第4話 地獄に仏
オフィス内は静寂の空気に包まれていた。
営業担当の二人は外出中で、恵梨香と斎藤さんは黙々と自分の作業をしていた。
恵梨香の仕事を終えた僕は、いつも通り斎藤さんの後ろに立っていた。
「あの、斎藤さん」
「え!何!」
眉間にしわを寄せた鋭い視線で睨まれた。
「お、お手洗い、行ってきてもいいですか?」
「は~、またですか?今日3回目ですよね?」
うんざりした顔の彼女は、面倒くさそうにストップウォッチのボタンを押した。
仕事中にトイレに行くだけで毎回怒られてしまので、できるだけ昼休みにトイレをすませるのだが、今日は立ちっぱなしでトイレに行くことができず、その上ハバネロの辛みを抑えるために水をがぶ飲みしたので、尿意が限界に来ていた。
エレベータ横の共用トイレに恐る恐る中の様子を伺いながら入ると、運よく誰もいなかった。
この雑居ビルの3階には、他に2つの会社が入っている。
そこの男性社員とトイレで遭遇すると、最初のうちは驚かれるだけだったが、慣れてくるにつれあからさまな軽蔑の視線と「変態野郎」「スカート履いてて、恥ずかしくないのかよ」と罵詈雑言を浴びるようになった。
トラブルを起こして社長に知られるとマズい僕は、抵抗できずじっと耐えるしかない。
トイレの個室に入ると、スカートをおろして、ストッキング、ショーツを脱いで用を済ませる。用が済んだ後はまた着ないといけない。
小便器で簡単に済ませていたのと大違いで、女性のトイレは時間がかかる。
トイレから小走りでオフィスに戻ると、ストップウォッチで時間を計測していた斎藤さんから辛らつな言葉が飛んだ。
「3分29秒。トイレだからって、ちんたら行って仕事さぼらないでください。3分29秒分、給料から減らしておきますね」
冷酷な口調でそれだけ言うと、斎藤さんはパソコンの方に向き直って再び黙々と作業を始めた。
直接的な暴力もつらいが、冷たくあしらわれるのも精神的に堪える。
再び斎藤さんの後ろで仕事が来るのを待っていると、ドタバタと大きな足音をたて、井上さんが営業先から帰ってきた。
「あ~疲れた。中村、カフェオレね、アイスで」
ようやくやる事を与えられた僕は喜んで給湯室へと向かい、冷蔵庫から水出しのアイスコーヒーを取り出すと牛乳で割って氷を入れた。
「お待たせしました、アイスカフェオレです」
返事をすることもなく、彼女はストローに口をつけアイスカフェオレを飲み始めた。おおよそ半分を一気に飲み干すと、戻ろうとしていた僕を呼び止めた。
「これから、もう一軒行かないといけないところがあるの。このファイル印刷しておいて。両面カラーで20部」
井上さんは指示を出すと、カフェオレ片手に経費精算のために斎藤さんのところへ行ってしまった。
パソコンを操作してファイルを開いた。プレゼン用の資料のようだ。僕は言われた通りに、両面カラーで印刷を始めた。
経費精算が終えた井上さんは、僕がホッチキス止めしている印刷された資料を一部手に取ると、眉間にしわを寄せた。
「何、これ!」
「何かマズかったですか?」
「何がマズいって、わからないの!『長辺でとじる』と『短辺でとじる』が逆でしょ!こんな資料使えないよ」
「申し訳ありません」
僕は今日二度目の土下座で許しを請うた。
ちょうどその時、別の営業先から佐藤さんが返ってきた。
「えっ、何、次は何をやらかしたの?」
「コイツが『長辺でとじる』と『短辺でとじる』を間違えたの」
「5ページかける20部で100ページ。ランニングコストが1ページ10円だから1000円の損失か」
佐藤さんは計算しながら、僕の頭に足をのせた。
「ほら、土下座のとき頭はどうするの?」
彼女の足に踏みつけられた僕の額は、床に擦り付けられた。
「時間もないし、佐藤さん手伝ってくれる?」
「はい、私ホッチキス止めしますね」
「ありがとう、今からプリントアウトするからよろしく」
頭を下げたたまま謝るしかない僕を無視するかのように、二人は資料を出し直しを始めた。
「じゃ、行ってきます」
オフィスをでる井上さんの声が、土下座を続ける僕の耳に聞こえてきた。
もう、いいかなと思い顔を上げると、お尻に強烈な蹴りが入った。
再び佐藤さんの足が僕の頭の上に乗った。
「誰が頭あげて良いって言った?井上さん帰ってくるまで、続けなさい」
◇ ◇ ◇
どれくらいの時間が経ったのだろう。頭を上げることが許されない僕には時間を確かめることすらできない。
「お先失礼します」
帰ろうとする斎藤さんの声が聞こえてきた。6時は回っているようだ。土下座を始めたのが4時過ぎだったので、2時間近く土下座を続けていることになる。
早く井上さんが帰ってくることを願っているが、まだ帰ってくる気配はない。
「奨吾、顔上げてもいいよ」
恵梨香の声がした。顔をあげると恵梨香が僕の前に立っていた。
「井上さん、営業先から直帰するって、さっき連絡があった。社長と佐藤さんも帰ったし、もういいよ」
「ありがとう」
土下座をやめて立ち上がると、今日初めてかけられた優しさに思わず涙があふれてきた。
そんな僕を恵梨香は抱きしめてくれた。
「奨吾、みんなあなたに早く一人前になってほしくて、厳しくしてるの。そこのところわかってね」
「は……い」
「役に立たないからクビになったら、奨吾も困るでしょ」
単なるストレス発散だと思うが、彼女の言葉を信じることにした。
「わかったのなら、今度服買いに行こう」
「服?なんの?」
「通勤に着てくる服よ。いつまでも事務服で通勤するのもおかしいよ」
たしかに通勤中、事務の制服だと目立ってしまう。むしろ私服の方が、その他大勢に紛れることができそうだ。
「わかってくれてありがとう」
頷く僕の頭を彼女は優しく撫でてくれた。
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