第9話 プロポーズ
駅に向かって足早に歩くサラリーマン、まだ眠たそうに歩く大学生風の茶髪男性、仲良く友達同士おしゃべりしている女子高生、通勤途中のいつもの風景が今日も広がっている。
駅前では何かのキャンペーンが行われているらしく、青いジャンパーを着た女性が何かを配っており若い女性が列をなしていた。
出勤時間に余裕のあった僕はその列に並び、さわやかな微笑みを浮かべた若い女性から化粧水のサンプルを受け取った。
スカートを履くようになって1年が経ち、メイクも飛躍的に上手くなり、生活苦から自然と痩せて女性らしい華奢な体つきも手に入れた。
男とバレることはほぼなくなったが、こうやって女性向けのサンプルを疑いもなく手渡されると気分がいい。
気分よく出社したものの、井上さんに頼まれた郵便のあて名書きの前株と後株を書き間違えてビンタを食らったり、社用車のガソリン代を交通費で処理して斎藤さんに肘関節十字を極められたりといつも通りの日々が待っていた。
しょぼくれて給湯室で涙を流しているところに、恵梨香がやってきた。
「恵梨香、ごめん、コーヒー、紅茶?淹れるよ」
「大丈夫、そうじゃないから。それより、今日は社長の部屋の家事はいいから、私と食事に行こう」
「食事?」
「ロッカーに着ていく服入れておいたから、それに着替えてきてね。じゃ、私は取引先と打合せしてから行くから、現地集合ね」
恵梨香はお店の名前と住所の書かれたメモだけ残して、給湯室から去って行った。
その日、佐藤さんから頼まれた名刺を五十音順に並べ替える作業を終えると、オフィスには誰も残っていなかった。
誰もいない静かなオフィスに、僕のヒールの音だけが響いている。
ロッカーを開けると薄紫色のワンピースがハンガーにかけてあった。
手に取ってワンピースを眺めてみる。シースルーになっている袖と、太ももが見えそうなほど大きなスリットが妖艶さを醸し出している。
そんなワンピースを身にまとうと、魔法の様に今日の嫌なことは忘れてしまい、嬉しさだけが体を支配した。
舞踏会に向かうシンデレラのような気分で、足取りも軽く誰も残っていないオフィスの電灯を消して会社を出た。
◇ ◇ ◇
恵梨香のメモに書かれてあったのは高級なビルの一角に佇むレストランだった。
豪華なシャンデリアが輝いており、上品なピアノの音楽が空間に満ちていた。
周りのお客さんもみな上品な服に身を包み、重厚な雰囲気の中で会話を楽しんでいる。
白いテーブルクロスの上に花が飾られ、光によって輝いたシルバーウェアがテーブルに置かれていた。
対面に座る恵梨香もどこかで着替えてきたようで、会社の時に来ていたスーツではなく、上品な白のノースリーブのワンピースを着ていた。
ウェイターがグラスにシャンパンをついでくれた。
「乾杯」
シャンパングラスを軽く持ち上げる恵梨香を見て、僕もシャンパングラスを首のところまで持ちあげ恵梨香と視線を合わせた。
「警戒しなくていいわよ。今日はハバネロ入れてないから」
恐る恐るシャンパングラスに口をつける僕を見て、恵梨香は微笑んだ。
「まずは食事を楽しみましょ」
前菜のエビと野菜のジュレサラダを食べ始めた恵梨香を見て、恵梨香がこのお店に僕を呼び出した理由はわからないが、僕もまずは食事を楽しむことにした。
大学時代の昔話や恵梨香が今取り組んでいる仕事など、他愛もない会話をしながら食事を楽しんでいると、メインのステーキがテーブルに置かれた。
深紅の赤ワインを注がれたワイングラスをウェイターから受け取ると、恵梨香は僕の方に視線を向けた。
「奨吾、そのワンピース似合ってるよ」
「ありがとう。奇麗な服着ると、気分も上がるね」
「奨吾も変わったね。前はスカート履くの嫌がってたのに、いまではきれいなワンピ―ス着て喜んでる」
揶揄うように言った彼女は、ステーキを一口食べると、ナプキンで口をふいた。
「奨吾もうちの会社にきて1年になるね」
「うん」
「その割には、仕事は相変わらずミスばかり。今日も井上さん怒ってたよ。小学生の方がまだ役に立つって、言ってた」
そう話す彼女は怒ってはおらず、冷静な口ぶりだった。
「それで、どうするの奨吾?仕事はできない、男なのにスカート履いている変態だし、借金は抱えているし」
「それは、恵梨香が無理やり……」
「うん、私が悪いとでもいうの」
それまでの温厚な笑みは消え、眉間にしわを寄せ厳しい表情になった彼女はハンドバックから何かを取り出し始めた。
「いや、そうではなく……」
「まあ、いいわ。奨吾、私と結婚しなさい」
「結婚!?」
「貴方みたいな変態野郎と結婚してあげるって言ってるの。あなたの借金ぐらい余裕で返済してあげるし、仕事できないクズでも一生養ってあげる。他に選択肢はないでしょ」
随分と見下したプロポーズだが、僕の心は嬉しさで満ち溢れた。
「でも、恵梨香は社長と付き合ってるんじゃなかったの?」
「そうよ。でも、女同士結婚もできないし、子供もできない。それで、奨吾には今まで通り家事をしてもらって、子種も提供してもらうの。それで生まれてきた子は私たち二人で育てる。それで一生面倒見てもらえるなら、奨吾にとっても悪い条件じゃないでしょ」
恵梨香はそっと僕の方に小箱を差し出してきた。僕はその小箱を受け取り箱を開けると、指輪が入っていた。
僕はその指輪を左手薬指に通した。
「お願いします」
その瞬間、他のテーブルのお客さんからも拍手がわきおこり、レストランの中は祝福ムードに包まれた。
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