もしもの話~麋夫人の手紙~

胡姫

もしもの話~麋夫人の手紙~

もしもの話をしよう、とその粗衣に身を包んだ男はほんの戯れのように言った。男の酒瓶は既に空である。空の杯を示し、思わせぶりに唇を湿した顔は酒をねだっているのだとすぐ知れた。偶々隣に居合わせただけの男に酒を奢るいわれはなかったが、どことなく郷里の訛りに似た言葉に興味を引かれ、彼は男のために新たな酒を注文してやった。


運ばれてきた酒を男は実にうまそうに啜った。


「あんた、蜀の人だね。先主の夫人に麋夫人という人がいたのを知っているか」


先ごろ滅んだ国の皇帝だった劉備のことを、男は畏敬を込めて先主と呼んだ。半ばとろんとした酔眼を向け、男はもしもの話だが、と前置きした。


「麋夫人は井戸で死んだんだが、実は死んでいなかったという話があるんだ」


麋夫人とは今をさかのぼること数十年前、長坂の戦いの折に命を落とした劉備夫人の名である。地元ではこんな逸話が残っている、と男は話し始めた。


概要は以下のようなものである。




井戸に石が投げ込まれた後も麋夫人は生きていた。趙雲が投げ込んだ大きな石と小さな石は荒く掘られた井戸内で互いに噛み合い、麋夫人が伏せた井戸底にわずかな空間を残したのである。石たちはさながら麋夫人を守る寄木細工の蓋のように彼女の頭上を覆っていた。しかし自分が圧死から逃れたことを麋夫人が知ることはなかった。麋夫人は気絶していたのである。


戦闘から一夜明け、村人たちが集落に戻ってきた時、呉から来た商人が井戸から不思議な光が発しているのを発見した。商人が覗き込むと井戸には石が詰まっており、光はその隙間から差していた。さながら伝説の玉璽の如く。怪しんだ商人が従僕に石を取り除かせると。身なりの良い貴婦人が横たわっているのが見つかった。貴婦人は装飾品を身につけており、その宝石が朝の光を反射して井戸から光を発したものと思われた。


「これは…何かのお導きであろうか」


思いもよらぬ光景に商人は心を打たれたように呟いた。商人は商売人にしては珍しく人柄のよい男であった。人柄の良さが災いして大儲けには縁がなかったが暮らしが成り立てば充分と考える男であった。そうでなければまだ辛うじて息のある彼女を殺し、宝石を根こそぎ奪っていただろう。商人がそのような男でなかったことは麋夫人にとって幸運であった。


商人は麋夫人を自分の屋敷に連れ帰り、医者を呼んで手当てをさせた。傷は深かったが致命傷ではなく、適切な処置を受ければ助かる命であった。そもそも身を投げたのは足手まといにならぬためである。ほどなく麋夫人は意識を取り戻し、自分が助かったことを知った。


しかし回復したのちも、麋夫人が自らの素性を商人に語ることはなかった。


「何も身代金を取ろうと言うのじゃない。貴女が誰なのか知りたいだけだ」


商人が幾度問うても麋夫人は首を横に振るばかりであった。劉備たち一行がその後どうなったのかは誰もが耳にしていた。自分が死んだと思われていることを知った麋夫人は、素性を明かして姿を現すことを躊躇ったのである。


ともあれ人の良い商人は、井戸から奇跡的に助かった彼女に何か人智を越えたありがたいものを感じた。商売の神様を拾ったような気すらした。事実彼女を拾ってから商人の商売は以前よりうまくいくようになった。回復した麋夫人が商売を手伝うようになり、商才を発揮した彼女のおかげでますます商売は繁盛するようになったからである。商人は麋夫人の素性を問うことを止め、商売の片腕として遇することにした。やがて商人は呉に戻り、麋夫人も同行して荊州を離れた。縁談もあったが、再嫁しなかった。


呉で充実した日々を送るうちに麋夫人は蜀にいる家族のことが気になり始めた。特に弟の麋芳にはいまだ温室育ちの危うさがあり、上官の関羽将軍と衝突しがちな部分が懸念の種であった。迷った末、彼女は弟に手紙を出した。


後に麋芳は関羽将軍を裏切り、蜀において長く裏切り者の汚名を被ることとなった。呉に走ったのは姉がいたからではないかと地元の者たちは噂した。




「ここで一つの疑問がある。麋夫人は、麋芳将軍に何と書いて送ったのだろう」


「さあ」


「裏切りを唆したか、あるいは単に会いたいとだけ言って送ったのか」


「事実ならまことに興味深い話だが、噂に過ぎない」


話を終えてもなお話したそうな男の杯に、彼は新たな酒を注いでやった。


「そう言うと思った。…だがその手紙が残っていたとしたら?」


男の酔眼がきらりと光った。


「あるのか」


「実は商人というのは俺の大叔父でね。一族も当時は羽振りが良かったんだが、今はこのざまさ」


国も無くなっちまうご時世だから仕方ない、と男は遠い目をした。


しかし彼は話に乗らなかった。首を振り、自分の杯に酒を満たした。


「手紙が本物かどうか、麋夫人の筆跡を知らなければ判断できぬではないか」


「まあ、そうなんだがね。気にならないかい?」


酔いのますます回った男は呂律の回らぬ口で彼に絡んだ。


「あんた、いくら出せる?手紙に興味があるなら、明日もう一度ここへ来な。時刻は……」




「麋夫人の手紙…本当なら驚くべき話だ」


小舟の行き交う河を眺めながら、彼、安楽公劉禅は誰にともなく呟いた。母と慕う彼女の死を誰よりも悼んでいたのは劉禅その人であった。もしかすると彼女の夫である劉備よりも深く悼んでいたかもしれない。戦場の幼い日に抱かれた記憶は今もなお心に残り、劉禅の胸を温かくさせるものだった。彼女の亡くなった地を訪れ、悼みたいというのは皇帝時代からの彼の望みであったのだ。国が滅んでからようやく願いが叶ったのは皮肉なことだ。


彼なら麋夫人の筆跡を知っている。麋夫人の筆跡を知る数少ない一人と言ってもいい。


民の間にはとかく真偽不明の噂が流れるものだ。男の話が事実である保証はない。手紙も真っ赤な偽物かもしれぬ。それでも。


「生きておられたかもしれぬ。それだけで充分」


そう言いながら、劉禅は手にした手紙を中身を見ずに焼き捨てた。




            (了)




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