュースに取り上げられ、最上階の住人はテレビに引っ張りだこになっている。


そんなマンションに、吉田はついに引っ越すことを決めたのだった。


しかし、吉田は芸能人でもなければ、大企業の社長でもない。どこにでもいる会社勤めの中年だ。


そんな男がなぜ引っ越しに踏ん切ることができたのか。それは数年前、吉田に莫大な財産が入ったからに他ならない。


遺産相続した山の中腹で、徳川の埋蔵金が見つかったのだ。


世紀の大発見に、吉田は一時期、時の人となった。しかし数日もすると、友人知人親戚から借金の申し入れが殺到した。小学校の担任やら幼稚園の担任などからも電話が来る始末で、果ては、全く記憶にない人物が友人だと言い張って自宅に押し寄せた。


嫌気が差した吉田は、家を売り払い、身を隠すように遠くに引っ越したのだった。それから数年間、素性を隠しながら暮らしていたが、当時のことを忘れることができなかった。


外を歩くだけで女性から次々に声をかけられるあの日々が懐かしかった。


そんなときに目にしたのが、このマンションのニュースだった。


「こちらのマンションに引っ越したいと?」不動産屋の受付が、怪訝な目で吉田を見ている。


このみすぼらしい男が何を言っているのだ、という思いが見て取れるほど、受付の態度はあからさまである。


しかし、吉田の顔をじっと見ていた男は、突然合点がいったようで


「お客様は、ひょっとしてあの埋蔵金の……」そう言って、姿勢を改めた。


吉田は頭をポリポリかきながら、どうもどうもと頭を垂れる。


「これは大変失礼いたしました、確かにお客様でしたらあのマンションが相応しいかと思います。ところが、住むためには条件がありまして」


「お金ならあります」吉田は、返すように言った。


「はい、吉田様が資金を十分にお持ちなのは誰もが知っています。しかし、条件とは資金のことではありません。あのマンションに住むためには、許可証を取得していただく必要があるのです」


「許可証。それは、どれくらいの金額ですか」


吉田は冷静だった。世界一のマンションに引っ越すのだ、通常の費用だけでは済むまいと予想していたからだ。


しかし、その予想は外れた。


「ですから、資金の問題ではないのです。許可証を取得するためには試験を受けていただき、合格する必要があります」


「え、試験? 何かテストを受けるということですか」


「はい、このマンションに住む住人としてふさわしいかどうか。こちらで確かめさせていただくのです」


「うーん、わかりました。試験を受けましょう」吉田は、ここまできて諦めるつもりは無かった。そして、意地でも動揺しまいと思っていた。


「ありがとうございます。ではさっそくですが、こちらが問題になります」


受付が差し出した問題用紙には、100問ほどの問題が書いてある。ところが、吉田にはそれがさっぱり分からなかった。紳士のマナー。人命救助の方法。気象予報。見たこともない化学式や長文の英語。現代古代の美術に関する問題などで、何を考えればいいのかすら分からなかった。


しかし、吉田は必死に動揺を隠した。そして、動揺を隠せば隠すほど、思考が回らなくなり、吉田の理性は限界を迎えた。


「こんなの無理ですよ! この問題と、あのマンションに住むことになんの関係があるんですか」吉田はカウンターをバンと叩いた。しかし、受付の男はいたって冷静だ。


「ご存知の通り、あのマンションは世界一でございます。住むだけでテレビ出演が決まります。しかし、そこで一流の振る舞いができぬ場合、我々の会社がお金だけで入居を決めていると思われてしまいます。企業のイメージダウンを防ぐため、そのような問題をクリアした方のみ許可証を発行しているのです」


カウンターに手を乗せたまま、吉田はプルプルと震えていた。金さえあればと思っていた自分が恥ずかしいと同時に、何もできない不甲斐なさが情けなかった。


「わかりました。それでは仕方ありません、この話は無かったことにしてください」


吉田は受付の男に一礼をすると、振り返ること無く帰っていった。


建物から出ると、突然男に声をかけられた。


「あんた本当に諦めるのかい? あのマンションに住んでみたくないのかい」


見ると、さっきの受付の男にそっくりである。


「あれ、あなたはさっきの」


「似てるだろ、俺はあいつの双子の兄さ。俺はこうやってあのマンションの試験に落ちた客に声をかけているのさ。もちろん、受付をやっている弟から連絡を受けてな」


「私に何の用ですか……」


「あんたをあのマンションに住めるようにしてやるよ」男はニヤニヤして言った。


「住めるようにって、私にはあの試験は無理だ。問題すら意味が分からない」


「問題なんか解く必要ないさ、許可証を作ってしまえばいいのさ」


「作るって……、そんなことできるんですか?」吉田はまさかと思った。


「許可証を発行しているのは俺の弟だ。弟は許可証の全てを覚えている。だからそれを真似して作ってやるのさ」


確かに住みたい。しかし、そんな不正をしてまでのことだろうか。いや、しかしそれでも住みたいのかもしれない。吉田は埋蔵金が見つかったときのことを思い出していた。


吉田が迷っていると、男は言った。


「ここだけの話だが、すでに数人分の許可証を作っている。誰とは言わないが、あのマンションの上層部に住んでいる何人かは、偽の許可証で暮らしているんだ。これが最後だ、あんたはどうする?」


結局、吉田は偽の許可証を作ってもらうことにした。


数日後、吉田のもとに偽の許可証が届いた。カード型の許可証には、しっかりとマンションの部屋番号が記載されている。書類はすべて、受付にいた弟のほうが作成してくれたので吉田は相応の金額を支払うだけだった。かなりの額になったのだが、それでもマンションに住めることが嬉しかった。


「これで私も、再び有名人の仲間入りだ」許可証を見つめながら吉田が言った。


数週間後、吉田はマンションへの引っ越しを行った。エントランスのタッチパネルに許可証を重ねると

「オメデトウゴザイマス。ニュウキョヲカンゲイイタシマス」

というメッセージと共に、住居スペースへのエレベーターが開いた。吉田は、憧れの世界へと登っていった。


暮らし始めると、上層階に住む者同士の交流もあり、すぐに知り合いが増えた。皆、どこかの社長や院長などが多かったが、何の教養もない吉田ともすぐに打ち解けた。許可証という同じ試練を乗り越えた者同士、絆のようなものを感じていたのかもしれない。


それから吉田は、たびたびテレビに取り上げられた。過去の埋蔵金のこともあり、再び騒がしい日々を送っていた。


これだ、私が欲しかったのはこの生活なんだ。吉田は偽の許可証をぎゅっと握りしめた。


ある日、住民専用のラウンジで飲んでいると、入居時の試験の話になった。皆しきりに「あれは難しかった、あれは難しかった」と嘆くので、吉田も「あれは実に難しかったですな」と話を合わせた。とにかく本当に難しかったようで、詳しい内容を覚えている者はおらず、吉田はホッとした。


偽の許可証を作るために、財産の3分の1を使ってしまったがその価値はあったと吉田は思った。どこへ行くにも吉田は羨望の視線を感じたし、事実、女性に声をかければ必ずついてくる。女性に関しては困ることは無かった。


しかし、夢のような生活に悲劇が起きた。吉田のマンションで大規模な火災が発生したのだ。マンションはちょうど真ん中から燃え広がり、じわじわと高層階まで迫っていた。


超高層マンションには、消防車は届かない。さらにその日は数年に一度の強風により、ヘリコプターでの救助も不可能だった。不運なことにエレベーターは点検中だった。


火の手はどんどん吉田の住むフロアに向かっている。


「どうしましょう、どうしましょう!」


上層階の住人たちは、文字通り右往左往しながらフロア内を走り回っていた。エレベーターホールからは煙が立ち込め、吉田たち住人は、上へ上へと追い詰められる。


ついに屋上に出てしまい、もはやどこへも逃げることができない。このまま燻製になるのを待つばかりとなったとき、マンションの周りを旋回していたヘリコプターから声がした。


「許可証を持って飛び降りてください! 許可証には安全装置が内蔵されており、飛び降りた瞬間、全身を超ダメージ吸収型クッションが包みます! 絶対に死ぬことはありません! 許可証を持って飛び降りてください!」ヘリコプターからは、マンションのオーナーであり、不動産会社の社長が拡声器を使って声を張り上げていた。


なるほどそうかと、住民たちは貴重品と一緒に持ち出した許可証を手に取り、迫る火から逃げるように飛び降りた。


「まさか、こんなに早くあの許可証の機能性を試せるときがくるとはな」ヘリコプターの中では社長と開発部長が話していた。


「機能を世間に広めるためには、実際の災害時にマスコミに生中継してもらうのが一番だ。これでまた、マンションへの入居希望者がぐっと増えるぞ」社長がニヤリと笑う。


「そうですね、今日まで情報が漏れなかったのも末端の社員には知らせず、機密事項として扱ったのがよかったですね」


ふたりは、落ちていく住人たちを見下ろしながらガハハと笑った。


吉田は落ちていく途中、自分の許可証のことを思い出し青ざめていた。ふと、横を見るとお隣の佐藤さんも青ざめていた。上の階の後藤さんも、下の階の尾藤さんも全員が青ざめていた。


そして、その日マンションから飛び降りた者の許可証はどれひとつとしてクッションになることは無かった。

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飛び降りてください 中野半袖 @ikuze

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